トラちゃんの野生が死んでいる件
「ねぇサトシ! 買い物をして帰るなんてどう?」
トラちゃんは「ナイスアイディア」と目を細め、胸元を押さえた。
胸元を押さえたのには意味がある。
神様から貰ったお金が下着の中に隠してあるからだ。
「このまま帰っちゃうなんて、すごーく勿体ないよねぇ?」
上目遣いに「ねぇ?」と言われると弱いが、即答は出来ない。
無垢な子供みたいに、店内をはしゃぎ回るトラちゃん姿が容易に想像できるのだ。
ハッキリ言えばめんどくさい。
痺れを切らしたトラちゃんが、右腕に絡み付いてぶら下がってくる。斜め下で目が合う。
「ねぇー良いでしょ?」
「……欲しい物があるなら、俺が買っとくけど」
「買い物がしたいんだって、私。神様と練習したから!」
言ってトラちゃんは目をキリッと三角にさせた。
「ヒマワリの種、一つ下さいな! 『五千円になりまーす』 はい! 五千円の紙です! 『おめでとうございます!』 ね?」
声色が高い方が神様のようだ。
「なんだよ、最後のおめでとうございますって。それに、ヒマワリの種はそんなに高くないから」
「そうなの? そんな感じにやっとけって神様が」
「適当な神様だな」俺が言うと、トラちゃんは「ハム神様だからね」とケラケラ笑う。その足元を見れば軽くステップを踏んでいた。
「まぁ、イイじゃん? 行こ行こ?」
トラちゃんがいつまで人間の姿でいるかは分からないけど、生活に必要な物は買う必要があるのかもしれない。
が、何を買えば良いのかまったく思い浮かばないし、女の子の物となればなおさらだ。
「まぁ、歯ブラシくらい買っとくか。万が一にも虫歯になったら大変だもんな」
「わお! 歯ブラシ! 人間だねぇ!」
目を輝かせ「良いねぇ」と白い前歯をのぞかせる。
「歯みがき上手にできるかなぁ、かじるのは得意なんだけどね」
「ああ、かじり木好きだもんな」
トラちゃんのケージに入れた、リンゴの木の枝が思い浮かぶ。
皮はトラちゃんが全部かじってしまったので、今は白い幹が剥き出しになっている。
ハムスターの前歯は一生伸び続けるので、硬い物をかじらせて伸びすぎを防止しなければならないのだ。
言うなれば、かじり木がトラちゃんの歯ブラシだ。
「サトシに磨いてもらおっかな」
「怒って噛みつかれそうで怖いんだが……」
「まぁ、嫌だったら噛むよね」
トラちゃんはニヤリと笑い、歯をカチカチと鳴らす。
冗談か本気なのかが分からないところが怖い。
「歯ブラシ、歯ブラシ嬉しいなぁ」
「んじゃあ、駅前に出るか。人通りがあるから気をつけてな」
「私、人間のプロですから! 弁えてます! 二本足です」
ほっぺの横でVサインを作るトラちゃん。
「心配だなぁ。あんまり浮かれるなよ」
「大丈夫、大丈夫」
言ってまた胸元を押さえたので、お金はポケットに入れて置くようにと伝えた。
****
トラちゃんが神様から貰ったのは、靴と下着とお小遣いの五千円だけだった。
「せめて一万円だろう」
「これ弱い? 歯ブラシ買えない?」
トラちゃんはジャージの右ポケットを押さえる。
「歯ブラシは余裕で買える。弱くもないけど、心強くはない」
「えぇー! 神様はハムスター五匹以上の強さって言っていたのに!」
トラちゃんは唇を尖らせ憤慨しているが、ハムスター五匹分の強さが俺には分からない。
ハムスターの事はハムスターに尋ねる。
「ハムスターって強いの?」
「弱いよ!」
即答だった。
「じゃあ妥当だな」
「そっかー。まぁ、そうだよね。ハムスターだからね」
「でも可愛いから」
「まぁね! 可愛いし、恰好も良い」
強さを可愛さに置き換えれば、ハムスター五匹は相当強い。
少なくとも俺はトラちゃん一人に勝てそうもない。
そんなトラちゃんは俺の右腕に絡みつくと「ハムスターはすごく可愛いから」と、適当な節を付けて歌い始めた。
人間を楽しんいでる。そんな感じだ。
しばらくは陽気に「ハムスター可愛い」と歌い続けていたトラちゃんだったが、駅に近づき人通りが増えるにつれ、歌は消え、口数も減ってきた。
「ねぇ……サトシ……」
探るような声は小さい。
続く言葉を聞き取るために、腰を落として首を傾けた。
