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恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜  作者: 月森あや


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9.優しさの裏側

 ひとりで居ると、ここに来る前のことを思い出してしまう。

 外出も進学も許されず、ただ毎日ひたすら言うことを聞くだけの生活。

 希望とか未来なんて一切考えられなくて、もう人生を終わらせようと無我夢中で飛び出したあの日のこと。


「…………っ」


 思い出したくないことまで思い出してしまう。

 最近の私は自分でもおかしいと感じる。

 しばらく出ていなかったものが急に現れ始めたせいで、黎斗さんにあんな酷いことをしてしまって……。


 あのとき、窓から覗き込んだ厨房でひとり取り残された黎斗さんの背中を見て胸が痛くなった。


 逃げ出してしまったけれど、胸の奥がズキリと傷んでしかたない。

 でもあのまま逃げずにいたらどうなっていたのか分からない。


 気づかれただろうか。知られただろうか。

 不安と恐怖で心臓が押し潰れそうになる感覚がする。


 黎斗さんから逃げて、ごまかし続けて。

 知られたくないけれど、このまま同じことの繰り返しではいつかバレてしまうかもしれない。

 いったいどうすればいいのか分からない。


 止まっていたはずの涙がまた、じわりと滲んできた。

 鼻の奥がツンとした痛みで広がる。


 今までと同じではいられないかもしれない。

 黎斗さんに、嫌われたくないのに……。



   ◇



「はぁ……」


 ドサリ。重い体をベッドへ投げ出した黎斗が深い溜め息を吐いた。

 あれ以来すっかり陽菜との距離が出来てしまった、ような気がする。


 無理やりだとか、手荒な真似だとか、そういったことはしたくなかった。

 が、なぜあのときあんなことをしてしまったのか。

 あ~~~っ! と頭の中で叫びながら、髪をグシャグシャに掻き混ぜる。


 彼女のことを傷つけたいわけじゃない。

 どちらかというと、むしろ好意を抱いている。


 あのとき飛び出して行った彼女が、外でひとり泣いていたのは気づいていた。

 しばらくして戻ってきた彼女の目や鼻が赤く腫れていて……。

 大丈夫です、と微かに歪んだ笑った彼女を見て胸の奥がズキンと傷んだ。


 それでも、確かめないといけない。

 ずいぶん前から受けている長期依頼を、変なタイミングで降りるわけにはいかない。

 陽菜に何かある。そう勘づいている今この状況で、中途半端なことをするのはあまりにもリスキーだ。


 彼女のあの反応や、発作のような症状。そして資料に記載された人物像。

 思い返せば、揃いすぎている。


「…………っ」


 黎斗がゆっくりと瞼を閉じる。

 両手で顔を覆い、腹の底から息を吐いた。


「……たのむ、違っていてくれ」


 信じたくない。

 否定できる何かが欲しい。

 だから、それでも確かめなくてはいけない。


 唇をきつく結んで、心を決めた。



   ◇



 朝なんか来なくていい。

 そう願っても、意識を落としたあとは否が応でも朝が訪れる。


 確かに距離を感じるのに、交わす会話は普段通り。

 何事もなかったように過ごしている黎斗さんを見ると、心のどこかでホッとしたような安堵感を覚えた。


 逃げ出したあの日から距離を感じていたのに、今日はなんだかその距離を感じない気がする。

 気のせいかもしれないけどこのまま何も起こらなければ、また以前のような日常に戻れるのではないか。

 そう感じてしまう穏やかさが確かにそこにあった。


「陽菜」


 私を呼ぶ黎斗さんの穏やかな声がする。

 耳障りが良くて心地良いその音に、不安だった心が溶けていくような錯覚を抱く。

 振り向くと、私がしている作業に必要な材料を取って置いてくれていた。


「ありがとうございます……」


 黎斗さんは聡い。目配りが効いて、なんでも一歩先のことが見えている。

 やっぱり黎斗さんはすごいなぁ。


 凝り固まっていた全身の力が解けていく。

 以前のような穏やかな空気を感じる。

 このままずっと続けばいいのに。そう思った矢先――。


「陽菜、これ」

「え……?」


 黎斗さんに再び名前を呼ばれて振り返る。

 彼が手に持っていたのは、これから私が使う予定だった道具。

 しっかり手に持ち握っている。そしてそれを私へ手渡そうとしている。


 さっき取ってくれた物は私の近くへさり気なく置いてくれたのに、今度は手渡し。

 彼が握っている指の位置は、私が受け取ろうと指を差し出せば触れてしまうような場所。


「…………っ」


 一瞬、息が詰まった。

 触れれば、きっと、見てしまう。


 全身から冷や汗のようなものが噴き出るのを感じた。

 けれどここで拒否したり変な反応を見せれば、もっと疑われてしまう。

 コクンと喉を鳴らして、精一杯の普通を演じて手を伸ばした。


 どうすれば黎斗さんの指へ触れないように受け取れるか。

 手を伸ばす数秒という短い間に、必死になって思考を巡らせる。


(…………あっ)


