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SF短編

正義分別窓口へようこそ――燃える前に、その怒りを置いていってください

掲載日:2026/05/30

 炎上届が燃えたのは、午前九時十三分だった。


 市役所二階、生活安全課の一番奥。


 蛍光灯の下に置かれた白いカウンターの向こうで、俺は消火器ではなく、赤い分類スタンプを手に取った。


「すみません、これ、燃えてます」


 向かいの女性が青ざめた顔で差し出した紙の端から、細い煙が上がっていた。


 燃えている。


 比喩ではない。


 正義分別表の赤欄に強く丸をつけすぎると、用紙の感熱インクが反応する。国が導入した新型行政用紙の、ありがたくも迷惑な機能である。


(燃えるように作るな。窓口で)


 昔、止められなかった投稿があった。


 削除されたあとにも、壊れた関係だけが残った。


 だから俺は、焦げた紙を見るのが少し苦手だった。


 俺は赤い耐熱トレイを差し出した。


「落ち着いてください。これは仕様です」


「仕様で燃えるんですか!?」


「はい。国の仕様です」


「国って、すごいですね……」


「すごい方向を間違えています」


 女性は少しだけ口を閉じた。


 カウンターの上には、四つの箱が並んでいる。


 燃える正義。


 不燃正義。


 資源正義。


 有害正義。


 本当は、もう一つ箱がある。


 ただし、誰も使いたがらない。


 近未来の行政は、ついに怒りまで分別するようになった。


 きっかけは、五年前の大炎上月間である。


 芸能人、政治家、会社員、学生、飲食店、町内会長、名前の似ている別人。毎日どこかで誰かが告発され、断罪され、住所を晒され、謝罪動画を出し、別の誰かがそれを切り抜いてまた燃やした。


 国会は三日だけ真面目に議論した。


 そして四日目に、いつものように制度を作った。


 正義分別制度。


 実名、住所、勤務先、学校名、顔写真などを含む告発投稿は、投稿前に正義分別表で分類しなければならない。分類コードがなければ、主要SNSの投稿ゲートは自動で止まる。


 もちろん、制度をすり抜ける投稿はいくらでもある。


 それでも、立ち止まる人間が一人でもいれば、窓口は閉められない。


 ただし、スマホの画面で怒っている人間が、冷静に分類できるはずもない。


 そのため各自治体には、正義分別窓口が設置された。


 つまり、ここだ。


「それで、内容は」


「はい。この人、スーパーで半額シールの商品ばかり買ってるんです」


「はい」


「生活保護を受けているらしいんです」


「らしい」


「なのに、半額のお寿司を買っていたんです。社会のために、晒すべきだと思って」


 女性はスマホを見せてきた。


 画面には、遠くから撮った買い物客の後ろ姿があった。モザイクはない。顔は映っていないが、店名と時間ははっきり分かる。


「証拠は」


「私が見ました」


「生活保護を受けている証拠は」


「近所の人が言ってました」


「その近所の人は」


「たぶん、知ってる人です」


 俺は分類表の灰色欄にチェックを入れた。


「不燃正義です」


「不燃!? でも、税金ですよ?」


「現時点では、噂と後ろ姿です。燃やしてはいけません」


「でも社会のために」


「社会は半額寿司で滅びません」


 女性が口を開けたまま止まった。


 俺は控え票を一枚渡す。


「気になる場合は福祉課への一般相談にしてください。個人の特定につながる投稿は不可です」


「じゃあ、この怒りはどうすれば」


「お持ち帰りください」


「持ち帰るんですか?」


「はい。不燃ですので」


 女性は納得していない顔で帰っていった。


 カウンター横の灰色箱が、ぽこん、と軽い音を立てる。AI分類補助端末が、不燃正義を一件カウントした音だ。


 今日の一件目。


 まだ午前九時十七分である。


(帰りたい)


