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恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜  作者: 月森あや


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10/10

10.もう戻れない

 もう陽は登っているというのに、体が重くて動かなかった。


 朝起きた格好のまま、ずっとベッドの上でうずくまっている。

 朝ご飯も食べていない。食べる気がしない。食欲がない。

 黎斗さんへは「今日は体調が悪いので休みます」とだけ送った。すぐに「わかった」と返事が来た。


「…………」


 何かを考えようとすること自体が苦しくて逃げている。

 今どういう状態になっているかとか、この先どういうことが待っているかとか。

 なにも考えたくなくて、ぜんぶ放り出したくて、ベッドの上から動けなかった。


 けれど、黎斗さんの手のひらの感触や、触れたときの体温が頭の中から消えてくれない。

 苦しくて、辛くて、最後は強引に逃げてしまったけど。黎斗さんの手のひらから伝わる熱が今も私の手に残っている。


 怖いとか苦しいとか、それとは違う心臓の鼓動が確かにあったのを覚えている。

 手のひらも体も密着していたあのとき。息がかかりそうなほどの距離に黎斗さんの顔があって、背筋が粟立つような低い声が耳元で聞こえて……。

 頭も体も溶けてしまうかと思った。


「……黎斗さん」


 爪が食い込みそうなほど手を握りしめて、膝に頭を乗せた。



   ◇



 黎斗は厨房でひとり、陽菜から送られてきたメッセージを見つめていた。

 朝から何度も読み返しては溜め息を吐いている。


「……やり方を間違えた」


 昨日のことだ。

 どう足掻いても同じ結果になっていたとしても、やり方はあったはずだ。

 色々な感情が混じった溜め息をもう一度こぼす。


 確認のためだった。

 けれど陽菜を追い詰めてしまった。

 その事実が、息をするごとに黎斗を苦しめてくる。


「…………」


 もしあのとき、陽菜が抵抗せず逃げずにいたら、自分はなにをするつもりだったのだろうか。

 手のひらに残る陽菜の体温や感触を思い出して、黎斗は眉をしかめた。


 自分よりはるかに小さくて細い体躯の陽菜の身動きを封じて、その細い指を絡め取って責めているとき。

 一瞬だけ『何か』にグラつき、理性を失いかけたのを覚えている。


 逃げてくれてよかった、のかもしれない。

 いやよくない。決してよくなんかない。


 あのときの陽菜の顔が、瞼の裏にこびりついて離れない。

 苦しさと怖さと、絶望を帯びたような表情。

 忘れることが出来ない。


 何度あの子を泣かせればいいのか。

 黎斗自身も分からないでいる。

 彼女と同じように彼も苦しんでいた。


 資料に書かれてある捜索対象者。不思議な能力を持った人物。

 間違いなく陽菜の能力は『それ』だろう。


 外見的特徴も一致している部分が多い。

 信じたくない、認めたくないが、おそらく高い確率で『本人』だ。


「…………はぁ」


 黎斗は何度目か分からない溜め息を吐いた。

 全部なかったことにしたい。

 ……だが、そんなことは出来ないと分かっていた。


 彼女が本人だとしたら、この先に起こり得る、待ち受けている未来は見えている。

 並行して個人的に調べ続けていた依頼者の素性。

 どういう奴らなのかは概ね検討がついていた。


 あんな場所へ彼女を返したくない。

 渡したくない、奪われたくない。


 そんな想いが強くなっていた。

 黎斗の奥歯がギリと音を立てる。


『続いて次のニュースです』

「…………っ」


 気まぐれにつけていたラジオからふいに流れてきた音声に耳が向いた。

 聞き覚えのある名前が聞こえて、黎斗の肩が微かに震える。


 依頼を受けて自分がマークし追っていた人物。

 追っていくうちに無実の被害者だと気づいたときにはもう手遅れだった。


 ……また、自分のせいで何の罪もない人が罪を被せられた。


 込み上げる衝動を拳に込めて振り下ろす。

 衝撃でテーブルから小物が落ちる。

 黎斗の息が少し乱れていた。


「……俺は、なにをやっている」


 悲鳴にも近い呟き。

 これ以上ない苦しみが、黎斗の顔に刻まれていた。



   ◇



 ぐう。お腹が鳴いた。

 さすがに朝も食べてないと空腹に負けてしまう。


 時刻はお昼を指し示していた。

 黎斗さんもおばあちゃんもお昼は下の厨房で取るから、今ならキッチンには誰も居ない。

 体調が悪いのは本当だからズル休みしたわけではないけど、やっぱりちょっと罪悪感というものがある。


 そろりと自室を抜け出して、静かに廊下を進んで行く。

 厨房へ続く階段をの横を通りかかると、甘くて良い匂いが鼻腔をかすめた。


