107 翡翠姫 Ⅸ
糸が切れたかのように力が抜けた瞬間。
翡翠の月は、砂のように崩れ、溶けるように消えていった。
次いで、天蓋の星空も穴が開くように、消えていく。
なんとか堪えていた意識が遠のく感覚に、抗えず身体が傾く。
「ティアラ様!!」
身体が地面に落ちる前に、地を滑る音と共に支えを得た。
重い瞼を押し上げ、朧げな視界の中に少女を見ると笑みが溢れた。
「・・・アンネ・・」
「・・ずっとお姫様を守ってたのに、さらにこんな無理までして。・・・ティアラ様の魔力切れなんて初めて見ました、ですよ」
ティアラの力入らない身体を抱き抱えるようにして、アンネは抱き止め、ティアラを咎めるように見つめていた。
泣きそうなアンネの頬に手を伸ばし、優しく触れるティアラ。
本当にアンネはゼウスに似て、身内に対してだけ感情が豊かだなと、アンネの心配とは全く関係のない感慨を抱いていた。
「・・・アンネは、大丈夫でしたか?」
「はい。怪我ひとつないです」
「流石ですね」
「・・でも、悪魔には逃げられちゃいました・・・です」
悔やむようなその声に、ティアラは力の入りきらない手を伸ばし頭を撫でるが、今度はアンネから恨みがましい顔を向けられた。
「・・ティアラ様。あの魔術はなんですか。すごい爆発で、吹き飛ばされちゃいましたよ。そのせいで悪魔を取り逃がしたんですからね」
結構派手に魔術を使ったが、直ぐに一つの魔術に思い当たってしまう。
「流石に先生でもあんな無茶な魔術は・・・いや、使うかも。・・・で、でも、いくらレオンハートでも安易に使わないような威力でした!!」
頬を膨らますアンネに苦笑を零しながら、その妹が好奇心で作った魔術だとは、言えなかった。
況してや、失敗作だと言いながら、喜々として教えてくれたなどという事実は胸にそっとしまった。そして、その人は一族の中でも比較的まともな方であり、アンネの師など、非常識筆頭だとは余計に伝えられない。
「ごめんなさいね」
「・・・心配しました、です」
抱き寄せる腕に力がこもったのを感じて、ティアラはアンネの年相応な不安を察し頭を撫でた。
彼女は、両親を亡くし、誰かがいなくなる恐怖をよく知っている。だからこそ、あの魔術での心配はティアラの事を想ってのものなのだろう。
「ティアラ様!」
そこに二人の兵士も駆けてきた。
ファミリアの物とは違う、国の。ルネージュ国軍の軍服。
そして他の兵よりも軽装な装備で、更には結構ボロボロ。
二人は、ニコライと同じ部隊の所属で、恐らく共にティアラのもとへ来てくれていた者たち。
つまりは、ティアラに吹き飛ばされた不憫な兵士たち。
「あ。・・えぇと、先程は申し訳ございません・・・・ご無事でしたか?」
「問題ありません!サーシス補佐の妹君であれば、あれぐらいは想定内です!」
想定内の割に、随分と依れているが、ティアラは「そうですか・・」と追求を恐れた。
だが、それ以上に「妹ならば」とはどういう意味だろうか、兄は普段どんな行いをしているのか。そっちのほうが気にかかる。
だが、それよりまず確認すべきことがある。
「・・姫様は、無事ですか?」
「はい!その報告に参じました。現在サーシス補佐が護衛し、艦へ向かっております。・・傷はおろか、埃ひとつ御身にはついておりません。まだ、残る赤霧の中を駆け抜ける事にはなりますが、現在サーシス補佐他三名の『同僚』と共におりますので心配はございません。・・・それと、サーシス補佐より、よくやった、と伝えてくれと」
ニコライはなんとかあの魔術の中を抜けてくれたようだ。
そして、同僚、とはつまりニコライと同じ諜報部のものだろう。ミルに対しては相手が悪かったが、本来は精鋭中の精鋭部隊。これ以上ないほどの護衛だ。
ティアラは胸を撫で下ろし、ニコライの伝言を噛み締めた。
部下を使った伝言である以上、私的なことはもちろん、立場を踏まえた内容じゃないとならない。
だからこそ「よくやった」という短い一言。
だが、本来なら、「よく守りきった」や「よく尽くした」などという、リーシャ主体の労いを伝えるべき所を、より曖昧にして伝えた。
それはリーシャを守りきった他に、兄として妹への「よく生きていてくれた」という個人的な感情故のもの。
そして、ティアラはそんな兄の、拙さを誰よりも知っていた。
その時、激しい雷鳴と共に、頭上を雷が蜘蛛の巣のように広がって走った。
「ティアラはそのまま休んでいなさい。・・アンネ。ティアラの傍についているんだ」
「・・はい」
「はい、です」
相変わらず背を向けたままのゼウスが、ふわりと地面に降り立った。
魔力視など使わなくとも空気が歪む程の、洗練され練り上げられた魔力。
