6-10 私と彼の希望
無表情な顔を見つめる。
出来るだけいつも通り笑って視線をそっと目から外して。
そうして居ないと怖くて怖くて堪らない。
こんな話、他人にするのは初めてだ。
祐樹にだって簡単にしか話していない。
母に言われた事なんて誰にも言った事が無い。
「それに、ね。これはすごくショックな話だと思うんだけど、いい?」
彼女がはっとして頷く。
胸の下に当てている腕にその小さな手が添えられた。
「最後だと思うから包み隠さず話すよ。俺の初体験はね幸せな物じゃなかったんだ。屋敷には女中が居るんだけど、その中の一人が、玉の輿を狙ったんだね。愛人だって子供を産めば優遇される、それが男なら尚更っていう閉鎖された世界だからあそこは」
一度切って短く深呼吸をする。
この話は本当にしたくない。
出来れば一生胸に秘めておきたい。
それでも話そうと思ったのはあんな事をした俺の話をこうやって聞いてくれる姿勢が嬉しかったからだ。
視線を彼女の目にそっと戻す。
その目が怖い。
俺の奥底にある泥は腐った匂いを放つヘドロだ。
それを彼女に見せたくない。
それでもと心のどこかで彼女の言った言葉を覚悟を信じたいと思った。
「16になったばかりだったんだ。普段勉強づくめで彼女が出来たってそんな事出来ない俺の所に真夜中に別棟からこっそり忍びこんできた。坊ちゃま、気持ちの良い事を致しましょうって言って仕事着を脱いだんだ。その下は全裸だったよ。エロ本すらまともに見た事の無かった俺にそれを拒絶する術なんてなかった」
目を逸らそうと俯くと彼女の手が俺の顎に伸びてぐっと掴んで上を向かされた。
その手は小刻みに震えて唇を噛みしめている。
強く噛み過ぎて端が赤く充血している。
「なし崩しに関係を持ち続けた。避妊具なんて使うと思う?使わないよね、だって子供さえ出来ればそれが男だったら、一生楽して暮らせるんだから。その彼女も俺の背負った物を見てたんだよ。それで、子供がね出来たんだ。17の終わりの時に」
彼女の目に涙があふれてくる。
そうやって泣いてくれるだけでも構わない。
話し終わったら居なくなったとしてもそれだけで救われる。
「どうして知れたのか分からないけれど、母さんがね、その時にさっきの事を言ったんだ。それでその女は屋敷の階段から落ちた。……子供はね、駄目だったよ。かろうじて無事だった彼女は姿をそれきり消した。真相はもう分からない。母さんは自分で手を下すような愚かな佐久間の名前に傷がつくことはしないから、きっと誰かにやらせてそいつも屋敷からそっと消したんだと思う」
顎から手が離れて行く。
両手で自分の口を覆ってその指の間に伝った涙が一筋消えていった。
「涼の事を、昨日じゃなくて一昨日ね、あんな風に抱けると思わなかった。ずっと体の関係は持たないようにしていたんだ。忙しいと言い訳をしてずっと避けてた。大学の時もそうしてよく祐樹に馬鹿にされたよ」
嗚咽すら上げないでただひたすら口元を押しつけるように覆ってじっと俺を見ている。
その目が潤んだまま強張っていく。
「たまにそういう関係になっても嫌悪感がねすごいんだよ。気持ち悪くなるんだ、そういう事をしてしまった自分にも相手にも」
笑みを浮かべられているだろうかと思う。
もうそれすらも俺には分からなかった。
離れてはいけないと思っていたのに口元を押さえるのに必死だった。
言い終わった彼が口を閉じて笑みをまた浮かべる。
それからそっと後ろに下がって浴槽の縁まで行って背を預けて天井を見上げた。
「俺は涼が思ってるような完璧な人間じゃないよ。顔色ばかり窺って相手の機嫌を見て、嫌な事は理由をつけて徹底的に避けて、それでいて他人を信じられないと嘆いているんだ。昨日も涼に不貞腐れて朝言われた言葉を疑って、母さんに自分の努力を否定されて、酒井が電話に出なかった、ただそれだけで憤りを君にぶつけたんだ」
言葉を選んでゆっくりと最後にそう語って上を向いたままおどけたようにおしまいと呟く。
口元を押さえたまま近寄ってそっとその手を離して立ち上がる。
彼が私を見ようと下を向く前に両手をその顔に当てその唇に自分の物を重ねる。
彼が目を見開いて私を遠ざけようと私の肩を押した。
その力に負けて唇と手が離れてしまう。
「何で?」
顔が赤くして彼が呟く。
その顔にまた手を伸ばして頭を掴んでまた唇を重ねる。
彼がまた私を押し返した。
「同情?」
目を細め笑って呟く彼に答えられない。
そんな簡単な気持ちじゃない。
言葉でなんて決して表せない。
だからまた手を伸ばすとそれは絡め取られてしまい痣を掴まれ痛くて小さく呻いてしまう。
「やめようよ、もう。もう、良いから」
そう苦しそうに呟く彼の手を力をこめて振りほどき負けじと手を伸ばして顔を押さえる。
顔を避けようともがく彼に構わず三回目のキスをする。
涙は変わらず流れていたし鼻息だって荒かった。
ロマンチックな物じゃ全然ない。
それでも彼が諦めたように目を閉じる。
少し開いた唇に角度を変えてしっかりと重ねる。
たっぷりそのまま間を置いてそれを離して涙を腕で拭う。
「もう良いって。話、聞いてくれただけで良いから」
首を横に何度も振る。
汗が飛び散って彼の顔にも跳ねた。
「もう」
小さく呟いて言葉を止める。
彼の首元にそっと腕を回して抱き着く。
耳元に唇を寄せて口を開く。
泣いているから呼吸がどうしても荒くなってしまう。
それにびくりびくりと体をくすぐったそうに震わせている。
「もう、笑わないで。もう我慢しないで。もう大丈夫だから。もう平気だから。もう誰も礼を傷つけないように私が側に居るから。もう寂しく無いから。もう怖くないから。もう一人じゃないから。もう一人になんてしないから。だから、もう、私の前で無理して笑ったりしないで」
最後の方は嗚咽混じりで叫ぶようにして言っていたと思う。
頭がいっぱいいっぱいだった。
信じられない思いが溢れてきていた。
そんな経験をしているようには見えなかった。
どうして誰にも言わなかったんだろう。
祐樹さんにさえ言ってないような事を彼は私に話してくれた。
ありったけの勇気をかき集めて最後までちゃんと話してくたんだ。
彼の母は佐久間の名を守るために彼を犠牲にした。
多感な時期の、しかも子供が出来たと動揺し慌てる彼の事を切り捨てたんだ。
だから、もう、には希望の言葉も有るって知って欲しかった。
彼の顔が首元に埋まる。
互いの肩に顔を埋めてそのまま二人でしばらく嗚咽を漏らした。
どちらも動かないでそのまま相手の肩に頭を凭れてただずっと泣いていた。
それから先に動いたのは彼だった。
真っ赤な目で私の顔を自分の首元から離してそれから笑った。
嬉しそうにどこか恥ずかしそうにはにかんだように。
「ありがとう。涼が居てくれて本当に良かった」
たったそれだけの言葉が私の心の中を綺麗にしてくれる。
私の小さな心に収まりきらなかった彼の暗闇が散り散りに消えていく気がした。
ようやくちゃんと彼が見えた気がする。
それは本当に心の底から嬉しくて笑みが漏れる。
彼が私の体をいつものように引き寄せて抱きしめてそれかまたキスをした。
第六話目 彼と私の変化 終