「…………っ」


 逃げるように通り過ぎた。


 なにも考えたくない。いまは心を休ませたい。

 お昼はなにを食べようかな。あまり重いものはやめておこう。

 それだけを考える。


 キッチンの入り口から中を見渡して、誰も居ないことを確かめて安堵の息を吐く。

 いつもお昼は厨房で食べていたからなにを食べようか悩んでしまうなぁ。

 冷蔵庫の中を物色しながらそう考えていた。


「…………あ」


 ラップのかけられたお皿が一枚ある。中身はサンドイッチだ。

 メモ書きなどはなにもないけれど、これ見よがしなところに置いてあって、お昼ご飯にちょうど良い軽さのもの。

 こんなことをする人は一人しか思い当たらない。黎斗さんだ。


 昨日あんなことをしてしまったのに、黎斗さんの優しさに鼻の奥がツンとした。

 私のこの不思議な力を知られて嫌われたと思っていたのに、なんであの人はこんなに優しいの。


 ぽろぽろと溢れてきた涙が頬を伝い落ちていく。

 ずび、ぐす。一人きりのキッチンで、鼻をすすりながら静かに泣いた。


 黎斗さんと過ごした楽しい日々が、つぎつぎと脳裏に蘇ってくる。

 甘い匂いの立ち込める厨房で一緒に仕込みをしたり。休みの日にここで一緒にお菓子を作ったり。買い出しへ行くために黎斗さんの運転する車に乗せてもらったり。


 穏やかに笑う黎斗さんの顔。私の名前を呼ぶ柔らかい声。触れたときの手の温もり。

 ぜんぶすぐに思い出せるほど私の心に刻まれていて、いつでも私を幸せにしてくれる源だった。


 でも、それもぜんぶ、今までのようには受け止められない。

 黎斗さんに私の不思議な力を知られてしまった。

 誰にも知られないよう隠してきたのに、どうしてここ最近になって発現するようになったんだろう。


 この先もずっとずっと、幸せな毎日を過ごせると思っていたのに……。


 なにも考えたくないと思っていたのに、ぐるぐると考えるようになってしまった。

 いやだ。なにも考えたくない。

 今はお腹を満たすことだけを考えよう。


 冷蔵庫からサンドイッチの乗ったお皿を取り出して席へつく。

 ラップを外すと、まるで作りたてのような香りが届いてきた。


「……美味しそう」


 ぐうう。またお腹が鳴った。

 空腹に抗えなくてサンドイッチへかぶりつく。


 香ばしいパン生地の甘みと、シャキシャキとしたレタスの歯ごたえ。

 ハムを噛めば口いっぱいに広がる美味しさが、私のお腹も心も満たしていくような気がした。


 すごく美味しい。

 空腹で食べたからか、いつもより余計に美味しく感じる。

 また目尻に滲んできた涙を手の甲で拭った。


 もぐもぐ。ごっくん。

 あっという間にサンドイッチはなくなった。

 温かいミルクティーですべてを喉の奥へと流し込んで、ふう、と溜め息を吐く。


「…………」


 ぼんやりと虚空を眺める。

 お腹はいっぱいになった。涙も引っ込んだ。


 さて、と。

 お皿を片付けようと席を立ち上がった時だった。


「……陽菜」


 黎斗さんの声がした。

 キッチンの入り口のほうから聞こえて、私の体は動かなくなった。


 ……会いたくなかったのに。

 声のしたほうを振り向くことが出来ない。

 ドクンドクン。心臓の音がうるさくなっていく。


 こちらへ近づいてくる足音。だんだん足音が大きくなる。

 私の名前を呼んだときの声は穏やかな色だった気がするけど、黎斗さんのほうを向くことが出来ない。

 手のひらに汗が滲んできた。


 私の秘密を知って、黎斗さんがどう思っているのか……。

 怖くて指先が震える。体温も下がった感覚がした。


「…………っ」


 こくん、と喉を鳴らす。

 近づいてきた足音が止まり、よく分からない痛みのようなものを肌で感じた。


 無視を続けるわけにはいかない空気を感じて、ゆっくりと顔を上げる。

 黎斗さんの姿を視界に捉えて、けれど視線を合わすことが怖くて、焦点を合わせずに顔を向けた。


「れ、いと、さん……」


 いつもと変わらないように見える、穏やかな顔をした黎斗さんが居た。

 安堵したような、逆にそれが怖いような、複雑な気持ちがあふれてくる。


「よかった。食べれたんだな」


 空になったお皿に視線を落とした彼が呟く。

 なにか返事をしなければ。物凄い勢いで思考が駆け巡り「美味しかったです」とようやく絞り出した。


 黎斗さんが柔らかく微笑んだ。

 それにつられて私も強張っていた顔の力が少しだけ緩んだ。


 だけど流れる空気が固くて重苦しい。

 まるでお互いに取り繕ったようなものを感じる。

 ぎこちない。本心を隠して、取り繕ったような会話をしている。


「……昨日は、悪かった」


 空気を裂くように黎斗さんが口を開いた。

 昨日のこと。思い出しかけて体が一瞬だけ震える。


「……いえ」


 なにも返事が出来ない。

 どう言葉を返せばいいのか分からない。


