108 翡翠姫 Ⅹ
『――――これが私の一番好きな物語だよ』
『・・・・妖精・・』
膝の上に乗せた少女は開いた本の、そのページをジッと見つめ呟いた。
『はぁ・・。貴方は一体ティアラちゃんに何を教えているのですか・・』
呆れたような溜息を零すアンリが紅茶を注ぎ直していた。
『・・いやぁ。・・ティアラならば・・・いずれは、もしかしたら、と思ってな』
『ティアラちゃんは妖精の特性も持つのですよ?もし、気が触れでもしたらどうするのですか。・・サーシス伯爵に殺されますよ?』
その言葉にジキルドは分かりやすく顔を歪めた。
『・・執務での過労死は嫌だな・・・』
『あれは貴方が悪いのですよ。サーシス伯爵はその外見を気にしていらっしゃったから、ニコライ君に同じ悩みを持たせないように武術を学ばせたのに・・『本当にお前の息子か?』なんて・・・怒らせるのも当然ですよ』
『・・いやぁ、だって、一騎当千の武人みたいな見た目のくせに、ご令嬢にさえ負かされる程に腕っ節が弱くて悩んだからって、ニコに学ばせたのに、ニコの容姿は・・』
『シュッとしていますね・・と言うか最近じゃ他家のご令嬢からも人気らしいですよ』
二人が向ける視線の先には四人の子供がソファーの上で互いに寄り添いあうように眠っていた。
そこにいるのは子供といえどその眉目秀麗さが際立つ子供達。その中にあっても見劣りしない一人の少年を見つめジキルドとアンリは小さく微笑んだ。
『おじさま・・』
膝の上に乗せた幼い少女は、本を見つめたまま小さく呟いた。
その呟きに二人は静かに視線を向けるが、そこにあったのは今にも泣きそうに肩を震わす少女。
『ティアラ?どうした?』
『・・・おじさまは、妖精が、すきなんですか・・』
苦しげに紡いだ声にジキルドとアンリは互いを見合って、もう一度小さな声の続きを待つ。
『・・・わたしは・・・・きらい、です』
『ティアラ・・・』
そして、絞り出した声は、怨嗟というよりも恥じるような震えがあった。
『・・お兄さまたちは、かばってくれますけど・・・みんな、わたしは、『人間』じゃないって・・・・っ。でもっ、わたしはっ、『妖精』じゃないっ』
吐き出すように溢れた涙は、幼い少女には不相応な苦悩に染まっていた。
ティアラの生まれ育つこの土地にとって常識とも言えるほどに根付いた価値観。それが妖精蔑視。
その中にいて過ごす彼女がどのような扱いを受けているかなどあまりに想像に容易い。
そんな少女の覚悟を決めた告白のような叫びをきいて、ジキルドは膝の上の少女を優しく抱きしめた。
『私はティアラを愛しているよ』
『私もですよ。我が子のように愛おしく思っておりますよ』
幼い背中は丸まり震えると共に嗚咽が漏れた。
『そもそも私たちに、『妖精』だから、好きだとか、嫌いだとかはないよ。『人間』にだって好きな人間もそうじゃない人間もいる。』
『っわたしは、『妖精』じゃありませんっ、でもっ・・・『人間』でもない・・・』
ジキルドたちが愛する『ティアラ』という存在。それが彼女本人にもあまりに曖昧で不確かな存在に思えていた。
自分は何なのか。それさえもわからない自分が愛される意味を見いだせなかった。
『・・・ティアラ。それは違うよ。・・君は『妖精』だ――――』
『っちがいます!!わたしは『妖精』なんかじゃっ――――』
『――――そして、『人間』でもある』
『・・・・・え?』
思わず顔を上げ振り向いた先に、自分よりも悲しそうに、だが、優しく微笑むジキルドがいた。
『ティアラ。私は『母』であり、『妻』ですよ』
『・・それは、また意味が違うんじゃないか?』
『そうですか?・・でも、ティアラ。自分を定義する言葉はたくさんあるのですよ』
『そうだぞ。『人』だの『妖精』だの以外にも、例えば『妹』であり『娘』でもあるし、ティアラは優秀だから、直ぐに『魔術師』にもなれる』
優しく笑い合う夫婦を見つめて目を丸くする少女の目元には赤い跡だけを残し、涙は退いてしまった。
『・・この世には自分が何なのか決める言葉がたくさんある。だが、それ一つでは足りないんだ。嫌な言葉も不本意な言葉もたくさんあるかも知れない。・・それでも、その全てが連なり重なり合ってようやく『自分』となるんだ』
