第115話:若き魂と修行の極意
静寂の里で修行に励むトリスタン。しかし、その修行の内容は、崖を登り、悪路を走り、障害物を跳び越える……ひたすら肉体の限界に挑む基礎鍛錬ばかりだった。
愛剣である『クロイツ』を握ることもなければ、剣技の型を磨くこともない。ただただ限界ギリギリまで肉体を駆使して動き続ける日々。
だが、その過酷な鍛錬を重ねる中で、トリスタンの中に確かな変化が芽生えていた。今まで見ようとしなかったものが見え、聞こうとしなかった音が聞こえ、以前なら決してできなかった体の使い方が、自然とできるようになっていたのだ。
そんなある日のこと――。
「トリスタン! 来い!」
汗を拭っていたトリスタンに、カイエンが声をかけた。
トリスタンはカイエンの後について向かった。辿り着いたのは広場のような場所で、そこには木製の枠が立ち、2本の刀が立てかけられていた。
広場には、すでにサヤとコトネの姿があった。
「サヤ、頼む」
カイエンが告げると、サヤは静かに頷き、木枠に立てかけられていた刀を一本手にして広場の中央へと立った。
「じゃあトリスタン……行けるか?」
カイエンの視線を受ける。正直なところ、この里に来てから武器を手にするのはこれが初めてだった。心の準備も体の準備も、何一つできてはいない。
しかし――不思議なことに、広場に立つサヤから『自分を生かしてくれる気配』を感じ取っていた。自分が生かされるためには、同じく刀を手に取り、その目の前に立つこと。トリスタンは吸い寄せられるように木枠から刀を抜くと、サヤと対峙するように広場へ足を踏み入れた。
「それじゃ、いつでも始めてくれ」
カイエンの眼光が鋭く光る。
トリスタンは刀を鞘から抜き、右側にある2本の腕でしっかりと柄を握り込んだ。鞘を持つ左手を体の後ろへ引き、半身に構えて刀先をまっすぐ前に突き出す。かつてクリストフと共に編み出した、トリスタン本来の構えだ。
手にあるのは『キリコ』でも『クロイツ』でもない、静寂の里が用意した模擬戦用の刀。だが、刀身は鋭く研ぎ澄まされた真剣そのものであり、一瞬で断ち切られるような緊張感が漂っていた。
次の瞬間――トリスタンの眼前からサヤの姿が不意に消えた。
――キィンッ!
甲高い金属音が広場に響き渡る。サヤの鋭い一撃を、トリスタンは間一髪で受け止めていた。
もはや、目で見てから体を動かすことなど不可能だ。トリスタンは生まれて初めて、サヤの気配とその動きの「流れ」を感じ取り、咄嗟に体を反応させていたのだった。
次はトリスタンが仕掛ける。2本の右手から繰り出される重厚な一撃。しかし、サヤは最小限の動きでその刀を難なく弾き返していく。
激しい打物音が幾度も交錯する。低い姿勢をとるサヤを押しつぶすように、トリスタンは渾身の力で刀を振り下ろした。だが、地面をしっかりと踏みしめ、大地の力を全身に通わせたサヤは、2本の右手から放たれた力任せの一撃を事もなげに弾き上げた。
凄まじい衝撃で刀を跳ね上げられ、わずかに体勢を崩すトリスタン。それでも構わずに体勢を立て直し、再び刀を振り下ろそうとした――その時。
ぴたりと、サヤの刃先がトリスタンの右腕の肌に僅かに触れていた。
トリスタンの動きが完全に止まる。もし、そのまま強引に刀を振り下ろしていれば、サヤの刃によって自身の2本の右手が切断されていただろう。
「まだ……やる?」
サヤがにっこりと柔らかく微笑む。
「まだまだ……!」
トリスタンは後ずさりして間合いを取り直し、再び刃を交えに肉薄した。
トリスタンの激しい攻めを、サヤは受け流し、弾き、的確に打ち返していく。トリスタンは身体を大きく半身に開き、サヤの刃が届かない間合いから、長身とリーチを活かした渾身の突きを繰り出した。
だが、サヤはその突きを紙一重の見切りでかわすと同時に、トリスタンの刀身へ重い一撃を叩き込んだ。
ガァンッ!