 指先がほんの一瞬、触れそうになる。

 変な反応をしてはいけないと頭できちんと理解していたのに、ほんの微かに指先が逃げるように動いてしまった。


 なんでそんな位置に指があるの。

 こちらからは見えない位置の指が、想像していた場所と違う位置にあった。

 平静を装えていたはず。いたって普通だったはず。


 少し力を込めて握り、受け取ろうと腕を引く。

 けれど、ビクともしなかった。


「…………え?」


 黎斗さんが強く握りしめていた。明らかに受け取れないほどの強い力で。

 驚いて顔を上げると、こちらを見下ろす彼の視線とかち合った。

 わけが分からなくて頭の中が真っ白になる感覚を抱く。


「なんで一瞬、逃げた?」


 穏やかな口調で彼が言う。

 怒りや悲しみといった感情は伺えない、普通の微笑みを浮かべている。

 逆にそれが怖くてそれ以上は動けなかった。


「…………っ」


 黎斗さんの視線から目をそらすことが出来ない。

 体が動かなくて、空気がわずかに張り詰めた気配も感じた。

 あのときと似てる、詰め寄られている状況。


 黎斗さんが何をしたいのか分からない。

 それ以上は近寄られたくない。嫌だ。

 また見てしまう、知られてしまう。


 私の指先から力が抜けたことに彼が気づいた。

 こちらを見下ろす視線は外さないまま、引き抜いたそれをテーブルへ置く彼。


 一歩、黎斗さんがこちらへ距離を詰めてくる。

 思わず後ろへ下がった私の背中がまた壁と衝突した。

 前と同じ状況。逃げられない。


 触れたら、見える。見えてしまう。

 ぜったい黎斗さんに知られてしまう。


 それでも黎斗さんはさらに詰め寄ってきた。彼の顔がゆっくりと近づく。

 壁に背をつけたまま逃げられない私はキュッと目を瞑る。

 吐息が顔にかかりそうなほど近い。心臓が張り裂けそうだ。


「陽菜、これ――」


 逃げ場をなくしていた私の手に、黎斗さんの手が重なる。

 耳元で囁かれる低音が背筋に稲妻を走らせた。


 黎斗さんの厚い胸板が私の体を壁へ押し付けてくる。

 脚の間に彼の脚が割り込んできて、逃げられないし座り込むことも出来ない。

 重なっていた黎斗さんの手が、指と指を絡ませるように私の肌をなぞってくる。


 ぞわぞわ、と全身が粟立った。

 頭がぼんやりする感覚もして、たまらずに声を上げる。


「れ、黎斗さんっ……?」


 指の間を彼の骨ばった太い指が何度もゆっくりと往復する。

 優しく撫でられるたびに全身がひどく粟立って頭が蕩けそうになった。


「陽菜……」


 指と指の間を、彼の太い指が往復するたびに痺れる感覚が襲ってくる。

 ただ手と手を合わせているだけなのに、変になりそう。

 じわじわと私を責める指の動きが早まったかと思うと、力強く握られた。


「…………ぁっ、!」


 全身が大きく震える。出したことのない声も出た気がした。

 目の前の視界が揺らいで、またあの光景が脳裏を駆け巡る。


 それは一瞬で見えなくなったけれど、立っていられないほどの目眩を感じて全身の力が抜けていった。


