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158 大人の涙



 「マリアさんっ・・急に、どうしたのですか」



 突然、勢いよく頭を下げたマリアにミゲルは目を見開き驚きと共に取り乱した。


 手だけに持ちきれず、いくつもの資料を抱き抱えていたミゲルは、それを落としそうになって、アタフタとしてしまう。


 普段から落ち着いた態度と余裕のある仕草に、いかにも紳士なミゲル。


 そんな彼の慌てた姿など、非常に珍しいものなのだが、マリアは、そんな珍しい姿にも気をそらさず、ひたすらに深く頭を下げていた。



 ミゲルは、資料を抱え直し、安定したのを確認すると、再びマリアに向き直り、軽く咳払いをして、心持ちを整えた。



 「まず、頭をお上げください。・・・今、お茶を淹れますから、そちらのソファーで少々お待ち頂けますか」



 そう言ってミゲルは、一度、抱えた資料を置いてこようと踵を返した。



 「姫様に星を見せてあげて欲しいのです!!」



 一歩踏み出したミゲルの背に、マリアは叫んだ。

 その声に思わず振り返ったミゲルだが、マリアは未だ深く頭を下げたままで表情などわからない。


 だが、その悲痛な叫びと、前で組まれた手に篭る力を見れば、想像に難くない。










 朝霧が解けるよりも早い時間帯。

 湖から立ち上る濃霧が朝日に煌きながら視界を覆っていた。



 そんな霧の中、佇む影が一つあった。



 「リチャード」


 「・・姫様。それにバレーヌフェザーのルリア様まで」



 フィリアたちの足音に振り向いたリチャードは、いつもと変わらぬ、穏やかな微笑みをフィリアたちに向けた。


 桟橋に佇んでいたリチャードに、フィリアたちはゆっくり近づき、軽く朝の挨拶を交わした。



 「こんな朝早くから、どうなさったのですか?」


 「わたしたちは、エラルドさまにいわれて・・。リチャードのほうこそなにをしているのですか?」


 「・・エラルド様に・・・そうですか・・」



 リチャードは顎に手を当て、少し考えるように俯いたが、直ぐにその察したかのように小さく頷き、顔を上げた。



 「それでリチャードは――――っ!?」



 再度フィリアがリチャードにこの場にいる理由を問おうとした瞬間。


 フィリアは肌が沸き立つような魔力の気配を感じ、瞬時に身構えた。



 「フィル?どうしたのです?」



 魔力の接近。

 その魔力の主は確実にフィリアたちを目標に近づいてきている。


 フィリアは周囲を見渡し、その魔力の正体を探った。


 霧に覆われた視界。

 見通そうにも肉眼では視界が悪い。


 目に魔力を込めると同時に、魔力を探索ソナーのように波状に広げる。



 「っ!?」



 そしてようやく見つける。


 フィリアは勢いよく振り向くように湖の水面を睨んだ。

 ・・正確には、そのさらに先。・・水の中。


 霧のせいで透明度のなくなった湖面に影が揺らめく。



 「みずうみのなか!!」



 揺らめく影はどんどんと大きくなり、魔力が近づいてくる。


 フィリアは魔力を高め、臨戦態勢で皆を庇うように一歩前に進み出た。



 影が大きくなるに連れ、水面も震えるように動きだす。

 その動きは漣を生み、次第に静かだった水面を大きく暴れさせる。



 「姫様――――」

 「くるっ!!」



 いつもと変わらぬリチャードの穏やかな声をかき消して、フィリアは叫んだ。


 その叫びと同時に、水面が一層大きく荒れ、桟橋を揺らすほどの大波と、地鳴りのような震えがフィリアの緊張感を高めた。



 大きく膨れ上がるように、せり上がる水面。

 それと共に大きな影が浮上する。


 ホルンのような低くも甲高い音が響いた。


 大きな飛沫と波を立てながらその魔力の主が姿を現す。



 「っ!!」



 驚きに目を見開いたのはフィリアだけじゃない。

 ルリアやその従者たちも同様。



 見上げるほどに大きな巨躯。

 伸びるようなその身体は艶やかに水を纏うが、よく見ればその体表は羽毛に覆われ、柔らかに水滴を弾いている。


 一言で言うなれば、大蛇。


 フィリアはおろか、身体の大きなローグさえも軽く一飲み出来るほどの大きさ。



 フィリアは魔力を収束させ、術式を頭に描く。



 「来てくれましたね」



 臨戦態勢で魔力を練るフィリアの横から、穏やかな声がした。


 緊張の高まったフィリアたちの心とは全く異なる、その穏やかさにフィリアは思わず集中を欠き、魔力を霧散させてしまった。



 「・・リチャード?」



 その声に振り返れば、そこには現れた大蛇に優しく微笑むリチャードがいた。


 思いがけない声にもそうだったが、そんなリチャードの表情も予想外で、フィリアは唖然とリチャードを見た。


 唖然としたのはフィリアだけではなかったが、視線を動かせば見慣れた面々。

 レオンハート家に仕える、謂わば身内たちは、何一つ驚いた様子もなかった。

 中には、リチャードと同じような優しい表情を浮かべた者もいる。



 「ユミル・・」



 リチャードの呟きに返答するかのように、大蛇は嘶き、ホーンのような声がこだました。


 リチャードはその声に柔らかな微笑みをもう一度浮かべると、仰ぐように見上げていた視線を下げ、湖を軽く見渡した。

 ・・・その時の、リチャードの表情はどこか寂しげに視線を彷徨わせた。



 「・・・そうですか」



 リチャードの、その小さな呟きに大蛇はその長い首を折り畳むようにして巨大な頭をリチャードに摺り寄せるかのように近づけ、小さく嘶いた。


 それは、リチャードを気遣い、慰めるかのようにも見えるが、犬や猫ならまだしも・・あまりに絵面が伴っていない。

 


 「・・ユミル。ありがとうございます」



 リチャードはそんな大蛇を労うかのように大蛇の頭を撫で、大蛇はそれを心地よさそうに受け入れ、何となく目を細めたようにも見えた。



 「リチャード?・・あの・・それは?」



 フィリアの戸惑いがちで、恐る恐るといった声にリチャードは、さっと佇まいを正し向き直った。



 「これは、申し訳ありません。・・彼は、ユミル。『尾噛み蛇(ウロボロス)』という名の種で、ジキルド様の従魔です」



 知ってる。ちょー知ってる。

 めちゃくちゃ王道のファンタジー生物。


 呆然としていたフィリアも、一瞬、目を無邪気に煌めかせた。


 だが、続いた言葉にその煌きを一瞬で消し、元に戻った。

 感情を殺したものではないが、似たようねものだと、それで確信できた。


 ここ最近のフィリアはいつもその目をしていたが、それがやはり本心のものではないのだと、周囲も確証を得て、切なげにフィリアへ視線を集めた。



 「・・おじいさまの」


 「はい。・・幼き頃はジキルド様の肩に乗り、何処に行くのもいつも一緒だったそうですが、流石に成長してからは、それも難しく、こうしてジキルド様の元から近い水場に潜んでいるのです」