『・・・『妖精』で、『人間』?・・・・』
『そう。だから、違うと否定せず受け入れなさい。どちらかである必要もない、どちらも、でいいんだ。それが『君』なんだ。全てを引っ括めて、それこそが、私たちの愛する『ティアラ』なんだからね』
二人が向ける微笑みは何の含みもない愛情に満ちていた。
両親、兄、そんな家族から向けられるものと同様の純粋な想い。
『ティアラは、『ティアラ』という名前の由来は知っているかい?』
『・・・『ティア』・・、もし、わたしが、おじさまたちの子供だったなら、そうよばれていたから・・ですよね』
それもまたティアラの悩みのひとつ。
優しく深い愛情を向けてくれる家族たち。ティアラ自身にとってそれは何事にも変えられない大切なもの。
それなのに、その由来は、まるで生まれる場所を間違ったと言われているような気持ちになった。
『・・んー・・。それは半分正しく、半分間違いだな』
『え?・・ちがうのですか?』
『ティアラの魔力量が稀代の大きさであった事がきっかけではあるが、それだけじゃないさ。・・ティアラは『ティア』という名の由来は知っているかい?』
レオンハートの中にあっても規格外の魔力を持つそんな存在に与えられる『涙』の称名。
その起源は、ファミリアの起こりに起因する『ルーティア』という精霊。
魔力の象徴とも、魔力そのものとも言われる精霊。
そして、この地の守り神でもあり、街の名にも使われる程に慕われ、崇拝される存在。
『ティアラの名前は、寧ろその精霊『ルーティア』からもらった名前だ』
『ルーティアさま、から・・』
『・・・『湖の乙女』、『月下の女神』、『宵闇の踊り子』・・。ルーティアもまた、多くの呼び名がある。そのどれか一つでも欠いてしまえば、それは私たちの敬愛する『ルーティア』ではなくなってしまう。・・・・そして、その中には、『月の精』という呼び名もあるが、それは本来『月の妖精』と記述されていたものだ』
『・・『妖精』・・・』
精霊信仰が根ざし、魔導の聖地とも呼ばれるこの土地にとって、その精霊を冒涜するような『妖精』という存在は忌諱されている。
故に、自分たちが信奉する『ルーティア』という精霊に対するそのような呼び名は許されるわけがなかったのだろう。いつの間にか闇に葬られるように、忘れられた呼び名だった。
『我が家に従仕し、文官一筋のティアラの父であれば知っていたろうしな』
『つまりは、『妖精』と呼ばれていたにも関わらず、この土地で深く愛される存在。・・ティアラにもそんな存在になって欲しいという想いが込められた名なのですよ』
生まれて直ぐに連れ去られたティアラ。手元に帰ってきた時には半分妖精となっていた我が子に願った想いは、想像に難くない未来を案じ、それでも前に進む事を望むものだった。
甘やかす愛情ではなくとも、甘い愛情が込められていた。
幼く小さな手はジワリと暖かさを感じる胸元を握るように抱え込んだ。
『・・・おじさまの名前と、おなじですね』
『ん?・・私の名?』
瞼を閉じ、柔く微笑むティアラを見て笑みを交わす夫婦だったが、小さな呟きに首を傾げた。
『・・わたしの名前にも、おじさまの『ディーニ』とおなじように、愛情がいっぱい、つまっていました』
その言葉にジキルドもアンリも表情が強ばった。
しかし、それを語った少女だけは、穏やかで純粋に嬉しそうに微笑んでいた。
『・・・ティアラ・・、精霊語の勉強は?』
『はい。もう、簡単なものなら、かんぺきです』
それは知っていた。その上で疑ってしまったのは無理もない。
ティアラは類い稀なる魔力のみならず、魔術にも秀でた才を持っている。それ故、自分の子たちと共に座学を学ばせている。
だからこそ、精霊語の優秀さなどよく知っている上に、遠くないうちにジキルド自ら魔術の師として立とうと思っていたほどだ。
そんな彼女が意味を取り違うことなど、考えられなかった。
『・・精霊や妖精は、何よりも一族を大切にする。・・・彼らにとっては、そんな家族を傷つけるなど、何があっても許されない・・・それは知っているかい?』
『はい。まるでレオンハートのようですよね。・・・それに、わたしのなかで、そういうことが、いやな気持ちが、つよいですから・・』