 でも私の脚の間に割り込んでいる黎斗さんの脚がそうさせてくれない。

 強く絡みつかれた手のひらと指が、私を捕らえて離さない。

 押し付けられている彼の胸板も、私が倒れるのを許してくれない。


 数秒の間でひどく体力を消耗した感覚がした。

 額にかいた汗が前髪を湿らせて張り付けている。


 瞼をゆっくり開くと私を見つめている深紫色の瞳が見えた。

 黎斗さんが、じいっと私を見つめている。

 また黎斗さんの指が動き始めて、たまらなくなり振り絞って声を出す。


「い、やっ……やめてっ……!」


 叫んだ声がとても震えている。

 私の制止を聞いて、黎斗さんの指も動きを止めてくれた。

 けれど拘束は解いてくれなくて、座り込むことも出来ない。


 苦しくて、怖くて、じわじわと涙が滲んでくる。

 いつもの黎斗さんじゃない。

 私の知ってる黎斗さんはこんなことしない。


「陽菜……」


 優しい声が耳元で囁かれる。

 私を拘束していた指が解かれて、肌をなぞりながら名残惜しそうに離れていく。

 そしてそのまま私の背中に回り込んで、ぎゅうと強く抱きしめた。


「……今の、どういう意味だ」


 黎斗さんの顔が私の肩に埋まる。

 穏やかで落ち着いた口調だけれど、真意を探るような、そんな声色。


 私は言葉に詰まって何も答えられなかった。

 抱きしめられた優しさに、その穏やかな声に、すべてを吐き出してしまいそうになる。

 そのかわりに、黎斗さんの服を強く握りしめることしか出来なかった。


「……やっぱり、そうなのか」

「…………っ」


 無理だ、きっと。隠し通せない。

 ぜんぶ終わる。嫌われる。ここに居られない。


「……ぅ、ふっ……う……っ」


 もう限界だった。

 ぼろぼろと涙が溢れるのを止められない。

 黎斗さんの腕がより強く、私を抱きしめてくる。


 でも、もう……。


「…………ごめんなさい」


 それだけ呟いて、黎斗さんの胸を押した。

 私の力ではびくともしないのは分かっているけれど、それでも。


 しばらく沈黙が続き、ようやく私を抱きしめていた彼の腕から力が抜けた。

 二人の間にほんの少しだけ距離が空く。

 それでもまだすぐそこにある黎斗さんの顔がゆっくりと近づいてきて、おでこ同士をこつんと合わせる。


「陽菜……」


 近い。目の前に黎斗さんの顔がある。

 唇と唇が触れそうなほど近い。けれど、そんな雰囲気は感じない。

 彼のわずかに歪んだ表情に胸が痛くなる。


「泣かせてしまって、悪かった。ごめん」


 黎斗さんの親指が目頭に浮かんだ雫を掬い取る。

 私は瞬きをひとつして、黎斗さんの傍を離れた。


 最後まで私の手を取っていた彼の手が、手首から手のひらへ、そして指先へと伝いそっと離れていく。


「待て、陽菜っ」


 黎斗さんの声が聞こえる。

 でも、聞こえてないフリをした。


 追いかけてこないで。引き止めないで。


 もう、この距離は埋められない。

 楽しくて幸せだった日常は、戻ってこない。

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