 それはそうだろう。

 幼い時の大きさが、どの程度かは知らないが、見上げる程の今の体調では傍に置くのは無理だろう。


 そして、フィリアは自身の肩に目をやった、それは相手も同じで、フィリアとリアは視線を合わせた。

 かつてのジキルドもユミルも、自分たちと同じようにいつも傍に居たのだろう。



 「・・はじめまして、ユミル。わたくしはまごのフィリアです」



 そう言ってユミルに淑女のカテーシーを披露すると、ユミルも答えるように頭をそっとフィリアに近づけた。

 フィリアはそっと手を伸ばし、ユミルの頭を迎えるように待ち、触れたと共に静かに一撫でした。


 羽毛のせいか、蛇とは違う柔らかでふわふわの感触。

 だが、鳥などとは違う、冷ややかな温度は蛇らしい。


 リアも挨拶なのか、自身の顔をユミルへ擦りつけ、小さく鳴く。

 それに応えるよう、ユミルも小さな嘶きを零す。



 そこにある光景は和やかで、皆、微笑ましく見ているが、パッと見、かなりの衝撃映像。

 大木程の太さを持つ大蛇に顔を寄せられた幼子。何も知らぬ者が見れば、声にならない悲鳴を上げるような光景。



 少し擽ったさがあったのか、フィリアは小さな笑い声をあげる。

 それすらも久しぶりで、そんな小さなフィリアの笑い声に、ミミは目元を拭った。


 フィリアの手招きに恐る恐る歩み寄るルリア。

 そっと手を伸ばし、その手を掴んで引っ張るフィリアの表情は、意地の悪い笑みをしていて、それもまた、久しぶりに見る、無邪気なフィリアの姿。



 リチャードはその光景を眺め、目を細めていたが、ユミルと視線が合い、鼓動を強く鳴らした。


 何かを戸惑い、口を動かそうにも言葉が出てこない。

 どうにか言葉を選ぼうにも、相応しい言葉は見つからず、何度も唇をはがむ。



 わかってはいる。

 主ではない、リチャードの言葉などユミルにはわからない事を。


 それでも、ユミルは賢く、何を伝えたいのか正しく察するはずだ。

 意思の疎通としては十分事足りる。どんな言葉を選ぶのかなど些事でしかない。


 そうとわかっていながらも、それでも、リチャードは言葉を選んだ。



 「・・ユミル。・・・ジキルド様を送って頂けますか」



 どうにか、絞り出したかのようなリチャードの声に、ユミルだけではなくフィリアを動きを止め、リチャードに振り向いた。




 時を止めたかのような静寂の中、ユミルはのそりとフィリアたちから離れ、再びリチャードに顔を寄せた。


 軽く鼻先をリチャードに摺り寄せると、大きく伸び上がるように長い体躯を天に伸ばし、空高く何処までも轟くように鳴いた。


 ホルンのような声はいつまでも空気を震わせ、響き渡った。



 それは、リチャードへのユミルなりの返答で、長い咆哮の後、リチャードに視線を向け、しばし見つめ合うと、その身を翻し、湖の中へとゆっくり泳ぎ去った。



 去りゆくその大きな背中を無言で見送りながら、フィリアは、ずっとその背中を見つめるリチャードの傍に寄った。



 「・・『尾噛み蛇(ウロボロス)』には言い伝えがございます。・・・亡くなった者の魂を守り導き、輪廻の輪へと送り届けるそうです」



 フィリアを見ず、ユミルの影を見つめ続けるリチャードの声は変わらず穏やかなもの。

 だが、少し仰ぎ見るように伺えば、その顔は涙に歪んでいた。


 それは、ユミルに言葉を告げた瞬間に溢れたもので、ユミルに擦り寄られた時などダムが決壊したかのようにその勢いを増し、今もその涙は勢いを緩めていない。



 リチャードの涙など、フィリアは見たことがない。

