挿話 某日セルバにて
ドミティラがその日の帳簿を付け終わり、そろそろ店を閉めようと思った時。
ゾク……と背筋が震えた。
抑えようもなく体が震えてくる。
圧倒的に巨大な存在量のものが近づいてくる。
震える手でペンを置き、そっと愛鞭に指を這わせ手繰り寄せた。
きつく握りしめ、息を整える。
……まるでドラゴナ――ドラゴンと魔獣の混ざりもの――みてぇだ。
こんな街中にそんなのがのんびり入ってくるわけがねえ。
入る前に町が吹き飛んでらあ。
じゃあコイツはなんだ。なんなんだ。
ドミティラの店の戸は引き戸で、いつも半分開けてあった。
その開口部から、音もなく「闇」が滑り込んできた。
ドミティラは悲鳴を上げそうになり、かろうじて堪える。
恐怖を抑え込んで見つめていると、ふわりと圧力が消えた。
「はっ……」
思わず息を吐いた。額から流れた汗が頬を伝う。
暗い店内に立っていたのは旅行用マントの女だった。
女はマントをさっと払うと、優雅に踏み出す。
マントの下の衣装を見て、ドミティラは目を剥いた。
慌てて居住まいを正し、女に向き直った。
「こ、こんな有様でして……足を千切られちまったもんで……その、膝をついてご挨拶できねえことをお許しください」
「まあ、お気になさらないで。形が良くても心が伴わない者はたくさんいますからね。あなたの気持は伝わっておりますよ」
女は優しく言うとカウンターまで近付いた。
ドミティラの手元に置いていた蝋燭の明かりに照らされて女の顔が浮かぶ。
肩に付かないぐらいで切り揃えられたまっすぐな髪は暗い色で、毛先に向けて色が抜け、白土色になっていた。
瞳は炎に反射して深い沼のような色を映す。
わずかに上げた口角が微笑のつもりなのかもしれない。
これが丘の神官――いや、「庭師」か。
ドミティラは最大の恐怖に震えた。
その実態はドミティラ程度では知る由もない。ただ過去に偶然、その一端に触れたことがある、それだけだった。
もっぱら辺境に現れるという丘の神官達だが、もう一つの呼び名については知る者は少ない。
皇帝陛下の安らかな眠りを守るため、陛下の庭たる帝国を「整える」者達。
それ以上知る必要はない。
知らないところで知らないうちに何かが変わる。それだけだ。
圧倒的な力の気配を備えた女は優雅に片手をあげた。
ドミティラはびく、とどうしても体が震えてしまう。
そんな様子に女はわずかに瞳を和ませた。途端、血の通った愛矯のある表情になる。
「大丈夫ですよ。あなたは自分の役を見事務めてみせました。これはご褒美」
女はドミティラの頭に手を置き、童のそれのように撫でた。
じんわりと体に温かいものが染み込むような心地がして――
「ぐ……っ! 」
失われた足が燃え上がったのかと思った。ミシミシと骨肉が軋み、勢いよく放出される感覚にドミティラはたまらず車椅子から転げ落ちる。
「……あっ……」
床でもがき、身を起こそうとして、それに気づく。
両手を床に付き、上体を持ち上げ、そして「膝」を付き、腰を上げた。
カウンターにしがみつくようにして立ち上がる。
「ああ……」
呆然とするドミティラを眺めて満足そうに領いた女は、ふう、と息をついた。
「上手くいったみたいでよかったです。わたくし、再生はあまり得意ではなくて。かなり魔力を取られてしまうの」
「あ……ありがとう、ございます……!」
ドミティラはカウンターに突っ伏すようにして女に頭を下げた。
涙が止まらなかった。
過去、両足を失ったことについて納得はしていた。
していたが、だからといって悔しくないわけでも辛くないわけでもなかった。
戦士としての自分がゆっくりと錆びついていく日々から必死で目をそらしてきた。店の前を通りすぎていく冒険者達が羨ましかった。
それでも生きてさえいれば。
生きてさえいれば、いつかまた自分の出番がくる。それがどんな端役であろうとも。そんな妄想のような希望を抱いて踏みとどまってきた。
あの「子供」が現れた時、なるほどこれが自分の役なのかと思った。
勘違いかもしれないが、自分の前にあの子が来たのは、そういう巡り合わせなのだと思った。
しょぼくれた店の奥で一人ぼっちで何も成さずに朽ちていくとしても、精一杯やれることはやって腐らず生きてきたつもりだ。
その重苦しい曇天のような日々が今、報われたと思った。
もう終わったと思った人生が、戻ってきた。
「さて。わたくしは今少し、この町を『剪定』していこうと思います。あなた手伝ってくださる?」
慣らし終わってからでよいですよ、と言う女の言葉にドミティラはバッと顔を上げた。
腰の愛鞭を取り、一動作で天井の梁に鞭を絡みつける。 その勢いのまま自分の体を空中に持ち上げ、くるりと回って床に着地し、片膝をついた。鞭はとうに仕舞われている。
「お気遣いなく。今からでもいけます」
「さすが『操り鞭』。たのもしいこと」
女はドミティラの美名を口にして、踵を返した。
庭師の方々にとっては道端の雑草のような自分の名でも把握していらっしゃる。
そんな方々の手足となれることに胸が震えた。
「陛下のお庭に汚泥はいらない……美しい花だけ咲けばよいのです」
女――リッカドンナは優雅に神官服の裾を翻し、歩み出した。
「セルバの大火」が起こる二日前のことである。