 俺は湯のみを持ち上げた。


 中身はもう冷めていた。


 生活安全課正義分別係。


 係員は三人。


 窓口は二つ。


 怒りは無限。


 人員配置として、どう考えても負け戦だった。


「青井くん。次、お願い」


 隣の席から、白石係長が小声で言った。


 五十代後半。怒鳴られても眉一つ動かさない、市役所が生んだ防火壁のような男だ。


「係長、俺、今の半額寿司で少し削られました」


「まだ午前中だ。削られるには早い」


「怒りにも午前割が欲しいです」


「国に要望しておく」


「通りますか」


「通らない」


 係長は淡々と言って、次の番号札を呼んだ。


 二番窓口に来たのは、スーツ姿の男性だった。


 手には分厚い封筒。


 顔には、正しいことをしている人間の硬さ。


「会社の上司を告発したいんです」


「内容を確認します」


「パワハラです。録音もあります。部下が何人も病んでいます」


 俺は背筋を少し伸ばした。


 こういう相談もある。


 全部が半額寿司ではない。


 男性は封筒から書類を出した。日時、発言内容、同席者、医師の診断書の写し。録音データのリストまで整理されている。


 正義分別表の赤欄に、AI端末が自動で黄色い枠を出した。


 燃える正義。


 ただし、燃やす先はネットではない。


 労働相談窓口、法テラス、監督署、内部通報窓口。そういう場所へ、すぐにつなぐ必要がある案件だ。


「これは赤箱です」


「投稿していいんですね」


「違います。すぐに動くべき、という意味です」


 男性の指が封筒の角を強く押した。


「でも、ネットに出さないと会社は動きません」


「出す前に、証拠が壊れない場所へ移します。あなたの身元も守ります」


「……守れるんですか」


「守るための手順です」


 俺は赤いスタンプを押した。


 紙が淡く熱を持つ。


 燃える正義。


 それは、人を燃やしていいという許可ではない。


 火事だから消防車を呼べ、という札である。


 赤箱で済む案件は、まだいい。


 急いで動けばいいと分かるからだ。


 本当に厄介なのは、赤にも紫にも緑にも見える怒りだった。


 そういう時のために、カウンターの下には白い箱がある。


 ただ、人手がかかりすぎるという理由で、誰も使いたがらない。


 男性はしばらくスタンプを見ていた。


 やがて小さく頭を下げた。


「お願いします」


「はい。隣の労働相談ブースへ」


 こういう時だけ、この仕事にも意味がある気がする。


 もっとも、その三分後に来た女性が、元婚約者の勤務先と新しい恋人の顔写真を拡散したいと言い出したため、その気配はすぐに灰になった。


「社会のためです」


「私怨です」


「でも、彼は浮気を」


「住所と顔写真と勤務先をセットで出すのは、有害正義です」


「でも私、傷ついたんです!」


 俺は書類の角をそろえた。必要以上に、きれいに。


「傷ついたことと、相手を危険にさらしていいことは別です。弁護士相談、消費生活相談、警察相談。使える窓口はあります」


「ネットは」


「使い方を間違えると、あなたも加害者になります」


 俺は紫色の有害正義保留票を出した。


「投稿ゲートは二十四時間停止されます。その間に、相談先を選んでください」


「……役所って、冷たいですね」


「熱いと燃えますので」


 女性は泣きそうな顔で笑い、すぐに下を向いた。


 紫色の箱が、重い音を立てて閉じる。


 有害正義。


 名前が強すぎる、と制度開始時から言われていた。


 だが、他にいい名前がなかった。


 危険な正義。


 混ざりものの正義。


 出し方を間違えた正義。


 どれも長い。


 結局、国は一番角の立つ言葉を選んだ。


(名付けセンスも有害だろ)


 俺は端末に入力した。


 午前だけで、燃える正義が三件。


 不燃正義が七件。


 資源正義が二件。


 有害正義が四件。


 資源正義というのは、個人を晒すのではなく、制度改善に回す怒りだ。歩道が危ない、学校の連絡体制がおかしい、会社の相談窓口が機能していない。そういうものを、匿名化して統計に回す。


