170 湖の踊り子と黒の幼女
ゴォゥ
ルーティアの威圧に当てられ、突如吹き出した業火。
少女はその業火に包まれ、纏った。
業火は永延と燃えるのではなく、集束するように少女の身に集まる。
だが、轟轟と燃える炎の中、その炎が集束した後、そこにいたのは少女などではなかった。
宝石そのものを身に纏ったような、煌びやかなフルプレートメイルの鎧。
片腕にギィを抱えている事から、それが先程まで少女だった存在なのだろうが、背丈は先ほどの倍以上あり、細くも屈強な体躯に鎧を纏って更なる頑強さを得ている。
派手派手しく飾り立てられたような鎧だが不思議と下品ではない。
寧ろ、関節部分や鎧の隙間から溢れ漏れた炎や火の粉が、鎧を複雑に照らし、彩り、高貴にさえ見える。
『その程度のお人形さんで抗っているつもりですか?』
たった一息・・・。
ルーティアが吐いた息吹は一陣の風となって鎧に向かった。
ボシュゥッ
「っ!?」
その瞬間、蒸気を発し、鎧が朽ちるように崩壊し、砕けた。
『精霊の力は、人のような魔力ではなく魔素そのもの。だからこそ心を乱してはハリボテにもなりませんよ。況してや『霊器』もなく・・まぁ人間を『霊器』にしている私が言うのも何ですが――――』
ルーティアが語る中、鎧の背後に煌く光の霧が集まっていた。
――――妖精回廊。
だが、ルーティアの一瞥にそれすらも霧散し阻まれた。
兜の中から思わず漏れた舌打ちには、焦りが多分に滲んでいた。
『だから、言っているではないですか。心を乱してはダメだと。・・そもそも、精霊たるものが心などというものを抱くなんて、悪魔である貴方も・・守護精霊の私も、大概ですね』
自嘲を含めたルーティアの笑み。
精霊という神格化されるような、次元の違う存在。
その多くは、俗世からは離れた・・もしくは、関わることなどない。
心や感情、そういった俗的なものとは無縁の存在。
他者のみならず、己の命にすら頓着しないような存在。
しかし、悪魔と呼ばれる精霊と、守護の契約をした精霊は、奇しくも、その心を得ることが多い。
その中身は異なるが、必然と人と多く関わる為、本質は変わらずとも、そこに本来ないはずの俗的な価値観と感情が芽生えた。
「・・?――――っ!!」
柔らかく降り注ぐように、細く、光の粒が鎧に落ちる。
首を傾げたが、それは一瞬、すぐさま焦ったように反応し、光を避けるように身体を捻った。
・・だが、それでも、遅い。
「っ――――ぐっ!?」
降り注いだ光の粒は、鋭利な光の槍となって鎧を纏った腕を貫いた。
『精霊の領域に無断で踏みいったものは、生きては帰れない。同じ、精霊であれば・・いえ、寧ろ、精霊であるからこそ、無事ではすまない。それが精霊にとっての掟』
肉体を持たない筈の精霊。それも『炎の魔人』などとも称される悪魔。
その腕を貫いた光は、鎧を貫通するに留まらず、焼き貫いたかのように爛れた跡を残していた。
『ですが、私も大精霊などと呼ばれる立場。領域に侵入したとは言え、その程度で精霊を無闇に殺すわけにもいきません。・・ですので、少々痛い目を見ていただく程度で止めておきます』
痛みなどもない筈の精霊だが、鎧の隙間から漏れる苦痛の声は本物。
『具体的には・・百年ほど眠っていただきますね』
ルーティアは片手を静かに向けた――――
『きゃっ!?』
――――が、その瞬間ルーティアは膝を折った。
何かに押さえ付けられるように、ルーティアの頭上から見えない力・・・いや、もったいぶるのはやめよう・・・それは『重力』。
ルーティアを圧する程の『重力』が突如として襲った。
『・・貴女は、どなたかしら?』
水面に膝を付き、どうにか蹲らない程度でとどめているが、余裕など上辺だけなのが明らか。
そんな中、ルーティアは顔だけを上げ、そこに現れた存在に微笑んで問いかけた。
苦悶を零す鎧の腕の中、これまで意識も漫ろだったギィが突如として震えるように怯えだした。
パタン
その存在は、手元の本を閉じ、ルーティアを見下ろすように立ち塞がった。
黒いドレス、黒い髪、黒い瞳・・の幼女。
水面に触れる事さえなく、宙に浮かぶ幼女。
その周囲には漂う本たち。今閉じた本も手元を離れると同時に、その中に混ざり幼女の周囲に侍った。
見つめ合うように視線をぶつかり合わせる、そこに小さな手が割り込んだ。
握り締められたその小さな拳は、解けるように開かれる。
指が広げ開けられると同時に、花が開くように、装飾品のような羽が、羽化した。
『それは・・・』
その瞬間、水面が大きく揺れ、暴れ狂うように弾けた。
「キュオォォォーーーーーーン!!」
甲高い鐘のような咆哮と共に、湖から巨躯を跳ね上がらせた、大蛇。
『ウロボロス・・・あの子は、ジキルドの・・・』
「ユミル!!」
急に現れたユミルの姿にゼウスも声を上げた。
目の前に突如として現れ、レオンハートにとっても絶対的な存在たるルーティアに膝を折らせた存在。
姿かたちは、フィリアと同じ頃の幼女だが、その見た目そのままなはずはなく。
さらに言えば、満身創痍のギィ、それを成したのは、この幼女だと確信していた。
それ故、厳戒の態勢を取りながらも、息を潜めるように観察していた。
