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第一章:名前のない記事

第一章です。


序章では「消された声」と「作られた平和」の入口を描きましたが、ここから主人公ハルトは、父が追っていたものへ少しずつ近づいていきます。


今回登場するナギは、この物語において非常に重要な人物です。

彼女は単なる協力者ではなく、「言葉で人を傷つけた側」にいた人間として、ハルトの怒りや正義感と向き合うことになります。


静かな会話の中に、この国の怖さが少しずつ滲み出るような章になっています。

地上へ出ると、街はいつも通り清潔だった。


雨上がりの舗道には、街路樹の葉から落ちた水滴が小さく光っている。

交差点の大型ビジョンでは、白い制服を着た子供たちが歌っていた。


――今日も、調和ある一日を。


歌声の後に、天地教団の紋章が映る。

天を示す円と、地を示す四角。

その二つが重なった、どこか目に優しすぎる記号。


誰も立ち止まらない。

誰も見上げない。

その映像は空気と同じだった。


僕の端末が鳴った。


軽い、澄んだ音。


画面には、今日の調和スコアが表示されていた。


《本日の行動評価:安定》

《公共施設勤務加点:+3》

《文化資源保全貢献:+2》

《感情波形:軽度の乱れを検出。深呼吸を推奨します》


僕は画面を伏せた。


感情波形。


いつからこの国は、人間の不安にまで点数をつけるようになったのだろう。


いや、たぶん最初からだ。

僕たちがそれを便利だと呼ぶようになるまで、名前を変えながら待っていただけだ。


地下のアーカイブ室で聞いたホワイトノイズが、まだ耳の奥に残っている。


サーッ。


白く、清潔で、感情のない砂嵐。


その音に重なるように、七年前まで隣に住んでいた少女の名前が、頭の中で何度も浮かんでは消えた。


三原ユイ。


それがリストに残っていた名前だった。


僕はその名を、今朝まで忘れていた。

忘れたことにすら気づいていなかった。


駅前の歩道橋を渡ると、白いテントが並んでいた。

天地教団の生活相談所だ。


「最近、眠れていますか」

「不安は、ひとりで抱えずに」

「あなたの乱れは、社会の乱れではありません。整えることができます」


柔らかい言葉が、柔らかい紙に印刷されている。

受付の女性は、通りかかった老人に笑顔で小冊子を渡していた。老人は何度も頭を下げ、それを胸に抱えるようにして去っていく。


たぶん、彼は救われたのだ。


少なくとも、本人はそう感じている。


だからこの国は厄介だった。

天地教団は、ただ奪うだけの怪物ではない。

泣いている人間のそばに座り、温かいスープを差し出し、壊れかけた生活に手を伸ばす。

その手を握った人間は、やがて自分の首にかけられた紐にも感謝するようになる。


僕はテントから目を逸らし、古い雑居ビルの階段を上がった。


三階。

看板のない印刷所。


父のUSBメモリに残されていた空白フォルダの中には、いくつかの断片的なデータがあった。

大半は壊れていたが、そのうち一つだけ、紙媒体の管理番号らしい文字列が復元できた。