 怒りをそのまま投げるのではなく、再利用する。


 名前だけ聞くと、少しまともに見える。


 もっとも昨日は、「夫が靴下を裏返しで洗濯機に入れる」という投稿を資源正義にしたい女性が来た。


 家庭内の運用改善としては、たしかに資源かもしれない。


 ただし、市役所の窓口で扱うには小さすぎた。


 昼休みのチャイムが鳴るころには、俺の机の上に控え票が積み上がっていた。


 白石係長が弁当箱を開ける。


 俺もコンビニのおにぎりを取り出した。


 その瞬間、番号札の発券機が鳴った。


 ぴろん。


 係長と俺は、同時に発券機を見た。


「昼休みです」


「窓口表示は」


「受付中になっています」


「誰ですか、切り替え忘れたの」


「青井くんだな」


「俺ですね」


 俺はおにぎりを置いた。


 受付番号、四十七番。


 待合に立っていたのは、少年だった。


 中学生くらい。


 黒いリュックを両手で前に抱えている。制服の襟元が少し曲がっていた。窓口の番号を見上げ、俺と目が合うと、小さく頭を下げた。


「どうぞ」


 少年は椅子に座った。


 足が床に届いているのに、爪先だけが落ち着かない。


 俺は用紙を出す。


「正義分別の相談でいいかな」


「はい」


「名前は」


「新堂悠真です。中二です」


「保護者の方は」


「来てません」


 悠真はリュックのファスナーを開けた。


 中から、正義分別表が出てくる。


 赤欄に丸。


 燃える正義。


 丸は強く、紙の表面が少し焦げていた。


「同じクラスのやつらを、ネットに出したいです」


 俺はペンを持ち直した。


「理由を聞かせて」


「いじめです」


 待合の音が、半歩だけ遠くなった。


 係長が弁当の箸を止めたのが、視界の端に入る。


「誰が、誰に」


「曽根たちが、真広に」


「真広くんは、君の友達か」


「はい」


「真広は、俺が一年のとき、最初に話しかけてくれたやつなんです」


 悠真はリュックのファスナーを見たまま言った。


「だから、今度は俺が何とかしないとって」


 悠真はスマホを出した。


 画面には、動画ファイルが並んでいる。日付ごとに、十本以上。


「先生に言いました。でも、じゃれ合いだって。真広も笑ってるからって」


「真広くんは笑ってたのか」


「笑ってました」


 悠真は唇を噛んだ。


「でも、笑うしかなかったんです」


 動画が再生された。


 教室の後ろ。


 男子生徒が一人、机の前に立たされている。別の生徒たちが、消しゴムのかすを集めて、彼の頭に乗せていた。


 笑い声。


 スマホを構える誰か。


 机の横で、真広という少年が口の端を上げている。


 声は出していない。


 次の動画では、上履きがごみ箱に入っていた。


 その次では、給食の牛乳パックが机の中で潰れていた。


 派手な暴力ではない。


 でも、毎日少しずつ削るやり方だった。


 俺は動画を止めた。


「これは、君が撮ったのか」


「はい」


「真広くんは、撮っていることを知っている?」


「知ってます」


「投稿することは」


「知りません」


 ペン先が、紙の上で止まった。


 正義分別表の項目が端末に表示される。


 身体的危険。


 継続性。


 証拠の有無。


 被害者本人の同意。


 個人情報の範囲。


 拡散による二次被害。


 AI補助端末が、薄い青の光で判定を出した。


 候補一、燃える正義。


 候補二、資源正義。


 候補三、有害正義。


 全部、近い。


 そして全部、遠い。


「投稿には、誰の名前を出すつもりだ」


「曽根と、山岸と、北川です。顔も出します。学校名も」


「住所は」


 悠真の肩が、ほんの少し揺れた。


「調べました」


「どうやって」


「卒アルの写真と、兄ちゃんのアカウントから。曽根の家、分かります」


 俺は画面を閉じた。


「それは出してはいけない」


「なんでですか!」


 悠真の声が初めて大きくなった。


 待合の人たちがこちらを見た。


 白石係長が立ち上がりかけ、俺は片手で制した。


「真広くんが苦しんでるんです。先生も動かないんです。学校も隠すんです。だったら、ネットに出すしかないじゃないですか」


「出したら、どうなると思う」


「みんなが怒ります」


「誰に」


「曽根たちに」


「それで止まるかもしれない」


「だったら」


「止まるだけじゃ済まないかもしれない」


 悠真の指がスマホを強く握った。


 画面に細い指紋がつく。


「曽根たちが悪いんです」


「そうだな」


「じゃあ!」


「悪いことをした子どもを、知らない大人の群れに渡していい理由にはならない」


 悠真の目が俺をにらんだ。


 まっすぐだった。


 そのまっすぐさが、少し痛かった。


「役所の人って、加害者を守るんですね」


「違う」


「じゃあ、何を守るんですか」


 俺は答えようとして、言葉が止まった。


 何を守るのか。


 被害者。


 加害者。


 学校。


 制度。


 自分の席。


 どれも少しずつ本当で、どれもそのまま口に出すには薄かった。


 俺は分別表を見た。


 燃える正義。


 不燃正義。


 資源正義。


 有害正義。


 真広くんを守るには、赤箱に入れる必要がある。


 学校全体の仕組みを変えるには、緑箱にも入る。


 住所を晒す投稿は、紫箱で止めなければならない。


 でも、悠真の怒りそのものを紫箱に入れるのは、違う。


 これは危ない。


 けれど、捨てるものではない。


(分別表に、ない)


