28-62 戦場へ
「それって……」
私の我儘を聞いて礼は口を開けたまま一瞬固まり、私を抱きしめていた手を離し、片手で口を覆う。それから信じられないといったように私を見つめるが私は目を離す事無く礼を見つめ返した。
「もちろん、叶えて貰わなくても構いません。宴席にはきちんと出ますし、昨日の御菓子も振舞います。ただ、信じて貰えませんか?」
出来るだけ静かに感情を乗せずに言えば礼は眉を顰めそれからそっと手を離してため息をひとつ吐いた。ゆっくりと私の頬に手を伸ばし触れそうになる瞬間に手を止める。
「涼の事だから勝算は高いと思うけど、内容は教えてくれないんだろう?」
礼の言葉は返事そのままで、それににっこりと微笑んでから止まってしまった彼の手に自分の手を添えて頬を寄せる。礼の手はさっきまで暖かい室内に居たとは思えないほど冷たくなっていて、それは緊張か怒りのせいだと思う。もしかしたら両方かもしれない。
「はい。それでも信じてくれますよね?」
少しでも温かくなって欲しいと思い目を閉じながらひんやりとした礼の大きな手をぎゅっと握る。礼はため息を一つ落とした。
「大宮に前に涼と似ているって言ったけど、ね。あれは訂正しないと。……涼は大宮よりずっとじゃじゃ馬だ」
わ、私ですか。と、香里さんが焦る声が聞こえ、思わずふふっと笑みを漏らす。目を開けれなかったのは礼が怒っているんじゃないかってほんの少し不安だったから。
涼の我儘には慣れているつもりだけれど、それだけれど、今日のこの場でこんな事言いだすなんてね、と思いながら溜息が漏れた。
―私の言う事とする事に一切口出さないで貰えません?
涼はさっき小声だったけれどはっきりそう言った。普段なら、例えば私生活や会社でなら笑顔を浮かべて即答するだろう。だけど、今日は出来なくて、それでもそれを拒む事なんて出来るわけがない。大体俺が拒んだ所で涼は自分の思うようにカードを切って来るだろう。
だから結局同じ事なのだと知っている。
そして、涼がこういう態度を取る時は必ず勝負に勝つ時だ。
「坊ちゃま」
戦場を前にのんびりとしたこの空気を程よく壊してくれたのは俺の背後にずっと影のように佇んでいた木村だった。その声に場の空気が瞬時に引き締まり、涼は目を開け名残惜しそうに俺の手から離れて行く。
「ああ」
そのまま手まで離そうとした涼の手を今度は俺がしっかりと握り木村に返事をすれば、涼は少し驚いたように俺を見上げる。けれど俺はその視線を受け流し、宴会が行われている広間を見つめた。
いまだ楽し気な声が漏れるそこに本当に涼を、この子を連れて行っていいんだろうか。
本当に戻れない。
今なら戻れるんじゃないか。
ふと、障子から漏れる光を見ながらそう思ったら足がすくんでしまって、けれど、涼の小さな手は俺を戦場へと引っ張った。
見上げた礼の顔にきっと他の誰にも分からないくらいの不安が戸惑いが浮かんだ。迷ってると思うより先に私は礼の手を引いて一歩踏み出していた。木村さんが驚き息を飲みながら、障子に手を掛ける。
礼はいつどんな時でも佐久間礼で居てくれないと、困るのだ。
私なんかで動揺してはいけない。
確かにこんな風に私を連れて行くのは怖いだろう。
私だってすごく怖い。
どんなに前準備をしてどんなに作戦を練っても、たったひとつの綻びからすべてが台無しになる事だってよくある。それを私たちはもう経験している。
それは写真だったり、指輪だったり。
肉体関係だったり。
別れ、だったり。
友、だったり。
でも、そういう事を乗り越えてきたんだ。
だから今日だって大丈夫だと信じないといけない。
何より礼に一番に信じて貰いたい。
そうじゃないと私の持っているカードで戦いきれないんだ。私や玲子さん、それに香里さん、琴乃さんというカードだけじゃ足りない。
そこには必ず礼というカードが無いといけない。
最も切り札に近くて、遠い、佐久間礼というカード。
「御開けします」
木村さんの声に誰より先に頷いたのは礼だった。私の手の先には私が望む佐久間礼が、ちゃんと、居る。
一歩踏み出した涼の頭に見覚えのある物が刺さっていて、ぐっと胸を掴まれた気がした。十年近く前に送ったそれは褪せる事無く美しい。
かつての持ち主の髪の上でも立派に輝いていたが、今、新たな持ち主の小さな頭でも同じように輝いている。
だからだろうか。
かつての持ち主の声が聞こえたような気がした。
―何ビビってんだよ、礼。
―付いててやるよ、俺も。
俺の真似をして俺そっくりに笑ういとこ。美しく聡明で、けれど、ずっと悩んでいた雛子。
すぅっと息を大きく吸い込む。
そうだった。忘れていた。いや、思い出した。
俺は涼と結婚して、雛子を連れ戻すんだ。
佐久間というこの呪われた家の、それを解いて、大事な俺のいとこを、今度こそ涼にきちんと俺の恋人だと、妻だと、紹介するんだ。
「……覚悟はいい?」
木村の手はまだ動かない。采配を振る武将を待つようの俺を見ている。
小声で問うたその言葉に未来の妻は、ふふっと笑みを漏らし、それからいつもと一ミリも変わらない、はい、を返してきた。