《K-17 / 紙面保管 / 再分類済》


電子データが消されているなら、紙を辿るしかない。


この印刷所は、十年前まで独立系新聞の下請けをしていた。

父が生前、何度か出入りしていた場所でもある。


入口のガラス戸には鍵がかかっていなかった。

中に入ると、インクと埃の匂いがした。


「すみません」


返事はない。


蛍光灯の一本が、切れかけた虫のように震えていた。


奥から、紙をめくる音が聞こえた。


「営業はしてないよ」


しゃがれた声だった。


棚の陰から、痩せた老人が顔を出した。

白髪を後ろで束ね、丸い眼鏡を鼻の先に乗せている。


「図書館の者です。古い紙面の照会で来ました」


僕が身分証を見せると、老人は目を細めた。


「市立中央図書館か。まだ地下は生きてるのか」


「ええ。半分くらいは」


老人は小さく笑った。

冗談を言ったつもりなのか、本気なのか分からなかった。


僕はメモに写した管理番号を見せた。


老人の顔から笑みが消えた。


「どこでそれを」


「父の遺品から見つけました」


「名前は」


「柏木透です」


老人はしばらく黙っていた。


印刷機の奥で、水滴が落ちる音がした。


「……あんた、透さんの息子か」


父の名前を、久しぶりに他人の口から聞いた。


それだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。


老人は入口のブラインドを下ろし、僕に奥へ来るよう手で示した。

狭い通路を抜けると、倉庫のような部屋に出た。壁際には古い紙束が積み上げられ、ところどころに赤い紐が巻かれている。


「今は何でもデータだ。だから消しやすい。紙は場所を取るし、燃えやすいし、湿気に弱い。だが、消す側にとっては面倒でもある」


老人は棚の下段から、紐で縛られた新聞の束を引きずり出した。


「探してるのは、これだろう」


束の一番上に、見出しがあった。


《不安を売る記者たち――災害便乗デマの構造》


心臓が、一拍遅れた。


記事の中央に、父の顔写真が載っていた。

僕の記憶の中の父より、ずっと疲れた顔をしている。


記事は父を、災害の混乱に乗じて市民の不安を煽った扇動者として描いていた。


――根拠なき通信隠蔽説。

――支援団体への悪質な中傷。

――遺族感情を利用した売名行為。

――社会不安を拡散する無責任な言論。


文体は冷静だった。

感情的な罵倒はない。

怒りも、悪意も、ほとんど見えない。


それが余計に気持ち悪かった。


読者が安心して父を嫌えるように、文章の温度が丁寧に調整されている。

父を憎むのではなく、父から距離を取ることが、良識ある市民の態度なのだと思わせる文章だった。


「この記事が出た翌日から、透さんの周りから人が消えた」


老人は言った。


「取材協力者は連絡を絶ち、掲載予定だった新聞社は契約を切った。近所の人間は挨拶をしなくなった。電話も繋がらない。銀行の審査も落ちた。病院の予約も後回しにされた。まだ調和スコアなんて名前はなかったが、仕組みはもう始まっていた」