 窓口の下に、使われていない箱が一つある。


 制度開始時に配られた備品だ。


 現場試行用。


 説明書にはそう書かれていた。


 だから、全国的にほぼ未使用になった。


 うちの市でも、最初の研修で「当面は使わない」と言われたきりである。


 俺は椅子を引いた。


 しゃがんで、カウンター下の奥に手を伸ばす。


 ほこりをかぶった白い箱が出てきた。


 白石係長の眉が、初めて動いた。


「青井くん」


「ありました」


「それは」


「未実装箱です」


「言い方」


「では、未来箱で」


「もっと怪しい」


 俺は箱のほこりをハンカチで拭った。


 側面に、細い字でラベルが貼られている。


『付き添う正義』


 悠真がその文字を見た。


「なんですか、それ」


「誰かを燃やす前に、誰かが一緒に行くための箱だ」


「意味が分かりません」


「俺も、研修では三分しか聞いてない」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫にする」


 俺は白い受付票を出した。


 通常の分別表とは違う。


 投稿保留。


 証拠保全。


 被害者意思確認。


 関係機関連携。


 同行支援。


 文字だけ見ると、役所の書類でできた地味な呪文だった。


 だが、呪文には呪文なりの効き目がある。


「悠真くん。君の投稿は、いったん止める」


「やっぱり」


「その代わり、今日、こども支援課と学校支援員につなぐ。証拠は保全する。真広くん本人の意思を確認する。必要なら、俺も一緒に学校へ行く」


 悠真の目が揺れた。


「市役所の人が?」


「市役所の人が」


「そんなこと、してくれるんですか」


「本当は、窓口でおにぎりを食べる予定だった」


「……すみません」


「そこは謝らなくていい。おにぎりは冷えても食える」


 悠真が、ほんの少しだけ息を吐いた。


 係長が後ろから低い声を出す。


「青井くん、同行は課長決裁がいる」


「緊急性ありで事後決裁にします」


「白箱の使用は、本庁報告だ」


「報告書を書きます」


「二枚では済まないぞ」


「三枚で」


「十枚だ」


(正義の代償が報告書十枚)