それは妖精の本能的な感覚だろう。そして、その事にティアラ自信気づいているため複雑な感覚なのだろう。それでも、少しの抵抗はあるものの目を背けなかった事が、受け入れ始めている証拠でもあるだろう。
だが、ジキルドが言いたいのはそういうことではない。
自身が持つ『渦』の名は、決して称賛されるような名ではない。
他所ならまだしも、この土地、魔術師・・精霊語を知るものであればそこに明るい感情は浮かべないだろう。
それなのに、ティアラだけは違った。
『・・ティアラ、『ディーニ』というのは――――』
『たしか・・『深い愛に溺れ、愛に囚われ、愛に藻掻く』・・さま、ですね』
母国語よりも流暢な精霊語。
その言葉に、ジキルドの瞳から涙が溢れた。
『お、おじさま!?』
たしかにそれは『渦』の意訳にある、一節だった。
だが、それは間違いだった。
――深い罪に溺れ、罪に囚われ、罪に藻掻く
それが正しい意訳。
『お、おばさまもっ、どうしたのですか!?』
精霊語には『罪』と『愛』には複数の単語があり、その一つは同音異義で全く同じ単語が存在している。
前後の文章からその意味を訳し、この場合は『罪』という意訳が正しい。
だが、幼く純真な、そんな言葉遊びのような解釈こそが、何よりもディーニの心を掬い上げた。
『・・っ・・・『妖精の恋人』な。これは、おじさんの兄さんが作った物語なんだ・・・。・・・だから・・このお話が、おじさんの一番好きな物語なんだよ』
涙腺が締まる事はなく、それでも言いたくて、言っておきたくて・・。
ジキルドは精一杯の笑みを向け、明るく告げた。
その姿に、言葉に、アンリも一層涙を流し、それでも、同じように満面の笑みを向けた。
そして、二人できつく小さな身体を抱きしめた。
『・・・ティアラの名前も、私の名前も、愛を囁くように、大切な人に呼ばれるべき名だな』
その言葉に、今度はティアラの方が息に詰まり、ジキルドの肩口に額を押し付けた。
そこから潜もった声と頷きが帰ってくる。
『優しいティアラに、特別な術を教えようか』
『え!どんな術ですか!?』
ジキルドのその言葉に、一変したように明るい声と満面の笑みを浮かべた顔を上げるティアラ。
その反応に一瞬驚き、ジキルドとアンリは視線を合わせ吹き出すように笑った。
『ティアラであれば、きっと月下に舞う月の精のように美しく可憐で、神秘的な光景になるだろうな』
『翡翠姫!!わたしが一番すきな、おはなしです!!』
『そうか、では教えようか。ルーティアの愛する満天の夜空を作る『天蓋』の結界術を』
三人は晴れ晴れとした笑顔を見せ合ったが、三人とも目元や鼻が赤くなり、涙の後も残った締まらないものだった。
カシャン・・
軽く薄い音ともに砕けた瓶。中身の砂が崩れるように溢れた。
「マーリン様!?」
陽の光も淡く乏しい、薄暗い調薬室。
窓辺に立ち、僅かに差し込む光を浴びて、マーリンは力なく立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」
咄嗟に飛び込み、マーリンの身体を確認するが、その間も抵抗どころか反応も少ない。
「・・・アリー」
只々、そんな弱々しい声で呟いたマーリン。
そんなようやくの反応に、マーリンと視線を合わせたが、その表情を見て言葉を失ってしまった。
「・・お義姉様?大丈夫ですか?」
隣室で待機させていたリリアが、開け放たれた扉から中を伺うように顔を覗かせた。
痩せたような、弱々しい彼女の顔は、マーリンへの気遣いが滲み、更に儚いものとなっていた。
その傍には侍女のマリアが付き従う。
彼女はマーリンの様子と、床に砕けた瓶を視界に入れた瞬間、全てを察し、俯くように顔を歪めた。
そのまま、無言でリリアの肩を支えるように抱いた。
それに対し、リリアの方は、マリアのその行動の意味が分からず、首をかしげてマーリンを見た。
薄光の中、マーリンは、感情の抜け落ちた表情で立ちすくし。
ゆっくりとリリアに顔を向けた。
感情のない表情の中、流れる一筋の涙に、息を呑んだ。
「・・リリアちゃん・・・・ティアラ、の魔力、が――――」
「ジキルド様っ!!」