僕は紙面の下を見た。


署名欄は空白だった。


「誰が書いたんですか」


老人は答えなかった。


代わりに、紙面の端を指でなぞった。


「印刷用の版下には、表に出ない管理記号が残る。普通は誰も見ない。見る必要もない」


老人は古いルーペを渡してきた。


紙面の右下、広告欄との境目に、ほとんど傷のような小さな文字列があった。


《NG-0421》


「これは?」


「当時、教団の広報局が外部に出していた原稿の管理番号だ。NGは、おそらく筆名か部署名だろう」


「ナギ」


自分の口から、その音がこぼれた。


老人は驚いたように僕を見た。


「知ってるのか」


「いいえ。ただ……父のUSBにも、その文字列がありました」


空白フォルダの中に、一つだけ残っていた断片。


《NAGI / correction / social-risk narrative》


意味は分からなかった。

けれど、今なら分かる気がした。


ナギ。


父を殺したわけではない。

車のブレーキを壊したわけでも、暗闇の道路に追い込んだわけでもない。


ただ、父が孤立するための言葉を書いた。


社会が父を見捨ててもいい理由を、丁寧に整えた。


僕は新聞を握りしめた。


紙が軋んだ。


「その人は今どこに」


老人はしばらく僕を見ていた。

そして、低い声で言った。


「探すのはやめておけ」


「知ってるんですね」


「知っている。だが、会ってどうする。殴るのか。責めるのか。それで透さんが戻るのか」


「戻りません」


声が震えていた。


「でも、何をしたのかは聞きたい」


老人は目を伏せた。


「彼女も消えかけている」


「彼女?」


「ナギは女だ。教団の広報にいた。言葉を作るのがうまかった。うますぎた。人を安心させる言葉も、人を遠ざける言葉も、同じ声で書ける人間だった」


老人は紙束の下から、折り畳まれたメモを取り出した。


「数年前、一度だけここに来た。自分が関わった記事を全部燃やしてくれと言ってな。断ったよ。燃やしたら、なかったことになる」


メモには住所が書かれていた。


西二区、旧団地群。

すでに再開発から外れた、スコアの低い人間が流れ込む場所だった。


「行くなら、昼にしろ。夜は端末の電波も不安定になる」


僕はメモを受け取った。


老人は僕の手元の新聞を見た。


「それは持っていけ」


「いいんですか」


「紙は重い。真実も重い。持てる人間が持てばいい」


階段を降りる時、端末がまた鳴った。


《非推奨区域への移動傾向を検出》

《目的地を再確認してください》

《安全な経路を表示しますか?》


僕は通知を消した。


空は曇っていた。


歩道の向こう側では、天地教団の白いテントがまだ開いている。

相談に来た人々が、順番を待って椅子に座っていた。

誰も怒っていなかった。

誰も泣いていなかった。

みんな、静かに自分の番を待っていた。


その姿が、ひどく怖かった。


西二区へ向かう電車は、中心街の地下を抜け、やがて地上へ出た。


窓の外の景色が変わっていく。

磨かれたビルの壁面から、広告の剥がれた団地へ。

整えられた街路樹から、枯れた植え込みへ。

調和のある街から、調和に選ばれなかった街へ。


車内アナウンスが流れる。


「次は、西二区旧住宅前。降車後は、端末の安全通知に従って行動してください」


乗客は少なかった。


向かいの席に座っていた母親が、幼い子供の耳元で囁いた。


「あっちを見ちゃだめ」


子供は素直に頷いた。


僕は窓に映る自分の顔を見た。


父に似ていると思ったことは、ほとんどなかった。

けれどその時だけ、窓の中の自分が、新聞に載っていた父の顔と重なった。


旧団地前の駅は、改札機の半分が壊れていた。

いや、壊れているのではない。使われていないのだ。

人が通らない場所は、修理されない。


端末の地図は、目的地の周辺を灰色で塗りつぶしていた。


《情報が不足しています》

《安全性を確認できません》

《中心区域へ戻ることを推奨します》


僕は紙のメモだけを頼りに歩いた。


団地の壁には、古い教団ポスターが貼られていた。

色褪せた導師の笑顔の下に、誰かが黒いペンで小さく書き足している。


――見ているぞ。


その文字だけが、奇妙に新しかった。


ナギの住所は、五号棟の四階だった。


エレベーターは止まっていた。

階段には湿った匂いがこもっている。

三階と四階の踊り場に、壊れた子供用の傘が置かれていた。


赤い傘だった。


僕は足を止めた。


三原ユイ。


名前が頭をよぎる。


顔はまだ思い出せない。

ただ、雨の日の赤い色だけが、妙に鮮明だった。


四階の一番奥。

表札はなかった。


僕は扉を叩いた。


返事はない。


もう一度叩く。


内側で、何かが床を擦る音がした。


「誰」


低い女の声だった。


「柏木ハルトです」


沈黙。


その後、扉の向こうで鍵が外れる音がした。


