二話 竜の聖地
※サブタイトルを修正しました
1キュビエ=1.5mくらいです。毎度の事ながら。
天空を埋める星の光は冷たく、碧く清廉で無垢な気品を漂わせる。
時としてそれを見上げて、あるいは閃きを、あるいは感銘を受ける者があるが、ここにその中に潜む、星の力の存在を感じる者がいた。
星より来る力、かつてその力を人知を越えた能力で結晶化した者がいた。
天空に瞬く星の姿を、秘術により己のものとした人物。
その賢人の名はエルダ。
かつて地上の覇者であった植物がこの地を覆い尽くし、人と、人に似て非なる者と、花と風と土に愛された様々な生き物が、僅かな地上の覇権と、空と海の覇権を争っていた時代。
人を地上の新たな覇者として押上げる、星よりの力を我が物とした賢人。
しかしエルダの正当なる技を受け継ぎし者は、今の時代には絶えて久しかった。
ただ一人、星の海を見上げるこの少女は別だ。
栗色の髪に、淡いブルーの瞳を持つ風の民の導き手にて、オーマ(偉大なる母)の称号を受け継ぐ少女。
この少女だけが、古の神秘の技を口伝されていた。
少女は遥か南方を望み、一人の男の身を案じていた。
自分を助け、母国に弓ひいた者。ただ一人、見ず知らずの自分を守る為に、剣を揮った男の事を。
少女は思った。
どうかこの星々の光が、あの方の進む先の確かな道標となりますようにと。
正しき信念の為に自らの身を省みず、己の力で切り開いた道を進もうとする者を守り導いてくれんことを。
空に煌めく星は、悠久を越えて光と力をこの地上に運び、生命の源たる太陽の光の届かぬ夜の闇を、またその中でしか生きられぬ者たちを、慈愛に満ちた輝きで育んで来た。
少女の足下には、夜の眠りに誘われた花々が、頭を垂れて月光を待っている。
東の空から、真円に少し足りない淡黄色の光球が昇り始めた。太陽と対なる物、力強き生命の力に対なす、弱き命脈の光。
少女は暫しその月の光に、闇に力与える光に心奪われていた。やがてその歪な円を遮って、一瞬夜の闇色の翼が通り過ぎた。
少女の身を案じたのか、上空より音も無くヒラリと一体の痩躯が舞い降りて来た。
闇に溶け込む艶のある皮膚と、空の覇者である印を持つ者が、夜の色の翼を畳んで少女を見詰める。
『ごめんなさい。捜させてしまいましたか?』
『気にすることは無い、若きオーマよ。
汝の存在は何処にいても、すぐに感じられるのだから。ただ……』
『ただ?』
『先程から、汝の気が酷く遠いものになっていた。遠くを“視て”いたのか?』
『ええ。あの方のことを、案じておりました』
少女の傍らに降り立った者は、竜と呼ばれる悠久の時を越える一族だ。
その中でも、闇竜と呼ばれる、細身の身体と高い知性を持つ、光竜と双璧をなす長寿の一族であった。
竜族は他の知性ある生きものと、言葉で会話することを厭わない。
しかし普段は念話と呼ばれる、精神同士の感応で会話を行う。
心に思い描いた意識を直接相手と交換し合い、微塵の誤差も無く意志を伝える手段を好んだ。
『心配することは無い。あの御仁にも、二人の「流」が付いている』
『そうですね……何よりあの方は、強いお心の持主。
きっと、自ら道を見付けて進まれることでしょう』
そして、その道が自分と重なり合う物なのか、少女にはその答えを視る事は出来なかった。
未来は、吹き行く風が形作るもの。過ぎ去った風を視る事しか出来ない少女には適わぬ事だった。
『エルダは……始祖になら、未来も見通す事が出来たのでしょうか』
呟くような、囁くような静かな言葉。
その言葉の後、二枚の翼が少女を抱き、大勢の待つ人のいる町へ、ゆっくりと飛び去って行った。
◇
風の民、エル・オンが逃れた先は、岩だらけの山を幾つか越えた先にある、切り立った岩山に囲まれたお花畑の一角だった。
竜族は古くからこの地を祖先の聖地として、ここから大陸の至る所に、生活の場を広げていったのだった。
周囲の山は何れも荒れ果て、灰色の岩肌と黒灰色の礫に覆われていたが、低くなった鞍部には、地下より溢れ出した湧水の作る幾つかの泉と、原色の花の咲き乱れる草原とがあった。
風の民がいかに自然に近しい生活を送って来たとはいえ、ここに広がるお花畑の有様はまさしく別天地だった。
宗教家ならば、きっとこう表現するだろう。
ここはおそらく、神がご自身の遊び場として用意された特別の場所である、と。
「まさに、自然の恵みが集約している土地だな」
朝の陽射しと共に起き出したルマルスが、早朝の巡回を済ませて戻って来るなりそう呟いた。
彼は朝と夕の日に二回、『風船』を操って、周囲の山を監視してまわっている。