 俺は白い箱の投入口を開けた。


 紙の端が、かすかに震えている。


「悠真くん。君の怒りは、間違ってない」


 少年が顔を上げた。


「でも、出し方を間違えると、真広くんも、曽根くんたちも、君自身も壊れる」


「曽根たちは、壊れても」


「今はそう言いたいだろうな」


 俺は動画の入ったスマホを見た。


「でも、壊す役をネットに任せたら、君は止められなくなる」


 悠真の指が、スマホから少し離れた。


「止めたいんだろ」


「……はい」


「なら、止めるところまで一緒に行く。燃やすのは、その後でも遅くない」


「後で燃やしていいんですか」


「燃やさずに済ませるために、今から動く」


「大人って、ずるい言い方しますね」


「窓口で鍛えられた」


 悠真は白い受付票を見た。


 それから、リュックの中からもう一枚の紙を出した。


 手書きのメモだった。


 いじめがあった日付。


 場所。


 先生に言った日。


 返ってきた言葉。


 真広くんが早退した日。


 小さな字で、びっしり書かれている。


「これも、使えますか」


「使える」


 俺は即答した。


 悠真の肩が、椅子の背に少しだけ預けられた。


 白い箱に受付票を入れる。


 音はしなかった。


 赤箱のような熱もない。


 紫箱のような重さもない。


 ただ、紙が中に収まっただけだ。


 それでも、カウンターの空気が少し変わった。


 午後一時十五分。


 俺は昼休みを失った。


 代わりに、白い箱の初使用者になった。


 そこからは、行政の地味な戦いだった。


 こども支援課に電話する。


 学校支援員の予定を押さえる。


 悠真の保護者へ連絡する。


 真広くん本人の安全確認を依頼する。


 動画データを証拠保全用の端末に移す。


 投稿ゲートへ保留コードを送る。


 同じ説明を、違う部署に五回する。


 五回目で、自分が録音データになった気がした。


「つまり、投稿は止めたが、告発内容は重いと」


 こども支援課の水野さんが言った。


 四十代の女性で、声がやわらかい。だが、書類を読む速度が異常に速い。


「はい。被害者本人の同意確認なしに実名拡散するのは危険です。ただ、学校任せで放置する段階でもありません」


「白箱、使ったんですね」


「使いました」


「本庁が喜びますよ。実績ゼロで困ってましたから」


「現場は困ります」


「でしょうね」


 水野さんは笑わなかった。


 端末に日程を入れる。


「今日の放課後、学校へ行きます。青井さんも来ますか」


「行きます」


「窓口は」


 俺は背後を見た。


 白石係長が、弁当のふたを閉めたままこちらを見ている。


 目が合う。


 係長はため息を一つついた。


「行ってこい。窓口は俺が見る」


「ありがとうございます」


「ただし報告書は十枚だ」


「八枚で」


「十一枚だ」


「増えた」


 悠真が小さく笑った。


 この子の笑い声を、窓口で初めて聞いた。


 放課後の中学校は、妙に静かだった。


 廊下には部活動へ向かう生徒の声が反響している。掲示板には、合唱コンクールのポスター。下駄箱には、きれいに並んだ上履き。


 そのきれいさが、かえって息苦しい。


 校長室ではなく、相談室に通された。


 机を四つ合わせただけの部屋だ。


 学校側は、教頭と担任。


 市役所側は、水野さんと俺。


 悠真は母親と一緒に座っている。


 真広くんは、別室で水野さんの同僚が話を聞いていた。


「いじめという認識は、まだ学校としては確認中です」


 教頭が言った。


 俺はメモを取った。


「確認中ですね」


「子ども同士の関係性もありますので」


「関係性」


「一方的に断定すると、他の生徒の人権も」


「他の生徒の人権」


 俺は同じ言葉を、そのまま記録した。


 担任の先生が、わずかに顔をしかめる。


「記録されるんですか」


「会議録ですので」


「いや、そういう意味では」


「あとで確認できるようにします」


 水野さんが静かに言った。


 教頭の背筋が伸びた。


 役所の強さは、声の大きさではない。


 記録に残すことだ。


 なかったことにしようとした言葉を、紙の上に座らせる。逃げようとする責任の袖を、そっと机に留める。


 地味だ。


 地味だが、効く。


 悠真が俺を見た。


 俺はメモを続けた。


「動画を確認します」


 水野さんが保全端末を置いた。


 動画が流れる。


 相談室に、教室の笑い声が響いた。


 誰も笑わなかった。


 担任の先生の指が、膝の上で動かなくなる。


 教頭は何か言いかけ、口を閉じた。


 二本目。


 三本目。


 四本目。


 消しゴムのかす。


 上履き。


 牛乳。


 机への落書き。


 小さな出来事が、日付を重ねて並んでいく。


 それは一つ一つなら、言い訳の余地があるものだった。


 でも、並べると形になる。


 線になる。


 誰かが毎日踏んでいた線だ。


「じゃれ合いだと思っていました」


 担任の先生は、動画の四本目でようやくそう言った。


「でも、これは……続いていますね」


 その言葉を、水野さんがそのまま会議録に書いた。


「真広くん本人は、投稿を望んでいません」


 水野さんが言った。


 悠真の肩が強く動いた。


「でも」


「ただし、学校に対応してほしいとは言っています。明日から席を離すこと。登下校の確認をすること。関係生徒への聞き取りを今日中に始めること。保護者連絡を学校判断で先延ばししないこと」


