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序章:ホワイトノイズの海

本作『調和の檻』は、実在する社会問題、政治腐敗、宗教団体と権力の癒着、そして人々が「考えること」を手放していく恐ろしさから着想を得たフィクションです。


作中に登場する国家、組織、宗教団体、人物、制度はすべて架空のものです。特定の実在する団体や個人を直接描いたものではありません。


しかし、本作で描かれる「優しい言葉による支配」「救済を名乗る管理」「信仰と権力の結びつき」「社会から静かに人が消えていく構造」は、決して完全な空想だけで生まれたものではありません。


現実の社会にも、善意や救済の名を借りて人を縛るものがあります。

信じることそのものが悪なのではありません。

けれど、信じることを利用し、人の自由や生活、声を奪う仕組みが生まれた時、それはもはや救いではなく檻になります。


この物語は、特定の信仰を否定するためのものではありません。

誰かを一方的に断罪するためのものでもありません。


ただ、もし私たちが「安心」や「平和」という言葉に寄りかかりすぎた時、何を見落とし、誰の声を聞き逃してしまうのか。

そのことを考えるために、この物語を書きました。


本作に登場する「天地教団」は架空の存在です。

けれど、それが象徴しているものは、ひとつの団体だけではありません。


権力。

沈黙。

同調。

善意の顔をした支配。

そして、考える苦痛から逃れたいと願う、人間の弱さそのものです。


この物語が、誰かにとって「疑うこと」や「考え続けること」の意味を見つめ直すきっかけになれば幸いです。

私が住んでいる国は、表向きは平和だった。


街には笑顔があり、学校では未来が語られ、ニュースでは豊かさが讃えられていた。

誰もが同じように安心し、同じように感謝し、同じように沈黙していた。


けれど今なら分かる。


あれは平和ではなかった。

音を消された悲鳴だった。


市立中央図書館、地下三階。

アーカイブ室には窓がない。あるのは、古い空調の低い唸りと、サーバーラックの奥で点滅する青いランプだけだった。


僕はデスクに肘をつき、ヘッドホンの位置を少し直した。

モニターには、十年前に起きた「東部大災害」の音声ログが表示されている。


公式の記録では、その災害は「国民が調和の大切さを再確認した転機」とされている。

教科書にもそう書かれている。

記念式典では毎年、天地教団の導師が穏やかな声で祈りを捧げる。

ニュース番組は決まって、白い制服の支援団体が被災者に毛布をかける映像を流す。


だから、誰も疑わない。


十年前、あの三日間に何が起きたのかを。


僕は再生ボタンを押した。


サーッ、という音が流れた。


雨の音にも似ていた。

古いテレビの砂嵐にも似ていた。

けれど、それは自然な雑音ではなかった。


波形が綺麗すぎる。


ノイズというものは、本来もっと汚い。途切れ、揺れ、裂け、偶然の形を残す。

だが、この音は違った。

均されている。

整えられている。

誰かが、そこにあった何かを削り取り、その跡地を白い砂で埋めたようだった。


「……またか」


僕は音量を上げた。


何も聞こえない。

いや、正確には、何も聞こえないようにされている。


その奥で、誰かが助けを求めている気がした。


気がした、というより、そうでなければ説明がつかなかった。

この国の記録は、いつも肝心なところだけが静かすぎる。


災害直後の通信。

避難所からの報告。

警察無線。

地方庁舎の通話記録。


残っているのは、どれも同じ音だった。

均質で、清潔で、感情のないホワイトノイズ。


地上では今ごろ、人々の端末から軽やかな通知音が鳴っているはずだ。

今日の善行が記録され、消費が評価され、誰かへの感謝が点数になる。

調和スコア。

この国で生きるために、誰もが持っている見えない身分証。


高ければ、世界は優しい。

低ければ、世界は少しずつ返事をしなくなる。


病院の予約画面が混み合う。

求人の通知が届かなくなる。

役所の申請が保留される。

学校からの連絡が遅れる。