只々垂れ流すような魔力ではなく、ミルの全てを喰らい殺すような魔力とも違う。
自然と傅いてしまうような、威厳と風格。
同じ絶対強者の魔力だが、その質は根本的に違った。
そんなゼウスが変わらず視線を向ける先。
ゼウスが放った光の柱は、切り裂かれるように弾かれ、散らされた雷が蜘蛛の巣状に広がり力を失う。
その様子にすら、何の反応もないゼウスはずっと一点だけを見据えていた。
そして、視界が晴れ始めると、口端を僅かに上げ、笑みを見せた。
「・・ティアラの宝花は、えげつないな」
ゼウスの視線の先にようやく見えた黒い影、ミル。
その身体中に翡翠の花を咲かせたミル。
その数は増えてはいる、だがそれよりも、服も肌も灼け爛れた様子が深刻になった姿の方が目立ち、先程よりも明らかに息を切らしている。
ティアラが決死の想いで付けた傷を、一撃で凌ぐゼウスにだけはそんな評価をされたくないだろう。
「世界中探しても、これほどの宝花を咲かせられるのはティアラだけだろうな」
「・・・レオンハートっ」
「てか、お前はよくその状態で立っていられるな。・・私は試しに指先に小さく引っ掻いてもらっただけで体調を崩したんだがな・・・」
ティアラは術を覚えはしゃいで報告した時の、苦い気持ちと呆れを思い出した。
嬉々とした様子で詰め寄られ、「少しだけ!ちょっとだけ!先っちょだけ!」と狂気に染まった魔術馬鹿な三兄弟に囲まれた、苦い記憶。
それを助けてくれた、ジキルドにも、「指先程度ならどうだ?」などと、チラチラと伺われ、諦めたのだった。
そんな懐かしい思い出に浸る中、忌々しげにレオンハートの名を呟くミルだけは、不快感を隠すこともなくゼウスを睨んだ。
しかし、その眼光にはさっきまでティアラが対峙して居た時の威圧感はなかった。
それだけではなく、よく気をつければ彼女が発する禍々しいまでの圧倒的な魔力さえも弱くなっている。
それは、単純に考えればティアラによる大魔術の連撃と『精霊殺し』の宝花がなした功績のようだが、ついさっきまでティアラの心臓を握るほどの魔力を発していた。
たとえ、蝕むように徐々に魔力を奪う宝花とは言え、こんな僅かな時間でそれがここまで弱るはずがない。
だからこそ、その答えは明確。
ティアラは、同じ術でもこんなにも格が違うのかと、ゼウスを見つめ自嘲してしまう。
その時、ミルの背後から鋭い斬撃が振るわれた。
「――っ!?」
間一髪で、その斬撃を避けたミルだが、少しでも屈むのが遅れればその首は宙を舞っていた程に鋭い一閃。
思わず短い息を漏らし、焦りを持った動きは、アンネやニコライの剣閃の時とは明らかに反応が違う。
「・・その大鎌と引き摺る程に長い宵の髪・・・『死神』ですわね」
「その呼び方はやめて」
ミルの呟きに心底嫌そうに眉を顰めたグレースは、空を切った大鎌の重さを慣れた体捌きで収めた。
「今はもう『豊穣』の名をもらったんだから」
「・・貴女が収穫してきたのは命でしょうに・・・随分と物騒な『豊穣』もあったものですわね」
軽口で答えるミルだが、誤魔化せない程に弱々しく覚束無い足取りで、フラフラと手に持つ笏が頼りになっている。
それでも、見るからに警戒するような視線と体勢で、挟み込むようなゼウスとグレースに牽制をしている。
「それに・・初対面で、いきなり首を飛ばそうなどとは、あまりに礼儀がなっていないのではなくて?・・同じ魔女として恥ずかしいですわ」
「こっちとしては、お前が『魔女』を騙るなって話なんだけどね」
グレースのくるりと回した大鎌に、あからさまに反応し構えるミル。
「・・若いですわね。・・魔女とは生き方であり、在り方。誰かに認められてなるものではなくてよ?」
「まぁ、それが道を踏み外した免罪符にならないってことくらいは若輩者の私でも分かることなんだけどね。・・知ってる?貴女みたいな年だけ無駄に食ったやつを『老害』って言うんだって」
「・・・尻の青いお嬢さんは、年長者への敬意をご存知無いのかしら」
「若さに嫉妬するのはわかるけど、狭量な老人は嫌われるちゃうよ」
「・・クソガキ」
「若作りババァ」
指遊びのように指先で大鎌を回す、にこやかなグレースと。
青筋を浮かべ、拳を握り、微笑むミル。
思ったのとは違う一触即発の空気が生まれた。
そこに、影が差した。
夜が来たかのような大きな影。
だが、天蓋は消え、再び展開されたわけでもない。
「残念ですけれど、ここまでですわね。・・今日はこのあたりでお暇いたしますわ」
そう言って、スカートをつまむミルは優雅ではなくとも、堂に入った所作を見せた。
「おいおい、つれないな。私達とも一曲、踊ってくれよ」
「そうね。決して退屈はさせない自信もあるもの」
だが二人の声さえもかき消す様に、その場に暴風が叩きつけられた。
