第1話:三本の腕を持つ少年
村に一軒しかない食堂は、本来の穏やかさを失っていた。
明日に迫る「死の宣告」を前に、恐怖を酒で紛らわせようとする男たちが昼間から気炎を上げ、店内は食堂というより、荒んだ酒場のような熱気に包まれている。
その喧騒から少し離れた片隅のテーブルで、一組の親子が静かに向かい合っていた。
遠目には、どこにでもある母子の風景。しかし、その子供は決定的に「特別」だった。
少年の名はトリスタン。
彼の右肩からは、二本の腕が並んで伸びている。
下の右手でフォークを操り、上の右手で器用にナイフを動かして肉を切る。左手は使われることなく、膝の上にだらんと下げられていた。
二本の右腕を駆使して食事を進める息子の姿を見て、母親のカトリーナがパチンと彼の「下の右手」を軽く叩いた。
「左手がお留守よ。ちゃんとしなさい」
トリスタンが右腕を二本持って生まれたこと、それは彼女にとって神からの授かり物であり、何ら恥じることのない個性だった。しかし、カトリーナはあえて厳しく接した。いつか息子が奇異の目に晒された時、卑屈にならず、周りと同じ価値観を理解した上で真っ直ぐに生きていけるように。
「こっちのほうが便利だよ」
トリスタンは口を尖らせた。彼は生粋の右利きだった。二つの右腕を使う方が合理的だとばかりに、母の制止を無視して肉を口に運び続ける。
「へへへ……見ろよ、ありゃカトリーナだぜ。息子が化け物だって噂は本当だったな。気味が悪いぜ、おい」
隣のテーブルで泥酔していた男たちが、下卑た笑い声を隠そうともせずに投げかけてくる。トリスタンの手がわずかに止まった。
「トリスタン……気にしないで。弱い奴ほど、よく吠えるものよ」
カトリーナが静かに、しかし凛とした声で言った。
その言葉が、男たちの逆鱗に触れる。
「んだとぉ! コラァ!」
一人の男が椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、激昂して腰の剣に手を掛けた。
刹那。
ガタン、と音が響くよりも早く、カトリーナの体は男に向いていた。その手には、さっきまで背負っていたはずのロングボウが、限界まで引き絞られた状態で握られている。
早いなんてものではない。まるで最初から弓を構えて振り向いたかのような、神速の抜撃。一切の無駄を削ぎ落とし、死線を潜り抜けてきた熟練者だけが到達できる「戦場」の技だった。
「あなたが剣を抜く前に、その頭を射抜くわよ」
カトリーナの眼光が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
その殺気に圧され、男は金縛りにあったように動けなくなった。額から嫌な汗が伝い落ちる。
「くっ……わ、わかったよ。行こうぜ」
男たちは代金をテーブルに叩きつけると、逃げるように食堂を後にした。
カトリーナは何事もなかったかのように弓を収め、再びテーブルに向き直った。
「ほら、フォークは左手に持ちなさい」
「……はーい」
トリスタンは渋々、下の右手を下ろし、フォークを左手に持ち替えた。
少しだけ怖かったが、今の母は誰よりもカッコ良かった。トリスタンは、自分を守ってくれる強い母親を心から誇らしく思っていた。
そんな息子の様子を見て、カトリーナは先ほどまでの鋭い表情を消し、聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
母と子の間に、再び穏やかな食事が戻ってきた。
「……すみません。討伐隊の方でしょうか?」
ふいに、不安げな表情を浮かべた村の男がカトリーナに声をかけた。
「そうだけど?」
「最後にご説明をしたいので、あちらの広場にお集まりいただけませんか」
「そう……わかった。食事が終わったら行くわ」
男が立ち去った後、カトリーナは窓の外に目を向けた。
そこには、明日にはすべてを蹂躙しにやってくる魔将軍バロールの、禍々しい旗が闇の中に揺れている。
死の恐怖が刻一刻と迫る辺境の村に、重く、冷たい夜のとばりが落ちようとしていた。