息を切らし飛び込んできた声。
緊急避難のために、喧騒が絶えない港町。
その一角に作られた即席の対策本部である天幕。
騒がしさは遮られる事無く、その天幕の中にも届いている。
街の地図と領の地図を広げ、会議をする面々は顔を近づけ対策を話し合っていた。
そこに響いた伝令兵の声に、一同は揃って視線を向けた為、伝令兵は一瞬肩を跳ねさせるが、そんな事など気に止める余裕もないほどの焦りをもってジキルドの存在を探した。
そんな伝令兵の様子を見て、ジキルドはあえてゆっくりと、余裕に満ちた様子を示しながら姿勢を正した。
そこに浮かぶのは穏やかな微笑み。そして、威厳ある立ち振る舞い。
「・・・安心しろ。対ゼウス術式はもう組みあがっている。いつでも発動できるし、住民の避難もあと少しで完――――」
「ティアラ様の魔力がっ・・消失しましたっ!」
伝令兵の情報を察したつもりで、安心させようと紡いだ言葉は、予想だにしていなかった、最悪の報告に遮られた。
「――――――――ぁ」
意図せず漏れた僅かな声だけが零れ、手元に置かれていたグラスは、揺れたジキルドに触れ、地面に落ちた。
一瞬立ちくらむようによろめいたジキルド。それをいつもなら支えてくれるアンリもまた思考が追いつかず、立ち尽くしていた。
騒がしい筈の騒音の中、グラスが砕ける音は耳障りに響いていつまでも耳に残った。
「・・・ティアラ?」
「サーシス補佐!!足を止めないで下さい!!一気にこの戦場を抜けなければならないんですから!!」
赤い霧の中。ゼウスの術から逃れた者たちとの剣戟が響く戦場。
そんな中を突き抜けていたニコライの足が止まった。
それを見て叫ぶ、部下の声もニコライの耳には届かない。
矢や銃弾、魔術が飛び交い、人が敵味方なく倒れこむ戦場の中で、ニコライは自身の腕の中を見つめ只々立ち尽くしていた。
「サーシス補佐っ、何をして――――」
少し苛立ちを見せて、ニコライに近寄った部下は、荒々しく腕を引こうとして、言葉が霧散した。
「・・ティアラ様の、『妖精の揺り篭』・・が・・・・」
ニコライの腕の中に抱えられた赤子、リーシャを包み守っていた繭のような光が、空気に溶けるように消え、それと共に、安らかに眠っていたリーシャの眉根がよった。
「・・・これって、ティアラ様は・・・」
そう呟いて、ニコライを見るとそこには青白い顔色で焦点を失った表情。
完全に心はここになかった。
「っ、サーシス補佐!!」
そんなニコライに対し、部下は奥歯を鳴らすように意を決し手を引いた。
非常なようだが、今は嘆くことも、戻ることも許されない。
ニコライの心情から目を逸らし、その歩みを進めるしかない。
蟠る感情を押し込めて、ニコライを引く手に過剰な力が篭る。
その時――――
「んっぎゃぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!」
耳を劈き、脳を揺さぶるような、赤ん坊の泣き声が響いた。
「っぐ」
「がっ」
「ぁがっ」
その声はあまりに異常で、周りの人間全てが耳を抑え膝から崩れ落ちた。
それと同時に、周囲を覆っていた赤霧も空気が弾けたように霧散し、吹き消された。
魔力の乗った声は珍しくない。
だが、これほどまでの破壊力を有する声を放ったのが、赤ん坊であるリーシャ。
流石にニコライも意識を戻し、苦悶の表情で膝を付き、リーシャを見つめた。
リーシャを抱えているため、耳を覆う事もできずに、一番近くいるニコライ。その意識は飛ばすのではなく、刈り取られる寸前。
視界はボヤけ、顔を歪め、必死になくリーシャを捉えるのが精一杯だった。
「っ」
そこに衝撃があった。
吹き飛ばされるような衝撃。
だが、痛みなどより、薄れゆく意識の中、手を伸ばした。
「・・リ、リー、シャ、さ・・ま」
衝撃と共に強奪された腕の中の赤子。
未だ泣き声は響き、意識を保つのも困難だった。
伸ばした腕の先に、遠くなっていく、翼。
最愛の妹が命を賭して守り抜いた至宝を奪われ、叫び出しそうなほどに溢れる激情。
セイレーン。
ミルの手先であり、妖精。
意識が途切れるまで、ニコライは怨嗟の睨みを、遠ざかる空に向け続けていた。