それでも動じず睨む二人の視線の中、微笑むミル。
「・・ドラゴン」
思わず漏らしたアンネ。
頭上に羽ばたき、巨大な影の正体。
それは、巨躯のドラゴン。
黒曜石のような光沢と漆黒の鱗を持つ、暗黒竜。
唸る程度の声すらビリビリと空気を震わし、血のように赤い瞳は視界に映るだけで身震いがする。
「ありがたいお誘いですけれど、迎えも参りましたし、失礼いたしますわ。本当なら貴方達の一人くらいは消すつもりでしたし、『ウル』も持ち帰るつもりでしたけれど、・・・思いのほか素敵な舞踏会にまで誘われてしまって、疲れてしまいましたの」
「・・・逃すと思うのか?」
「・・レオンハート。お前たち如きが囀るな。・・・それと、これですけれどお返ししますわ」
一瞬の覇気。魔力とは違う、魔力以上のもの。
そんな表情は一瞬の事で、直ぐにそんな気迫を消したミルはゼウスに何かを投げた。
勢いよくゼウスに投げられたそれは針のような矢。
中は空洞となっており、そこに毒物などを仕込む暗器。
当然ゼウスのよく知るものだった。
「あんな幼い少女に持たせるには、少し危ないのではなくて?・・まぁあたくしには効き目がなかったようですけれど」
「・・うちの妹からの差し入れは気に入らなかったか?」
ゼウスの言葉に返すは微笑みのみ。
「それではそろそろ、失礼いたしますわ」
「逃がさねぇよ」
その瞬間、ゼウスを中心に幾数もの魔法陣が展開された。
同時にミルを挟んで反対側のグレースの足元からも急激に伸びた樹木が意思を持ったように蠢く。
「あたくしに構っている暇はありまして?」
まるで嘲笑するかのような笑み。
その笑みはゼウスに向けられていたが、ミルの視線はゼウスを超え、その背後に向けられていた。
その視線に気づきゼウスは慌てて振り返る。
「アンネ!!」
ゼウスの声に振り返った瞬間、その反対からアンネは突き飛ばされた。
何が起きたのか一瞬、理解が追いつかなかった。
だが、その腕に抱き抱えていた温もりが無いことに気づき、突き飛ばされた方へ視線を動かす。
「・・・ティ、アラ、様?」
「ティアラっ!!」
ゼウスの叫びがアンネにも届くが、思考が追いつかない。
目の前にあるのはアンネを庇うように背を向けるティアラ。
蜂蜜色が揺らめく度に、光の加減で翠にも変わる、美しい髪。それが、目の前で靡く。
だが、それよりも目に入るのは、背中に突き出た、群青の珊瑚。
ゆっくり流れる目の前の光景。
たなびく髪の中、弾けるように粉々に砕ける珊瑚。
その珊瑚があった場所からは光の粒子が溢れ出すように吹き出す。
それと同時に、力を失ったように、視界から滑り落ちていくティアラの背中。
そこでようやく、その先の人物が目に入る。
歪に愉しそうに嗤う兵士。
それは、ティアラに言伝をした兵士。
だが、それ以上に見知った目。
執着に狂った、纏わりつくような感情。
その瞬間ほぼ反射的にアンネは手を振り切っていた。
兵士の首が飛んだ。
アンネは地面に落ちる前にティアラの身体を受け止めた。
「ティアラ様!ティアラ様!ティアラ様!」
必死に叫ぶアンネの目には次第に涙が溢れてきた。
ティアラの胸に空いた穴から光の粒子が溢れている。
そこでようやくアンネは気づき、自身の腰に触れた。そこにはホルスターがあるのだが、そこにあるはずの杖が一本足りなかった。
アンネは必死に呼びかけると同時に、ティアラの胸に空いた穴を塞ごうと手を押し付けた。
だが、溢れる光は、収まることもなく、指の合間から漏れていく。
その様が、まるで手元からティアラの命が零れ落ちる様で、アンネの叫びは嗚咽も含んだ悲鳴のように変わっていった。
「・・母親らしいことが、ようやく、出来ましたね」
消え入りそうな。だが、優しく穏やかな声。
「ティアラ様っ!!」
薄めを開けるのが精一杯のティアラだが、アンネに向けるのは苦悶の表情ではなく、慈愛の・・母の微笑み。
「・・・・貴女はゼウス様と共に世界中を巡っていて、私は傍に居れず、名ばかりの母でしたが。アンネ。私は、貴女をずっと愛していますからね」
ティアラはゆっくり、花を愛でるかのように柔らかく、アンネの頬に触れた。
その手は、サラサラと金の砂を零し、淡く光を放っていた。
そしてそれは手だけではなく、ティアラの体中から砂が零れおちていた。
「ティアラ、母さん・・・私も・・私も・・・愛しています、です」
ぎこちない笑みを向け、涙を流すアンネ。
その、手の力が強まるが、その零れ落ちるものを掬い止めることは出来ない。
「――――閣下。どうかなさいましたか?」
甲板から戦場を見つめるアークにラルフは声をかけた。
「・・・ティアラの魔力が――――」