開いた隙間から、痩せた女がこちらを見ていた。


年齢は三十前後。

短く切った髪。

化粧気のない顔。

目の下には濃い影がある。


けれど、その目だけは奇妙に澄んでいた。

眠っていない人間の目ではなく、眠ることを自分に許していない人間の目だった。


「柏木」


女は僕の名前を繰り返した。


「透さんの」


「息子です」


彼女の表情が、ほんの少しだけ崩れた。


それは驚きではなかった。

怯えでもなかった。


もっと古い傷に触れられたような顔だった。


僕は鞄から新聞を取り出した。


《不安を売る記者たち》


その見出しを彼女に見せる。


「これを書いたのは、あなたですか」


女は紙面を見た。


逃げなかった。

言い訳もしなかった。

ただ、長い時間、その見出しを見ていた。


やがて彼女は、扉を少しだけ大きく開けた。


部屋の中は暗かった。

カーテンが閉め切られ、壁際には段ボールが積まれている。

机の上には、古い端末と、印刷された紙の束。

床には、丸められた原稿用紙がいくつも転がっていた。


「入って」


「答えてください」


僕の声は、自分で思ったより低かった。


「これを書いたのは、あなたですか」


女は僕を見た。


「そう」


短い返事だった。


胸の奥で、何かが焼けた。


「父は、この記事の後に孤立しました」


「知ってる」


「取材先を失って、仕事を失って、周りから人が消えた」


「知ってる」


「そのあと、死にました」


「知ってる」


僕は一歩踏み込んだ。


「それだけですか」


女は目を逸らさなかった。


「それだけじゃない。でも、あなたが聞きたいのは、私の後悔じゃないでしょう」


「後悔してるんですか」


「していると言えば、許す?」


その言葉に、僕は詰まった。


許す。


そんな言葉が自分の中に存在することすら、考えていなかった。


彼女は扉から手を離し、部屋の奥へ戻った。

拒絶ではなかった。

ついて来いという意味でもなかった。


ただ、もう逃げる力が残っていないように見えた。


僕は部屋に入った。


机の上の紙束に、見覚えのある文体が並んでいた。


「不安を手放すために」

「疑うより、信じる勇気を」

「孤独な怒りから、調和ある対話へ」


どれも優しい言葉だった。


優しすぎて、息苦しかった。


「私は、天地教団の広報局にいた」


女は背を向けたまま言った。


「ナギという名前は本名じゃない。原稿に付けられた管理名。凪いだ海の凪。波を立てない文章を書け、という意味だった」


「父を波だと?」


「違う」


彼女は振り返った。


「あなたのお父さんは、声だった。だから消された」


部屋の中が静かになった。


遠くで電車が走る音がした。

窓ガラスがわずかに震える。


「消したのは、あなたです」


僕は言った。


ナギは頷いた。


「そう」


「なぜ」


「救えると思ったから」


「誰を」


「社会を」


その瞬間、僕は彼女を殴りたいと思った。


本当に、そう思った。


でも拳は動かなかった。


たぶん、彼女の声があまりにも疲れていたからだ。

自分の言葉を、自分で何度も罰として読み返してきた人間の声だった。


「混乱していたの」


ナギは言った。


「災害の後、人々は誰かを責めたがっていた。政府を。警察を。教団を。隣人を。自分より先に水を受け取った誰かを。私は、その怒りを整える文章を書いた。怒りの向きを変えた。あなたのお父さんのような人たちに」


「それを、救いと呼ぶんですか」


「当時は」


彼女は小さく息を吸った。


「そう教えられていた」


僕は新聞を机に叩きつけた。


紙の音が、やけに大きく響いた。


「父は嘘をついていなかった」


「知ってる」


「じゃあ、なぜ」


「嘘かどうかは、重要じゃなかった」


僕は言葉を失った。


ナギは机の上から、一枚の紙を取った。

古い内部文書の写しだった。


そこには、教団のロゴと、短い指示文が印刷されている。


《対象の主張を否定する必要はない》

《対象の信頼性を低下させること》

《恐怖ではなく、距離を生ませること》

《市民が自発的に対象を避ける状態を理想とする》


手が冷たくなった。


父が殺された方法は、道路ではなかった。

もっと前から、父は殺されていた。


人々の善意で。

人々の不安で。

人々の「関わりたくない」という静かな選択で。


ナギは言った。


「私たちは、人を殺せと命じられたことはない。ただ、人が一人で壊れるまで、周囲から椅子を引いていった」


僕は紙を握りしめた。


「なぜ逃げたんですか」


「自分が書いた文章で、一人の男が消えた」


「父のことですか」


「違う」


ナギは首を振った。


「あなたのお父さんの後にも、私は書き続けた。疑いを持った教師。被災地の補償を求めた母親。教団施設から逃げた少年。私は彼らを悪人にはしなかった。ただ、少し不安定で、少し攻撃的で、少し社会に馴染めない人間として描いた」