 だが、それはフィリアだけではないだろう。


 かつて大公の右腕として生きたリチャード。

 家宰としても優秀で、引退した今でもリチャードに頭の上がらない者ばかり。


 そんな彼が繕う事もしない、弱味を晒す姿など、きっとアークたちでさえ見たことがないだろう。




 リチャードの手に小さく、柔らかな暖かさが触れた。


 それが何かなど考えるまでもなかった。

 多少リチャードは内心驚いたが、視線を向けぬままその温もりを握り返した。



 必死に押し殺した啜り泣く声が、その手から伝わる。

 その声は徐々に留めきれず、大きくなっていく。


 叫ぶような声は、言葉としての体を成さず、只々悲痛な感情を晒す。


 幼子の喉を引き絞ったような泣き叫び。



 フィリアとて、全く泣いたことが無いわけではない。

 言葉を話す前は泣いて意思表示していたし、マリアの深い愛情に触れて泣いたこともある。


 しかし、こんな風に、感情の全てを晒すように、泣き叫んだ事などなかった。



 ミミたちはその事に、今ようやく気づき、奥歯を噛み締めた。

 普段、勝手気まま、自由気ままで、子供らしくなくとも、同時に大人っぽくもないフィリアになれていたが、フィリアは二歳児。


 感情の発露が少ない今のまでが、おかしかったのだと。




 だが、それはフィリアとて同じだった。

 なまじ前世の記憶を持って生まれたフィリアは、激情に対して鈍感になっていた。


 幼い身体と、周囲の扱いに、子供らしく感情を見せる事も多くはなっていたが、それでも無意識に抑える感情は確かにあった。



 それを、抑えることもなく、晒し、泣き叫べたのは、リチャードのおかげだった。



 ――――泣いていいんだ。



 もちろん。そんな事は改めて気づくようなことじゃない。

 悲しければ泣くし、大切な人を失ったのだから、当然のこと。


 だから、『泣こう』と思わずともフィリアは涙を多く流した。嘆き苦しんだ。


 しかし、今のような悲鳴をあげるような叫びではなかった。


 それはつまり、何処か自制したもの。

 大人であれば当然で、フィリアも染み付いていたもの。



 それが、リチャードの涙を見て、弾けとんだ。


 リーシャだってアランだって、普段は感情すら見せないフリードだって涙をみせた。

 だが、それとは違った。



 アークは涙を見せなかった。リリアは涙を隠した。

 アンリもゼウスもマーリンも・・・。


 ナンシーだって、フィリアたちには、引き攣りながら笑みを向けたのだ。



 リチャードの涙こそが、フィリアにとって初めての、『大人』が泣く姿だった。



 隠すことも偽ることもない。その姿は、みっともなくも見えるかも知れない。

 だが、フィリアにとっては、その涙こそが必要だった。


 泣けばいい――――そんな免罪符を与えられたような、リチャードの涙。


 それに、フィリアの感情は、ダムを決壊させた。




 確かに前世の記憶を持つフィリアの心は大人だった頃を引き継いでいるのだろう。

 しかし、同時に、今世のフィリアはまだ二歳の幼児なのだ。


 自分自身で感情を消化するよりも、発散したほうがいい事だってある。




 フィリアの叫びはこだまし、それを止める者はいない。

 握られた小さな手の他に、背をさすったり、抱きしめたりとする者が傍に寄れども、フィリアの感情を邪魔する者は一人としていなかった。




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