10-16 私とオフィスと崩れた礼
嫌だ!
見られたくないっ。
もつれて動かない足を必死に動かして一度転び這うように立ちあがり必死に逃げたのに由香里さんは私をちゃんと捕まえた。
「離してっ!!」
手を振りほどこうと動かす度に痛みがぎちぎちと私に襲い掛かり気絶しそうに頭がふらつく。
彼女は私を自分の背に隠して礼と向き合った。
表情ひとつ変えずに笑った彼が由香里さんに手を出す。
「涼を返して貰おうか」
その言葉に彼女が首を振った。
その私を押さえる手が震えていて後から追っかけてきた祐樹さんが礼をまた羽交い絞めにした。
それに抵抗しながらそれでも笑顔を浮かべる表情を由香里さんの背から見て背筋が凍った。
あれは誰?
目を開き見てもそれは佐久間礼だった。
佐久間礼の姿をした、誰なんだ。
「離せって祐樹。俺は大丈夫だから」
もがく彼が祐樹さんに言うが祐樹さんはそれを離さなかった。
彼にもこの狂気が溢れた状態が分かっているんだろう。
「祐樹!ほら、涼が待ってるんだから、離してくれって」
そう言って振り払いまた歩き始めて由香里さんと私は後退りする。
怖い。
ものすごく怖い。
その距離を詰めながら礼がにこにこしながら近づいてきて祐樹さんがそれを止めようとすれば後ろ手に振り払う。
もう車道に出てしまうくらい追いつめられて礼の手は由香里さんの体にかかった。
「あんまり乱暴な事はしたくないんだけど、ね。離してくれないなら祐樹の大事な人でも力づくでどかすよ」
「やればいいじゃない、どかないわ。今の貴方に涼ちゃんは渡せない。何て目をしてるの!」
由香里さんが次の瞬間横に飛んで行った。
彼女の小さな悲鳴と祐樹さんの名を呼ぶ声が聞こえる。
礼はまるで汚い物でも触ったように手を少し宙で払い衝撃で尻もちをついた私に向かって深い笑顔を作った。
そのまま視線を合わすようにしゃがみこみゆっくりと私に手を伸ばしてくる。
びくっと体を揺らしてもそれは止まらず顔を隠していたマフラーを少しずつ剥がしていく。
嫌だと両手で顔を覆えばそれも許されず片手だけで手首をつかみどかそうとする。
長く手錠が掛かっていたそこはひどく痛み顔を歪めたがそれすらも彼を止める事は出来なく横にずらされたまま向かい合う。
「涼」
彼がいつもと寸分変わらない低くそれでいて伸びのある綺麗な声で私の名を呼んだ。
もう片方の手で頭をそっと撫でてくる。
びくびくと手が当たる度に体を震わせても彼は構わず撫でた。
もうそれは私の知っている彼じゃない。
礼ならそんな事しない。
怖がっていると分かれば手を止める。
嫌がっていると分かれば無理に顔を見ることなんてしない。
安心させるようにゆっくり彼が言う。
手は何度も何度も私の頭を撫でた。
「駄目だろう。外泊なんかして。みんな心配してたんだよ」
その言葉に目を見開いた。
何を言っているのだろうかと思ってしまった。
俺の前の涼は居なくなった時と何も変わらず、相変わらず俺を見上げていた。
怪我も無く無事でよかったと心底安心して頭を撫でれば体を震わせたが俺には見えていなかった。
彼女の手を掴んだまま祐樹の方を見て彼が睨んでくるのが不思議で仕方ない。
「安井が探していたよ、後は俺がやっておくから行ってあげて」
そこの高松さんが居て不思議に思ったがさして気に留めず告げれば彼は唇をかみしめたまま頷きよろめく彼女を支えながら社に戻っていった。
さて、と涼に向き直る。
やけに大きいコートを着ているその体に手を掴んでいたそれを外して抱き上げる。
軽い体が固まったまま俺の腕の中にあり、その重さに安堵した。
よかった、ちゃんと、生きていた。
そう思うと同時にそう思った事が不思議でついくすくすと笑う。
腕の中の涼が俺にただしがみついてきてその背中を優しく撫でて方向を変え歩きだす。
彼女の体が小刻みに震え始め首筋に水滴が落ちた。
「怒ってないよ、全然。ただ黙って他の人の所に泊まりに行くのはもうやめてね。心配だったんだから」
安心させたくてそう告げれば涼の泣き声がどんどん大きくなった。
怒ってないって言うのに何でそんなに泣くんだろう。
自動ドアを抜けてエレベーターに向かう。
何人かが俺達を見たけれど気になんてならなかった。
最上階のボタンを押し腕の中の大事な人を抱く手に力を込めた。
もう誰にも渡さない。
どこに行かせない。
涼は俺のものなんだから。
絶対に離さない。
エレベーターが着いて彼が片手でオフィスのドアを開けて中に入りその室内を見て涙が止まった。
あんなに綺麗だったそこはぐちゃぐちゃだ。
彼は私をソファに座らせて立ち上がり衝立の向こうへと消えた。
「珈琲で良いよね?」
その声に何も言えずただ室内の惨状を見つめる。
彼はこの姿に何も言わなかった。
顔色ひとつ変えることなく私を抱き上げた。
ずっと笑っていた。
それが気持ち悪かった。
衝立の向こうではコポコポとお湯が沸く音が響く。
とても助かったと安心出来る状況じゃない。
異常だ。
ものすごく。
「お待たせ」
彼が戻ってきてマグカップを私の前に置いて自分は机へと戻る。
それから何かを探すように少ししか物が置かれていない机を探ししばらくしてから頬杖をついて俯いて深い深いため息を漏らした。
それからそっと上げた顔には笑みは一ミリも無かった。
私を睨むように目を細めてそのまま動かなくなった。
その目は何も見えていないように私の後のどこかを見ている。
目の前のマグカップの珈琲だけが湯気を立てこの室内で動いていた。