何か圧倒的なものを感じるわけではない。本当にただの幼女にさえ見える。
何であればフィリアの方が、よっぽど人外の魔力を垂れ流し、人であるか疑わしい。
だが、それでも感じる、説明のできない存在感。
経験則からの勘でしかなく、さらに言えばゼウスであるから感じる程度。
しかし、だからこそ、只者などではない。
ゼウスをして、もしもの時は命を賭す覚悟を決めさせたほどに。
そんな緊張を限界まで高めていた時に、急に現れた大蛇。
思わず、反射的に魔術式を構築し、発動寸前でその正体に気づいた。
さらに、その時。
全員の意識が逸れた一瞬。
僅かな魔素の揺らぎが生まれた。
それにいち早く気づいたのはルーティアとゼウス。
だが、それでも気づくのに遅れた。
振り返るように視線を戻せば、そこには今にも崩壊寸前の鎧の背後に、魔素が煌くように集まっていた。
彗星のせいで、遅緩なものではあったが、それでも、一瞬の隙で十分間に合う程度。
そこに生まれた霧のような光の集まりは、『妖精回廊』。
『ですから、心が乱れていては――――』
ルーティアは再び、それを一瞥・・する前に、黒の幼女が間に入った。
幼女は片腕を広げ、阻むように立ち塞がった。
ゼウスも素早く反応し術式を構築するが、咄嗟に繰り出せる術は氷の檻を壊してしまう。
氷の檻の外に発動させるには、その一瞬は短すぎる。
そんな僅かな躊躇が、瞬くような短い間を生んだ。
それで十分だった。
一瞬の隙。それが二度・・たった二度だが、それだけあれば十分な時間。
光の霧は集束し、一層煌きを強め、怯えきったギィとギィを抱えた崩壊寸前の鎧を包み込んでゆく。
最早それを阻むには手遅れ、だが、『妖精回廊』とて、完全にその場から消えるわけではない。
目に見えないだけで、そこには『道』がある。
「急ぎ『道』を探れ!」
『ゼウス、放っておきなさい』
ゼウスが声を上げるが、それを静かにルーティアは諌めた。
その声に戸惑いを見せたゼウスだが、ルーティアに視線を向け、その異を飲み込んだ。
ルーティアは変わらず睨み合うように黒の幼女と見つめ合っていた。
そこにある横顔は相も変わらず、この世のものとは思えぬ美しさだが、そこに見せた表情は見たこともない張り詰めたもの。
気軽いに顔を合わせられるような存在ではないし、ゼウスの知る限り間の抜けた表情など見た事もない。
『はぁ・・』
溜息さえも美しく憂いを帯びるルーティア。
ルーティアは見つめ合う視線を外し、瞼を閉ざすと嘆息を零した。
だが、そこにあるのは呆れと哀れみ。
『・・ゼウス。貴方の姪は随分と怒らせてはダメなようです』
ルーティアの呆れ果てたような声に、ゼウスは首を傾げた。
そして、ルーティアは黒の幼女の後ろ。
完全に光の霧に包まれた悪魔たちに哀れみを向ける。
『貴女方も思い出しなさい。レオンハートの、・・・『涙』の怖さを』
その声が届いたかはわからないが、ルーティアが告げると共に光は霧散し、光の粒だけを名残りとして二つの姿を完全に消した。
『・・・そうでしょう?・・メル』
その後に続くルーティアの小さな呟きは恐らく届いていないだろう。
その呟きはルーティアだけに響くようにすぐに掻き消え、ゼウスにさえ届くことはない。
唯一すぐ目の前に浮かぶ黒の幼女だけがその呟きを拾えたろうが、それすら確かめる間もなく、黒の幼女もまた、掻き消えるように、その姿が風に吹き消えた。
それと共に、ルーティアにかかっていた加重と威圧も消え、ルーティアは再び水面に立ち上がった。
『・・とんだ幼子がいたものですね』
頭痛が痛い、とでも言いたげに頭を押さえるルーティア。
大精霊にさえ、頭を抱えさせる元凶など・・考えるまでもない。
さらに言えば、そのほとんどが、本人の無意識から来るのだから手のつけようがない。
「キュオォォォォォォォッ!!」
だが、とりあえず今は、それよりも気にするべきものが残っている。
悪魔は逃げたが、寧ろ悪魔よりも大事なこと。
ジキルドの従魔・・・寧ろ、悪魔などよりもよっぽど厄介な相手。
ゼウスにとっては生まれた頃から知る、謂わば家族同然の存在。
ルーティアにとっても、ジキルドの従魔であるというだけでなく、水棲の生態を持つウロボロスは自身の領域に住まう我が子のような存在。
ジキルドの幼い時から共に過ごした従魔。
さらには貴賎問わず友誼を結ぶジキルド。
その為、多かれ少なかれ、この街に暮らす者ならば、ジキルドと共にユミルとも何かしらの繋がりがある。
悪魔に対するように、いきなり魔術を撃ち込むようなことは出来ない。
しかし、だからと言って、何もせずにいることも出来ない。
少なくない親愛を持つ存在。
だが、慟哭のような咆哮を上げるその姿は狂気に満ち、理性など感じられない。
荒れ乱れるのは水面だけではなく、その大きくしなるような体躯もまた、激しく暴れ狂う。
かつての友人、もしくは隣人は、その正気を完全に失っている。
ここから先・・悪魔などよりも、苦しい争いが待っているのは、明らかだった――――
「やぁぁぁぁーーーーーー!!」
「ぶつかるぶつかるぶつかる!!!」
「あばばばばばば・・・うぷ」
「あはははははは」
――――悪魔より悪魔な、天使の笑い声が響くまでは。




