8-9 私と有希と私の過去
その先を話さないでと小さく呟く。
けれど舌も脳も声帯も、もうまともには動いてくれなかった。
ぎゅっと握られた彩音の手から震えが伝わる。
二人分のそれはぎこちなく重なり合う。
「負けたのは私でした。じゃんけん弱いんですよ。仕方ないと二人から五百円ずつ徴収し財布に入れてそれだけ持って外へ出ました。アパートの階段を下りて敷地から出て顔をあげたその先に涼が居たんです」
はぁっはぁっはぁっと呼吸が荒くなる。
過呼吸になりかけたそれで息がうまく吸えない。
彩音が私の手を見ながら気をそらすようにおしぼりを取った。
「手もべちゃべちゃだから拭こうね、服も汚れてるし捲ろう」
拒否することも出来なかった。
だらしなく長い袖の服を着てきた私のそれをまくって彼女が固まる。
動かなくなった彼女の手元に目を落とせば礼があの時つけた痣。
「涼?」
顔をあげて彼女が私を見た。
知らないのというように首をただ振ることしか出来ない。
そのまま固まる私たちに有希の言葉が続く。
「まだ残暑が残っているというのに男物の長いトレンチコートを着て一人で、そこに立っていました。洗っていない事を連想させるべったりと張り付いた髪、顔は白い液体がこびりつき、ぼんやりとした顔をして沙織の部屋を見ていた。その様子に暴力を受けていたのが浮かんで声を掛けるとびくびくと体を震わせて辺りを見回しました」
吐き気がまた強くなる。
彩音から視線を外し手を振り払って痣を隠しそのまま体を抱きしめる。
首元のスカーフから母の匂いがした。
それが嫌で嫌で堪らない。
知られたくない、お母さんにもお父さんにも。
本当はみんなにだって知られたくない。
礼にはもっと知られたくない。
有希は私の気持ちを知っているのに口を止めてくれない。
「尋常じゃないと思って嫌がる涼を沙織の部屋に連れていきました。コンビニなんて行ってられませんから。二人も涼を見て楽しそうにしていた雰囲気を捨てました。部屋に入れと促しても首をただ横に振るだけ。引っ張るようにして中へ入れれば今度は床に立ち尽くすだけ。座ればと勧めても首を横に振ります。何も話さない彼女に沙織が怒鳴ってようやく言ったのは、私は汚いから部屋が汚れちゃうからいいのとだけでした」
その時の体の感覚が蘇って体に纏わりついてくる。
気持悪い。
そんな風に見ないで。
放っておいて。
私は汚いのだから、みんなとは違うのだから。
「彩音ちゃんがその様子を見てコートを脱ぐように言ったんです。暑いんだからせめてそのコートだけでも脱ぎなよと。その言葉に涼はより一層首を横に強く振りました。何を隠しているのか、痣くらいなら予想がつくのだからと最初に動いたのは沙織ちゃん。後から羽交い絞めにし、私がそのコートのボタンを外しました」
ぞくりぞくりと背中に鳥肌が立っていく。
たった今そう脱がされている感覚。
みんなの目が私を見て浮かんだ表情。
忘れることなんて出来ない。
ただしまっていただけだ。
「最初に感じたのは匂いです。汗とまみれた何か違う匂い。それを私はよく知っていました。彩音ちゃんと沙織ちゃんも多少違えども知っていたのでしょう。ボタンを外す手が止まれば背後から彩音ちゃんがそれを引きちぎった」
鼓動が速い。
脳は萩村の言葉を聞くのを嫌がっているのに耳が許さない。
冷や汗を全身に掻いている。
沙織も萩村も青ざめた顔をしている。
無理に笑っている萩村の顔が気持ち悪い。
「涼は裸でした。全裸、何一つ身につけていない。身につけていないのは嘘です。彼女は全身のありとあらゆる所が汚れていました。全身につけられた小さな赤い痣、それを覆うように掛けられた乾いた白い物、両足の付け根からも光って垂れる液体。貴方もご存知でしょう。それを」
それを認識したくも想像したくもなかった。
けれどそんなにも確実に伝わるように言われたら嫌でも脳は認識してしまう。
胃の中がぐぐっと動く。
いや、こんなところで吐いては駄目だと何度も唾を上がってきた胃液と共に飲んだ。
「お辛いですか?やめましょうか?」
俺の様子にそう萩村が表情を変えずに告げ首を横に振る。
ここで逃げれば本当に涼は返ってこない。
「では、もう少しですので。三人とも呆気に取られてそれを見れば涼は顔を赤くしました。それから彼に怒られるからもう帰ると言い出ていきました。はっとした私達が追いかければ外には黒いワゴンが止まっていて佐藤と友達らしき男性が涼を囲んでいました。それから佐藤がその場で自分の物を咥えさせ気分が高まったのか涼を車に押し込めそれを追うようににやにやと笑った男たちが次々と乗り込み車が去っていったんです。彼女は輪姦されていた」
萩村が涼を呼び捨てにしている事に気づく。
彼女も記憶に残る涼を今のようには呼べないのだろう。
現実逃避。
脳が余計な事を考えようとしている。
というか、もう、逃げ出したい。
ここにどうして居るのかもわからなくなってくる。
「もう終わりますよ。その2週間後、彼女はまた沙織の家に来ました。今度はきちんと服を着て、やつれた痣だらけの体で。佐藤に新しい女が出来たから捨てられたのだと、複数人と関係を持ったから嫌われたのだと、けれどそれは佐藤の命令だったのだと、避妊なんてしてもらってないから怖いと、実家の両親には言いたくない、家がないからしばらく置いて欲しいと。電話をもらって駆けつければ彼女はぼんやりとした顔を向けてただ窓越しの空を見ていました。音で気づいたのか私達を見てから顔を歪めました。きっとひどい顔を向けていたのでしょう」
沙織の涙が決壊した。
ぽろぽろと声もあげずに泣いている。
信じられなかった。
そんな風に見えなかった。
涼はいつでも穏やかで控えめで普通の子だったのに。
「自分の腕をそっと鼻先に持っていって匂いを嗅いだんです。それから今日の朝までたくさんの人と関係を持っていたからお風呂に入ってきたけど臭うね、ごめんね、私臭いでしょう?臭いからみんなも私を捨てるよねって笑いながら涙を流して言ったんです。臭くなんかなかったのに、彼女自身はひどく臭いと言っていました。捨てないって言っても嘘だと言われました。結局、一旦沙織の家に置くことにして交替で彼女に付き添いました。自殺するのかと思ったからです。自殺未遂の方がまだ良かった。日を追うごとに様子が変わりました。色っぽく誘うように服を脱いだり、泣き喚いたり、爪を噛み続けたり、手の皮が剥けるくらい洗い続けたり。専門家に見せるのは彼女自身がとても嫌がってそれから半年、涼が短大を卒業した4月にようやく落ち着いた彼女は沙織の所を出て行きました。大丈夫だと言って。……これで全部です、佐久間さん。どうして私達が涼ちゃんを守ると言うのか分かっていただけました?」
何も返せなかった。
何も言えなかった。
瞬きすら出来なかった。
なんか書いてて涙ぐんでしまった。
部数で本編をついに越えてしまいました。
長くて本当にすみません。
きちんと終わらせますのでもうしばしお付き合いを。