彼女は机の上の紙束を見下ろした。


「その方が効くの。読者は、悪人を憎むより、面倒な人間から離れる方が簡単だから」


何も言えなかった。


ナギは引き出しを開け、小さな記録媒体を取り出した。


「これをあなたのお父さんに渡すはずだった」


「何ですか」


「東部大災害の空白の三日間。教団が消した音声ログの一部。完全なものじゃない。でも、マスキングの方式は分かる」


ホワイトノイズ。


地下で聞いた砂嵐の音が、再び耳の奥で鳴った。


「なぜ父に渡さなかったんです」


ナギの表情が、初めて歪んだ。


「怖くなった」


たったそれだけだった。


でも、その一言は、どんな言い訳よりも重かった。


「怖くなって、渡せなかった。翌週、あなたのお父さんは死んだ。私はそのニュースを、教団のオフィスの端末で見た。周りの人たちは、誰も驚かなかった」


ナギは記録媒体を机に置いた。


「持って行って」


僕はそれを見た。


「信用できると思いますか」


「思わなくていい」


「罠かもしれない」


「その可能性もある」


「あなたは、なぜ僕にこれを渡すんですか」


ナギは少しだけ笑った。


笑顔というより、壊れた表情だった。


「あなたが、私を許さない顔をしているから」


意味が分からなかった。


ナギは続けた。


「許してくれる人間は、怖い。許しは、時々、忘却と同じ顔をする。でもあなたは忘れない。忘れない人に持っていてほしい」


僕は記録媒体を掴んだ。


その瞬間、端末が震えた。


《注意》

《現在地の滞在時間が推奨値を超過しています》

《感情波形の乱れを検出》

《安全な帰宅経路を表示します》


ナギの端末も、同時に鳴った。


彼女は画面を見ずに言った。


「もう、見られてる」


「誰に」


「誰でもない。だから厄介なの」


部屋の外で、足音がした。


一人ではない。

規則正しい、複数の足音。


ナギは素早くカーテンの隙間から外を見た。


「裏階段」


「あなたは」


「私はここに残る」


「何を言って――」


「あなたが捕まれば、透さんが残したものも終わる」


彼女は机の下から古い紙袋を取り出し、僕に押しつけた。

中には紙の資料と、何本かの記録媒体が入っていた。


「西二区の端末網は古い。地下通路に入れば、数分だけ追跡が切れる」


「どうしてそこまで」


ナギは扉の方を見た。


足音が近づいている。


「あなたのお父さんに、言われたことがある」


「父に?」


「君の言葉は嘘だ。だが、君の心までは腐っていないはずだ、って」


胸の奥が詰まった。


新聞の端に、父が朱書きしたという言葉。

まだ見たことのない父の筆跡が、目の前に浮かんだ気がした。


ナギは初めて、まっすぐ僕を見た。


「私は腐ってた。でも、まだ全部じゃないと信じたい」


扉が叩かれた。


静かな音だった。


強制的ではない。

礼儀正しく、穏やかで、逃げ場を塞ぐ音。


「凪原さん」


外から男の声がした。


「定期面談の時間です」


ナギは僕の背中を押した。


「行って」


僕は動けなかった。


「ハルト」


初めて、彼女が僕の名前を呼んだ。


「真実は、人を救うとは限らない。扱いを間違えれば、人を消す。あなたのお父さんはそれを知っていた。だから、あなたも知って」


扉がもう一度叩かれた。


「凪原さん。開けてください」


僕は紙袋を抱え、台所の奥にある勝手口へ向かった。


振り返ると、ナギは部屋の中央に立っていた。

背筋を伸ばし、まるで自分が書いたすべての言葉を背負っているように見えた。


僕は階段を駆け下りた。


外は雨が降り始めていた。


団地の裏手に出ると、遠くで教団の白い車が停まっているのが見えた。

車体には、あの円と四角の紋章。


僕の端末が鳴り続けている。


《安全な経路から逸脱しています》

《安全な経路から逸脱しています》

《安全な経路から逸脱しています》


僕は走った。


紙袋を抱えた腕が痛い。

肺が焼ける。

雨が目に入る。


背後で、誰かの声が聞こえた気がした。


でも振り返らなかった。


地下通路の入口に飛び込む直前、紙袋の中から一枚の紙が滑り落ちた。

拾い上げると、それは古いリストの一部だった。


天地教団関連企業。

資金移動記録。

関係者名簿。


その中に、見覚えのある企業名と、幹部の名前があった。

父の記事を潰した新聞社に資金を流していた会社。


怒りが、喉の奥までせり上がってきた。


こいつらが。


こいつらが父を消した。

こいつらがナギに書かせた。

こいつらがユイを、街から消した。


地下通路の暗がりで、僕は立ち止まった。


ナギの声が頭の中で響く。


――真実は、人を救うとは限らない。


分かっている。


分かっているはずだった。


それでも、その時の僕には、真実が刃物に見えていた。

そして刃物は、握った瞬間、誰かに向けずにはいられなくなる。


僕は端末を取り出した。


雨で濡れた指が、画面の上を滑る。


その名前を、世界に投げ出した。


送信ボタンを押した瞬間、地下通路の奥で、ホワイトノイズのような風が鳴った。


サーッ。


僕はまだ知らなかった。


その一撃が、教団ではなく、何も知らない一組の親子を最初に消すことになるのだと。

第一章をお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、主人公ハルトが父の過去を辿る中で、ナギという人物に出会う回でした。


この章で描きたかったのは、「人を消す方法」は必ずしも直接的な暴力だけではない、ということです。

誰かを悪人に仕立てるのではなく、少しずつ信用を奪い、周囲の人々が自然に距離を取るように仕向ける。

その静かな排除こそが、この物語における大きな恐怖のひとつです。


また、ハルトは真実に近づきながらも、怒りに飲まれ始めています。

彼がこの後どのような選択をし、その選択が誰に届いてしまうのか。

次章では、その代償が描かれます。

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