凄まじい断ち撃ちに耐えきれず、トリスタンの刀が半ばから折れ、宙へ弾け飛ぶ。
次の瞬間、気配すら置き去りにする踏み込みで懐へ潜り込んだサヤの刀先が、トリスタンの鳩尾の数ミリ手前でぴたりと静止した。
「そこまでだな」
カイエンの声が響き、試合が止められた。トリスタンは折れた刀の柄を握ったまま膝に手を当て、肩で息をしながらうなだれた。
「よくやった。トリスタン、期待以上だ」
カイエンが歩み寄り、トリスタンの肩をぽんと叩く。
「え……?」
予想外の褒め言葉に、トリスタンは驚いて顔を上げた。
「私だってサヤの刀をあんなに返せないわ。ここに来て間もないのに、サヤとあれだけ打ち合えるなんて……すごいのね、トリスタンって」
コトネも感嘆の笑みを浮かべて語りかける。
「トリスタン、ちょっと来てくれ」
カイエンに促され、トリスタンはそのまま後をついて行った。
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静寂の里の屋敷の一室。締め切られた静けさの漂う座敷の中で、カイエンとトリスタンが正座で向き合っていた。
「さっき……お前はサヤをどう感じていた?」
カイエンの問いかけに、トリスタンは少し思案してから口を開いた。
「上手く言えないんですが……サヤさんに生かされているのを感じました」
「ほう?」
カイエンの眉がぴくりと動く。
「サヤさんが僕を生かしてくれるなら、僕はこう動けばいい……ただそう感じて動いていただけで、正直、目は何も捉えていませんでした」
トリスタンの言葉に、カイエンは深く満足そうに頷いた。
「それでいい。……だが、お前は目の前のサヤしか感じていなかった。サヤはお前だけでなく、踏みしめる土の動き、風の流れ、遠くでざわめく木々の揺れまでを感じ取って動いていたんだ」
「え……?」
トリスタンはぽかんと口を開けた。
「お前は普段の修行で、風の流れや木のざわめき、枝の揺れ、虫が這いずる気配を感じているか?」
「はい……道に飛び出た木の根っこや、伸びた草、岩が崩れる気配……ここに来てから、いろいろなものに気を向けるようになりました」
「目の前のサヤしか感じていなければ、何も見えないと感じる。しかし、土の動きや風の流れ……すべてを感じ取っていれば、自ずとサヤの動きが『見えた』はずだ」
カイエンの言葉が、トリスタンの心に深く、重く響く。
頭の中で何かがカチリと噛み合い、視界が一気に開けるような感覚が奔った。出し抜けに、何か大きな真理を悟ったような衝動が全身を駆け抜ける。
「気づいたようだな……。しかし、ここの修行はそれだけでは終わらんぞ」
カイエンは腕組みをし、厳かに言い放った。
「お前は風の流れを感じるようになった。しかし……その風が、なぜそこに吹いているのかを考えたことはあるか?」
「いえ……ありません」
トリスタンは素直に首を横に振る。
「その風がなぜそこを流れているのか、そこには必ず理由がある。だが、それは目で見たり頭で考えるだけでは捉えられん。深く感じ取らなければ、その理由は理解できないんだ」
二人の視線が真剣に交差する。
「風がそこに吹く理由が分かれば……次にその風がどこへ向かうのかが『見えて』くる」
カイエンの眼光が鋭さを増す。
「見えぬものを見て、聞けぬものを聞き、触れぬものを感じる……それこそが、静寂の里の修行の極意だ」
(見えぬものを見る……)
トリスタンはカイエンの放った言葉を胸の中で幾度も反芻した。その教えは、彼の魂の奥深くに強く刻みつけられた。
すると、カイエンの険しかった表情がすっと柔らかくなり、トリスタンへ温かい眼差しが向けられた。
「正直、この短期間でここまで到達するとは思っていなかった。期待以上だよ、トリスタン」
「カイエンさん……」
「あともう少しだ。しっかり頑張ってくれ」
「はいっ!」
トリスタンは胸を張り、晴れやかな表情で力強く頷いた。
深い霧に包まれた静寂の里。
その静寂の中で、また一つの若い魂が、より強く、より美しく研ぎ澄まされていくのであった。