 謝るのは果たして黎斗さんのほうなのだろうか。

 黎斗さんが謝るのなら、私だって隠し続けてきた秘密があったことを謝らないといけない。


 喉の奥に力が入る。

 ごめんなさい、と絞り出そうとした瞬間。

 黎斗さんが一歩こちらへ歩みを進めてきた。


 思わず反射的に一歩下がってしまった。

 それを見た黎斗さんの足が止まる。

 また、沈黙が流れた。


「……そんな顔をさせたいわけじゃない」


 そう呟いた黎斗さんの表情は、説明されなくても分かるほど痛みに歪んでいた。


 私だって……黎斗さんにそんな顔させたいわけじゃない。

 鼻の奥が熱くなり、ツンとした痛みを感じた。


 大好きな黎斗さんの悲しむ顔は見たくない。

 でも私がそうさせてしまっている。私のせいだ。


 じわりと涙がにじんできたのを隠すように下を向く。

 すると黎斗さんの手が伸びてきて、持っていたお皿を静かに掴んだ。

 そしてそのまま私からお皿を奪う。


「……片付けは俺がやっておく」


 ゆっくり休むといい。黎斗さんが穏やかな口調で続ける。

 体を動かせなかった私は、ただ相槌を打つので精一杯だった。


 私の横を通り過ぎようとした黎斗さんが、ぽつりとまた呟く。


「……俺も、まだどうしたらいいか分からない」


 胸の奥がドキリと跳ねた。

 黎斗さんも私と同じなんだ。どうしたらいいのか分からない。


 急いで答えを出したいわけじゃない。

 きっと、彼もそう言いたいのかもしれない。

 穏やかな口調がそう言っているように思えた。


 通り過ぎようとした黎斗さんの腕を思わず掴んだ。

 咄嗟に伸びてしまった腕に、自分自身も驚きを隠せない。


「どうした……?」

「あ、えっと、」


 黎斗さんも驚いている。

 触れると視てしまうから避けていたのに、私の腕が彼を掴んだ。

 肌と肌が触れ合った。


 それでも。言わなきゃいけないと、心が叫んでいた。


「……あの、ごめんなさい」


 言えた。

 他にも言わなきゃいけないかもしれないけど、一番伝えないといけない言葉を言えた。


 私の言葉を受けて、黎斗さんの顔が少し緩んだような気がした。

 胸の奥で重くなっていたものが少しだけ軽くなった。


 今はこれだけで十分だ。

 そう思って掴んでいた手を離そうとした、その時――。


「…………っ!?」


 迂闊だった。そう感じる間もなく視界がグラつく。

 見えているものは目の前の景色とは違うのに、体に触れる温かさで黎斗さんが抱きとめてくれたんだと気づいた。

 呼吸が浅い。すぐに視界は元に戻ったけど、倒れそうになるのを防げなかった。


 黎斗さんの声が遠くに聞こえる。

 まだ意識がはっきりと戻ってきていないみたいだ。


 いつも視るものと同じ、暗くて冷たい夜だった。

 黎斗さんの姿が見えた。後ろ姿だったけど、彼だとすぐ分かった。

 低く冷たい声でなにかを言っていた。なにかを追いかけていた。


 視えるものが、だんだんと具体的になってきた気がする。

 夜の闇の中に居る黎斗さんの姿は一体なんなの……。


「陽菜っ。大丈夫か」

「…………っ」


 黎斗さんの顔が見えるか見えないかで視界は元に戻った。

 ほんの一瞬の出来事だったけど、全身に汗をかいた。

 抱きとめてくれている黎斗さんの腕を掴む、いや服を掴む。


「……黎斗さん、は」


 言いかけて言葉を飲む。

 たぶんきっとこれは、言ってはいけない。

 聞いてはいけない。


 呼吸が戻ってきた。

 体も軽くなってきたし、意識もはっきりとしてきた。


 ゆっくりと立ち上がって、掴んでいた彼の服を手放した。

 おそらく黎斗さんもまた顔を歪ませているに違いない。


「……すみません、部屋に戻りますね」


 彼へ視線を向けないまま歩きだした。

 引き留めようとか、追いかけてこようとする気配は感じない。

 そのままキッチンを出て自室へと足を進めた。


 疲れた。本当に疲れた。

 ベッドへ体を投げ出して眠りたい。


 ……考えるのは、明日にしたい。



   ◇



 咄嗟に追いかけようとした体を自制した。

 追えば、もっと壊れる。

 爪が食い込んでしまうほど、黎斗は拳を握りしめた。


「…………っ」


 黎斗は自分自身へ言い聞かせる。

 今の陽菜は心も体もボロボロのはず。

 追いかけたり、先へ進もうとすれば、簡単に壊れてしまう。


 腕を掴まれた瞬間に陽菜が倒れかけた。

 明らかに何かを見たはず。

 一体なにを見たのか……。


 その日の晩。

 黎斗はスマホを見つめて険しい表情をしていた。


『依頼は続行する。』


 指先を止めて、ほんの少し考えたあと、またスマホへ指を走らせた。


『ただし、対象には手を出すな』


 それが、今の彼に出来る最低限だった。

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