もちろん一人で全域を廻れるものではなく、他の竜たちと協力して行っていたが、それでも一時程を必要とした。
彼らを追って、新たな兵士がやって来ないかを監視するのが目的だった。
町を襲われた時、殆どの民が兵士の急襲に気が付かなかった。『風見』ですら、気付かなかったのだから無理もない。
まして、今はその風見もミシュアとルマルス、それにもう一人まだ幼い少年であるユアイと、既に地星を次代に譲って久しいラサの四人になってしまった。
警戒しすぎるという事はないだろう。
険しい山に囲まれた土地とは言っても、彼らが歩いて来る事が出来たのだ。
簡単には入り込めない土地ではあったが、安心は出来なかった。
この地は竜族の言葉で、『クェル』という。「泉の湧く所」という意味だが、人間に知られていないこの土地を、彼ら以外にそう呼ぶものはいなかった。
四方を山に囲まれた秘密の土地ではあったが、草原の広さだけでも、前に暮らしていた町の半分ほどの広さはあった。
その上、北に向かう谷筋の道が幾本かあり、その先にも同じような草原が広がっていた。
贅沢さえ言わなければ、生活圏として考えられるかなりの広さといっても差し支えなかった。
このような山間の草原で、普段通りの生活が出来るかと言うと、エル・オン以外の大陸人ではとても無理だろう。
道らしい道は無く、耕すべき畑も、狩りをする森も無かった。ただ、野に咲く花には食べられる種類が多く、小川や泉に魚も棲んでいた。
ルマルスは風船を岩陰にしまうと、家を作っている仲間たちに合流した。もともと竜族は「家」を持たずに生活する。
彼らにとっては大地が床であり、青空の天蓋が屋根である為、当然この土地には家と呼べる建物が無かった。
竜族は雨や嵐など何も問題にはしない。雨を浴びたければ風雨の中を飛び回っていればよいし、嫌なら雲の上に出てしまえば良いだけだった。
生活する時間の殆どを空中で過ごす彼らには、地上に固定された家は意味を持たなかったのだ。
しかし風の民には家が必要だ。彼らとて例外無くこの大陸に暮らす人間であって、生活のリズムも考え方も竜族とは違っている。
風雨は凌がなくてはならないものだし、食事の煮炊きをする竈も必要だ。
何よりもこの土地は、山間に付きものの風が強い場所だった。
風を生活の一部としている竜族にはうって付けの土地だが、強過ぎる風は人の生活には邪魔なだけだった。
この土地を吹き過ぎる強い風に喜んでいたのは、風船を扱うルマルスくらいのものだったろう。
とにかく、一日も早く残された全員が安心して休むことの出来る家が必要だった。
「ルマルス、済まないが、ちょっとこっちを見てくれ」
「あぁ、直ぐに行くから待ってくれ」
ルマルスは自分を呼んでいる男の元へ行く前に、幼子たちと数人の歳若い娘たちと一緒に朝食の支度をしている、ミシュアの側に駆け寄った。
「お帰りなさい」
「今朝も変りは無い」
二人の交わした言葉はこれだけだったが、相手を気遣う気持ちは十分に伝わっていた。
ルマルスは戻り際に、上手にナイフを使って芋の皮を剥いている少女の頭をそっと撫ぜた。
二人がまだ幼かった頃に、ミシュアも同じように母の台所仕事を手伝っていた。その暖かな思い出を心に浮かべていた。
少女は嬉しそうににっこり笑うと、剥き終わったばかりの芋を抱えて、竈の方に駆けていった。
このまま穏やかに暮らして行ければ良い。
いつも願っている事が、強く心に浮かぶ。その為にも見回りは欠かせない。回数を増やした方が良いだろうか、と思い始めていた。
そしてあの、嫌らしい喋り方をする男の不思議な移動方法、その秘密を調べなければと思うルマルスであった。
◇
こんな物かなと、ようやく建ち始めた家を見て、ルマルスは思った。この辺りに背の高い樹木は無く、家を建てるといっても本格的な物は出来ない。
「ラギさんって言ったっけ? 作り方を教えてもらって、助かったよなぁ」
屋根に当たる部分に草で編んだ目の粗い布を貼りながら、少年が嬉しそうに話した。彼はユアイという最年少の風見だ。
「向こうの大岩の先に、リュウに似た草がたくさんあった。あれも使おう」
彼は分かった、と言って二人の少年に声を掛けて草を取りに行った。
ルマルスは巡回の折に、役に立ちそうな草木や獣の姿、泉や小川の位置を確認していた。
いつまでここで暮らせるか分からないが、生活を営むにはそういった情報は必要になる筈だ。
彼らが建てている家は、大陸南部の草原地帯で暮らす、草の民が使っているユルトという物だ。