 教頭が咳払いをした。


「今日中、ですか」


「今日中です」


「関係生徒にも事情が」


「あります。だから、ネットではなく学校内で聞き取る必要があります」


 俺はそこで口を開いた。


「この件は、正義分別制度上、付き添う正義として処理しています」


 教頭がまばたきした。


「付き添う、正義?」


「はい。実名投稿に進む前に、関係機関が同行し、被害の停止と記録化を行う区分です」


「そんな区分があるんですか」


「あります」


 ほぼ使われていないだけだ。


 制度というものは、存在しているだけでは役に立たない。


 誰かが棚の奥から引っ張り出し、ほこりを払って、机の上に置かなければならない。


 俺は白い受付票の写しを出した。


「このまま学校側の対応が確認できなければ、次の区分へ移ります」


「次の区分とは」


「燃える正義です」


 教頭の喉が動いた。


 炎上ではない。


 だが、行政手続の赤箱も、それなりに熱い。


 悠真は黙っていた。


 スマホを出していない。


 両手を膝の上で握っている。


 その横で、悠真の母親が何度も頭を下げた。泣きそうな顔だったが、泣かなかった。


 会議は一時間かかった。


 関係生徒への聞き取り。


 真広くんの安全確保。


 保護者連絡。


 スクールカウンセラーの予約。


 翌週の再協議。


 全部、紙にした。


 紙にすると、逃げ足が遅くなる。


 帰り道、市役所の公用車の中で、悠真は窓の外を見ていた。


「ネットに出した方が、早かったと思います」


「そうかもしれない」


「みんな、すぐ謝ったと思います」


「そうかもしれない」


「でも、真広が嫌だって言ったなら」


 悠真はそこまで言って、口を閉じた。


 俺は前の信号を見た。


 赤だった。


「君は、止めるために動いた」


「はい」


「今日は、そこまででいい」


「でも曽根たちは」


「これから聞き取りだ。必要なら指導も、保護者面談も、別の対応もある」


「軽かったら?」


「その時は、次の手を考える」


「また白箱ですか」


「白箱か、赤箱か、緑箱か。分類はその時だ」


 悠真が少しだけ笑った。


「役所っぽい」


「役所だからな」


「でも」


「ん?」


「一人で投稿するよりは、怖くなかったです」


 俺はハンドルを握り直した。


 信号が青に変わる。


「それなら、白箱にも少しは意味がある」


 市役所に戻ると、正義分別窓口の待合はまだ混んでいた。


 白石係長が、疲れた顔で控え票を積んでいる。


「おかえり。報告書は十二枚だ」


「また増えました?」


「君がいない間に、犬の散歩マナーを市長の陰謀として告発したい人が来た」


「それは何正義ですか」


「不燃と資源の中間だ」


「新分類ですね」


「やめろ。増やすな」


 俺は席に戻った。


 机の上には、冷えたおにぎりが置いてある。


 包装の角が少し曲がっていた。


 食べようとした時、端末が通知音を鳴らした。


 正義分別中央システム。


 白箱使用報告の自動受理。


 画面には、無機質な文字が並んでいる。


【付き添う正義 使用実績1件】


【職員裁量理由を入力してください】


 俺はキーボードに手を置いた。


 入力欄は狭い。


 だが、書くことは決まっていた。


『怒りを一人で持たせないため』


 送信。


 すぐに赤いエラーが出た。


【理由が抽象的です。具体的な処理内容を入力してください】


(そこは汲めよ)