そしていつか、その人の名前は、会話の中からも消える。


誰も追放されたとは言わない。

ただ、見えなくなるだけだ。


僕はヘッドホンを外した。


耳の奥に、まだ砂嵐が残っていた。


デスクの引き出しを開ける。

奥に隠していた真鍮色の古いUSBメモリを取り出した。


父の遺品だった。


記者だった父は、十年前の災害を追っていた。

公式発表と実際の時系列が噛み合わない、と言っていた。

消えた通信がある、とも言っていた。


そしてある夜、帰ってこなかった。


警察は事故だと言った。

ニュースは一度も父の名前を出さなかった。

母はその日から、テレビをつけなくなった。


USBメモリには、たった一つだけファイルが入っていた。

暗号化された、名前のないファイル。


僕は父の誕生日を打ち込んだ。

開かなかった。


母の命日を打ち込んだ。

開かなかった。


最後に、父がよく口にしていた言葉を打ち込んだ。


「声を残せ」


画面が一度だけ暗くなった。


派手な警告も、無数のウィンドウも出なかった。

ただ、デスクトップの隅に、見慣れないフォルダが一つ増えていた。


名前はなかった。

空白だった。


僕は息を止めて、そのフォルダを開いた。


中には、復号途中のリストがあった。

ほとんどの文字は潰れて読めなかった。

数字の列、欠けた住所、途中で途切れた家族構成。


その中に、一件だけ、名前が残っていた。


七年前まで、僕の隣の家に住んでいた少女の名前だった。


僕はしばらく、その文字を見つめていた。


顔が思い出せなかった。

声も、歩き方も、どんな服を着ていたかも。


けれど、ひとつだけ思い出した。


雨の日、彼女が赤い傘を持って、家の前で僕を待っていたこと。

それから、いつの間にかいなくなったこと。

そして僕自身が、その不在を一度も不思議に思わなかったこと。


胃の奥が冷たくなった。


この国は、人を消す。

記録から消し、街から消し、最後には、誰かの記憶からも消す。


僕はUSBメモリを握りしめた。


父が残したものは、真実そのものではなかった。

真実へ続く、ひとつだけ開いた傷口だった。


ヘッドホンの外れた机の上で、音声ログはまだ再生されている。


サーッ。


白く、清潔で、整えられた砂嵐。


その奥で、誰かが泣いている。


僕はフォルダを閉じ、USBメモリをポケットに押し込んだ。


地上へ出よう。


父が辿り着けなかった声を探すために。

そして、この国を覆う透明な檻に、最初の亀裂を入れるために。

序章「ホワイトノイズの海」では、物語全体の中心となる二つの要素を描いています。


ひとつは、「消された声」です。


この国では、人は突然暴力的に消されるのではありません。

記録から外され、制度から弾かれ、周囲の人々が少しずつ距離を取り、やがて最初から存在しなかったかのように扱われます。


もうひとつは、「作られた平和」です。


平和とは本来、人々が自由に考え、語り、時に衝突しながら守っていくものです。

しかし作中の国では、平和は上から与えられるものになっています。

不安は管理され、怒りは矯正され、疑問はノイズとして処理される。

その結果、人々は穏やかに暮らしているように見えながら、少しずつ自分の意思を手放していきます。


主人公ハルトは、まだ英雄ではありません。

彼は真実を知ろうとする一方で、怒りに飲まれ、のちに大きな過ちも犯します。

この物語は、「正しい側の人間が悪を倒す話」ではありません。


真実を暴くことも、人を傷つけることがあります。

正義も、扱いを間違えれば暴力になります。

それでも、声を消された人々をそのままにしていいのか。


序章は、その問いの入口です。


ホワイトノイズの奥に何が隠されているのか。

天地教団とは何なのか。

そして、ハルト自身がこれから何を壊し、何を背負うことになるのか。


この先の物語で描かれるのは、単純な勝利ではありません。

自由を取り戻すことの痛みと、考え続けることの重さです。

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