リュウという、2キュビエにも育つ丈夫な草の茎を骨組みに、毛皮や布を張って椀を伏せたような構造を作る。
簡単な構造で時間も掛からずに作れるが、長持ちしない物らしい。直径は3キュビエ程で、一つのユルトに4、5人で暮らすものだそうだ。
屋根の部分には、リュウの細く長い葉を何枚も重ねて、骨組みに添わせて結び付ける。リュウの葉の性質もあって、雨を凌ぐには十分な屋根材なのだそうだ。
残念ながらこの土地にリュウは生えていないが、代わりの物を探すしか無いだろう。今は代わりになる草の葉を集めて結び付けている。
暫くして、芋の煮えるいい匂いが漂ってくる。朝と夕の時間は、山間の土地でも滅多に強風は吹かない。髪を揺らす程の緩やかな風が吹く位だ。
家材用の草を取りに行ったユアイたちが戻ってきたのを見て、朝食を作っていた少女が皆に声を掛ける。
「ごはんできたよ~」
クェルには83名の風の民がたどり着いた。元は200人近く暮らしていたので、半分以上が亡くなった事になる。
風の民は遺体を埋葬する風習があったが、襲撃と移動の混乱で満足な埋葬が出来ていなかった。
代わりになる髪の一房を切り取って、ここまで運んできた者も多い。それらは共同の墓地に埋められて、墓石の代わりに小石が積まれ、花が飾られていた。
その墓石の前には、跪いて祈りを捧げる年老いた女性の姿があった。
「ラサさま、食事の用意が出来ましたよ」
ルマルスが声を掛けると、ゆっくり立ち上がったラサの目には、光るものが窺えた。
「歳を取ると、涙もろくなってだめね」
彼女は弱々しい笑顔を見せて、袖で涙をぬぐう。現存する風見の中で最高齢になる彼女は、つい三ヶ月前に地星を譲ったばかりだった。
そのお陰で死なずに済んだ事が、風見を守る為にバイスの兵士に殺された者たちが、不憫で申し訳なく思っていた。
「お気持ちは分からなくもないですが、ラサさまが生きて下さって喜んでいる者も多いのです。ご自分ばかりを責めませんように」
ルマルスが彼女の手を引いて戻ろうとしたところに、空から一人の竜が降りてきた。蒼い身体を持つ小型の竜族だ。
『若い者に肉が無いのはさみしかろうと思ってな。遠出してきた』
竜は手に持っていた二匹のコフをルマルスに渡す。
「これはありがたい。って、わざわざ翠の海まで行ってきたのか?」
コフという小型の獣は、主に大陸南部に広がる大草原、翠の海に生息している。他の地域では見かける事の少ない、肉の味が良い獣だ。
『別の用事がてらだな。大草原で夜族を見かけたと聞いた』
「え? 彼らはマイア周辺にしかいないはずでは?」
驚きを隠せず答えたのはラサである。
マイアは大陸西部の、突き出たような半島に有る国で、西の海の彼方から渡ってきた種族が建国の祖と言われている。
夜族とは元々西の半島に住む者たちで、人間からは異形と称される姿をした、地下に居住圏を持つ者たちだ。
マイアに住む人々というのは、褐色の肌を持つ、海を渡ってきたと称される人間種のブロウが中心である。
その他に、大河を挟んだ北方森林地帯に住む、痩身で尖った長い耳を持つ精霊族と、南の大草原から移り住んだ獣人種の草の民が少数住んでいる。
ブロウと草の民は好戦的で、精霊族は思慮深く争いを好まないとされているが、彼らは「夜族」を共通の敵と認識していた。
最も夜族にとっては、後からやってきて勝手に地上に国を作って、土地の所有権を主張するブロウや精霊族こそが非難されるべき敵であったのだが。
夜族の姿は異形であった。ずんぐりした身体と長く垂れた耳を持ち、短い手と曲がった脚をしている。
彼らは強靱な脚で跳ねるように移動する。身ごなしは素早く、力も弱くない。
そして、他種族から異形と見られる最たる特徴は、彼らの赤い目にある。
血のように真っ赤な、丸く小さな目が見る者を不安にさせる。夜族の活動の中心が、呼称の通りに夜にある為、その目は余計に不気味に感じた。
「夜族が翠の海に?……見間違えだろう」
『我らもそう思ったのだがな。念のためだ』
「実際にいたのか?」
『昨夜は見付からなかった。地下にいたのかもしれないが』
それにしても夜族か、ルマルスは一抹の不安を感じていた。今まで一度も聞いた事の無い話しだし、もし本当だとすると悪い前兆かもしれない。
自分たちの事もそうだが、何かが急速に動き出している、そんな嫌な感じが消えなかった。
二人は竜にお礼を言って別れて、食事を待っている皆の元に向かった。ミシュアに今の話しをするべきかどうか迷ったが、いずれ分かる事と考え直す。
風見である二人が同じ不安を抱えていては、ミシュアに気付かれない筈も無いのだから。