 俺はおにぎりを一口食べた。


 冷えていた。


 でも、食えた。


 一週間後。


 曽根たちへの聞き取りは終わった。


 真広くんの席は変わり、登下校の確認も始まった。


 それで全部が解決した、とは言えない。


 ただ、昨日と同じ教室ではなくなった。


 廊下の視線が、急に優しくなったわけではない。


 関係生徒の保護者から学校に抗議も入ったらしい。


 それでも、真広くんの机に入れられるものは、教科書だけに戻った。


 白い箱は、カウンター下から上に出された。


 正式運用ではない。


 試験的設置。


 ラベルも手書きだ。


 白石係長が黒いマジックで書いたため、少し右肩上がりになっている。


『付き添う正義』


「字、曲がってますね」


「味だ」


「行政文書に味はいりません」


「白箱にも味が必要だ」


 係長はそう言って、灰色箱の位置を少しずらした。


 窓口の箱は五つになった。


 燃える正義。


 不燃正義。


 資源正義。


 有害正義。


 付き添う正義。


 並べてみると、白だけ少し浮いている。


 まだ制度の中で居場所を探している色だ。


 午前十時過ぎ、悠真が来た。


 今日はリュックを背負っている。


 隣には、細い体の少年が立っていた。前髪が長く、目元が隠れがちだ。


「真広です」


 悠真が言った。


 真広くんは小さく頭を下げた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 俺は窓口の椅子を勧めた。


 二人は座らなかった。


 真広くんが、両手で紙袋を差し出す。


「これ、母が」


 中には、個包装のクッキーが入っていた。


 市役所の窓口では、原則として贈答品は受け取れない。


 だが、これは明らかに高価ではない。


 そして俺は、午前中の糖分を必要としていた。


「係長」


「社会通念上の範囲内だ」


「ありがとうございます」


 真広くんの口元が、少しだけ動いた。


 笑ったのかもしれない。


 悠真がカウンターの白箱を見る。


「上に出したんですね」


「試験的に」


「使う人、いるんですか」


「今朝、もう二件あった」


「どんな?」


「町内会で回覧板を止められている人と、職場の不正を言いたいけど同僚の顔が映った写真しかない人」


「多いですね」


「怒りは多い」


 真広くんが白箱の文字を見たまま言った。


「あの、僕」


「うん」


「名前を出されたくなかったです。でも、何もしてほしくないわけじゃなかったです」


 その声は小さかった。


 でも、窓口の端まで届いた。


 悠真が横でじっと床を見ている。


「悠真が撮ってくれてたのは、助かりました。でも、ネットに出されたら、学校に行けなくなったと思います」


「……ごめん」


 悠真が言った。


 真広くんは首を振る。


「止めようとしてくれたのは、分かってる」


 二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。


 待合の発券機が鳴る。


 ぴろん。


 現実は余韻を待ってくれない。


(いい場面だったのに)


 俺は発券機を見た。


 次の番号札の人が、すでにこちらへ向かっている。


 真広くんが紙袋から一枚だけクッキーを取り出し、カウンターに置いた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 悠真が帰り際、振り返った。


「青井さん」


「ん?」


「白箱って、ネットにも作れないんですか」


「ネットに?」


「投稿する前に、一緒に考えてくれるやつ」


 俺は端末を見た。


 正義投稿ゲート。


 自動判定。


 拡散抑制。


 冷却時間。


 今の仕組みは、人を止めることはできる。


 でも、横に座ることは苦手だ。


「作れたらいいな」


「役所っぽくない答えですね」


「たまにはな」


 悠真は少し笑って、真広くんと並んで歩いていった。


 背中はまだ細い。


 でも、二人だった。


 俺は白い箱に目を向けた。


 怒りは、なくならない。


 告発も、断罪も、これからも起きる。


 誰かを守るための声と、誰かを壊したい声は、同じ顔をして窓口にやって来る。分別表だけで、いつも見分けられるわけではない。


 燃えるものは、急いで運ぶ。


 燃えないものは、燃やさず返す。


 使えるものは、形を変えて残す。


 危ないものは、止める。


 そして、どの箱にも入らないものは。


「青井くん、次だ」


「はい」


 俺は受付番号を呼んだ。


 カウンターの向こうに、また一人、スマホを握った人が座る。


 その人は、いつもの言葉を言った。


「これは、社会のためなんです」


 俺は分別表を出した。


 赤、灰、緑、紫。


 そして白。


「では、置き場所を一緒に探しましょう」


 正義は、捨てるものではない。


 ただ、出し方を間違えると、人を傷つける。


 だから今日も、市役所二階の一番奥で、俺は怒りの受付印を押す。


 白い箱のラベルが、蛍光灯の下で少しだけ光っていた。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 SNSで誰かを責めることも、告発することも、ときには必要なことだと思います。


 ただ、その正義が、誰かを守るためのものなのか。


 それとも、誰かを壊すためのものになっていないか。


 その置き場所を一度だけ考える窓口があったら、という発想から書いた短編です。


 怒りを捨てる話ではなく、怒りを一人で持たせない話として読んでいただけていたら嬉しいです。


 面白かった、考えさせられた、青井や悠真たちのその後が少し気になった、という方は、評価・ブックマークで応援いただけると励みになります。


 ほかにも、日常に少しだけ変な制度や仕組みが入ってくるSF短編を書いています。


 よろしければ、作者ページやSF短編シリーズから他の作品ものぞいていただけると嬉しいです。


 感想も歓迎です。

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悪を倒したい人向けに、社会悪を倒すゲームを作ったら、どうなるのだろう? それで満足するのか。正義に酔ってはまるのか。現実に手を伸ばすのか。 正しくないと言われた不満を晴らすためには、褒められない世界で…
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