「……私ってハムスター感、出ちゃってるのかな?」
ヒソヒソと囁く息がくすぐったく、逃げるように背筋を伸ばし、トラちゃんを見下ろした。
大きな黒い瞳が、心配そうにこちらを見ている。
「どう?」
黒い毛先と淡い栗色の髪の毛は特徴的だが、どこからどう見ても人間の少女。
「……人間にしか見えないけど」
「なんか、ジロジロ見られてる気がする! あ! もしかして、ハムスター臭いのかも」
トラちゃんはクンクンと鼻を鳴らし身体の匂いを嗅ぐ。
「わっ!」
トラちゃんが俺のワキに鼻をくっつけたのだ。
「俺の匂いを嗅ぐな! トラちゃんは臭くないし! 普通にしてれば変じゃないから! 離れろ、離れろ」
「でもさー……」
「トラちゃんの気にしすぎじゃないか?」
トラちゃんは「うーん」と納得のいかない返事をすると、俺の右半身に体をピッタリと寄せて歩く。
「トラちゃん、そう絡みつかれると、歩きにくい」
「隠れてるんだって! イイからイイから、前を向いて歩いてて」
トラちゃんは俺の横っ腹に、おでこをくっつけ、下を向いた。
「ぎゅーって目を閉じとくから! サトシが私の目ってことで」
「俺が恥ずかしいし、余計目立つよ」
「私いま隠れてるから! 見えてないから大丈夫なんだって!」
「トラちゃんから見えなくても皆からは見られてんだよ」
トラちゃんは目を閉じたまま歩くつもりらしい。
商店の呼び込みやアーケードの放送に、トラちゃんの背中が警戒している。
……ハムスターって神経質なところあるもんなぁ。
豪胆な事を言ってのけるくせに、音と視線に刺激され緊張しているのだ。
ハムスターが野生で生きる姿なんて、まるで想像できない。
音と振動、熱さや寒さにも弱い。
生まれ持った気の強さだって、弱さの裏返しだ。
まして、ペットとして生まれたトラちゃんは、絶対に野生には戻れないだろう。
トラちゃんの後頭部を見ながら思い浮かんだのは、昨日までのトラちゃんの姿。
ふわふわの短い毛に覆われたお腹を丸出しに、薄桃色の口を半開きにして眠るのだ。
もし、そこが大草原であれば、外敵に襲われた事にも気づかないまま天国だろう。
「ねぇ、もう着いた?」
野生には戻れない箱入り娘が俺の隣でビクついている。
警戒する小動物の心を開くには……。
「トラちゃん。お団子食べる?」
通りがかった和菓子屋の前で立ち止まる。
店先で焼かれた串団子に、店員の女性が餡をたっぷりと塗っていたのだ。
餅を焼く香ばしさに、トラちゃんは顔を上げ、それを興味深そうに見ていた。
俺はトラちゃんの答えは待たず、団子を一串買い、トラちゃんに手渡す。
「持ち手の串は食べられないからな? 餅だけを一個ずつ食うんだぞ」
「分かった! 頑張る」
トラちゃんは獲物を狙う吸血鬼のように歯を見せて構えると、持ち手側三個目の餅に齧りつき、一気に引き抜いた。
あ! そう思った時には、餅は全部口の中だ。
「コラ! 一個ずつ食えって言っただろう」
口を餅でいっぱいにしたトラちゃんは、苦しげだ。
「んぐー!」
「バカトラ! 餅は詰まるからな! 飲み込むなよ! ゆっくり噛め! 良いか、ゆーっくりだぞ! 出すなら俺の手に出して良いから、無理すんなって!」
「んんん……!」
意地でも出すまいと、首を振り、差し出した俺の手を払いのけた。
「食い意地をはるなよ」
人間になってもハムスターはハムスターなのか……。
トラちゃんの大きいとは言えない口の中を、団子が行ったり来たりしているのが、膨れた頬の動きから見て分かる。
「ふぇぇ……」
「待っててやるから、焦らずゆっくり食べろ」
トラちゃんの様子に慌てた店員が、店の中から水を持って戻ってくる。
「大丈夫ですか?」
口では言うが、顔を見れば呆れている。
俺だって呆れている。
「バカだなぁ……」
どうにか餅を水で流し込み、涙目で「美味しかった」と言うトラちゃん。
「お前の野生は死んでるよ」
「悪口やめてよね! バカトラとか言ってたでしょ」
今度は空気で、ほっぺたを膨らませているが、少しは緊張が解けたようだ。
「サトシには私が買ってあげるよ。お団子ひとつ下さいな」
ポケットの五千円札を握りしめ、トラちゃんは笑顔だった。