幕間 既知との遭遇
よく眠りよく食べ、プールで涼み図書館で涼み、マンガを読んでテレビを観まくった夏休み前半。
打って変わって部活動に明け暮れた後半。
そんな夏休み最後の大仕事を挙行すべく、陽の上がりきっていない時分に威勢よく自転車のペダルを漕ぎ街中を疾駆する枢子。
見晴らしのいい高台の上の緑豊かな公園に差し掛かったところで、見知った顔にばったり出くわした。
他でもない、一昨日の帰途先輩二人に寄ってたかって冷やかされた、例のクラスメイトだ。
一目見てジョギング中と判った。
「航也、何してんの」
自転車を止めて尋ねる。
当の相手は枢子の手前まで来て走るのを止め、息を整えつつ右腕の黒いリストバンドで額を流れる汗を拭った。
ボーダーTシャツに膝丈のパンツ。
良くある普段着だが、見慣れない服装のせいか枢子の眼にはやけに新鮮に映った。
「見ての通りだ」
「健康的じゃん。感心感心。運動部みたい」
「運動部だろ実際」
素っ気ない返事はいつものことだ。
こうして偶然顔を合わせただけでも、枢子は邂逅を司る神様に感謝したくなった。
航也はカゴの中の荷物をまじまじと凝視してから、お前こそ何してんだ、と訊いてきた。
「大層な荷物だな。どこ行くんだ」
「ヒミツっ。そんなに知りたい?」
「いや、別にいい」
「またまた無理しちゃって。ホントはついてきたいんじゃないの?」
フンと溜め息を吐いた航也は、そのまま公園内に入っていってしまった。
所在なげに眼で追う枢子をよそに、門柱近くの水飲み場で顔をバシャバシャ洗い始める。
「タオル持ってるの?」
自転車を突いて後方から近づき、声を掛ける。
「いや、ない」
洗顔を終えると、航也は着ているシャツの裾を引っ張って顔を拭こうとした。
「ちょ、ちょっと待って。だったらこれ使って」
慌てて呼び止め、枢子は袋から取り出した柔らかい布地のタオルを、はい、と手渡した。
顔面を叩くようにして手早く水分を拭き取り、航也はサンキュ、と小声で言った。
「用意がいいな」
「まあね。わたしはいつでも用意周到だから。こんなこともあろうかと」
「その割に、合宿のとき替えの下着忘れたとかで大騒ぎしてたよな」
枢子はジョギング直後の同級生に劣らず両頬を上気させ、
「あ、あんたねー、蒸し返さないでよそんなこと」
「これ、洗って返すよ。休み明けでいいよな」
一方的に決められ、枢子は、え? と一瞬声を詰まらせたが、すぐに向き直り、
「いいよいいよ、洗わなくても。全然汚くないし」
努めて明るくそう答えた。
当の航也は飄々とした様子で、
「そっか、じゃあ」
と、丸めたタオルを放って寄越すのだ。
気遣いに気遣いで応じて結局落とされるという、航也とのやり取りでは頻出する行動様式である。
「何よもう」
「……? 何怒ってんだ。ちゃんと返したろ」
「はいはい」
黙々とクールダウンのストレッチに励む航也を横目に、丁寧に折り畳んだタオルを元通りに仕舞う。
箱形のブランコに乗って戯れる親子連れの楽しげな会話が、広い公園を彩るように響き渡る。
「枢子、お前盟の家に行くんだろ?」
「え」不意に話しかけられ、はっと我に返る。「うん、そうだけど。なんだバレてたか」
「途中まで道同じだから、俺も一緒に行くわ」
「あ、そう……別にいいけど」
公園を出て、横並びに歩道を歩く。
「ねえ、航也」
「……ん?」
「航也はさ、墓荒らしの話、どう思う?」
「……実際会ってみないと、なんとも言えないな」
「…………」
早くも途切れる会話。
なんだか初めに喋ったら負けという設定みたいな、変な緊張感が枢子の中に生じ始める。
対する航也はこの不自然な沈黙に、ちっとも焦りを感じていない様子だ。
というより不自然にすら思っていそうにない。
この種の沈黙によほど耐性があるのか。
などと徒然なるままに思っていると、
「盟から聞いたんだけどさ」
航也にいきなり切り出された。
こういう捉え所のなさが、茅逸をして、「何考えてんのかよく判んないねェあいつ」と言わせしめる所以なのではあるけれど。
「な、何よ急に」
「お前さ、西側の上り階段の下で、知らない奴と話してたろ」
学校の話か。
しかしそんな記憶はない。
「いつの話よそれ」
「休み前」
何週間前の話だよ。
ただ、時期が判明したので即座に思い出すことができた。
「あーあれね、まあちょっとね」一旦言葉を区切り、ちらりと航也の顔を横目に見て、「そんなに気になる?」
今度は睨み返された。
素直に気懸かりですって言えばいいのに。
意地っ張りめ。
「盟に言っとけ。そんな下らないこといちいち報告すんなってな」
「……はいはい、判りました」
下らないとは何よ、失礼千万だわ。
わたしが誰と喋っていようがわたしの勝手だし、あんたにゃ関係ないじゃん。
物凄く言い返してやりたかったが、どうにか怺えてみせた。
近くて遠い二人の間を再び沈黙が支配する。
〈速度落とせ!〉の立て看板が斜めに傾いだ見通しの悪いカーブを曲がると、三叉路が見えてきた。
ここで航也とはお別れだ。
「じゃあな」
リストバンドをしていない左手を怠そうに挙げる航也。
「あ……うん、じゃあね」
淡白すぎる挨拶を残して航也はそそくさと駆け出した。
あっという間に遠くなるボーダーシャツの背中を名残惜しそうに見送ったのち、気を取り直してサドルに跨る。
それは合宿漬けの夏休み後半を送った枢子の前に現れた、儚い陽炎じみたご褒美のようでもあった。
まあいいか。
話ができただけでも儲け物と思わなきゃ。
悲観する必要なんてどこにもない。
チャンスはこの先幾らでもある。
あるはず……そう心に言い聞かせ、航也の選んだルートとは別の直線道路を颯爽と漕ぎ進もうと足に力を入れた瞬間。
ポンッ。
不吉な音に続き、路面の感触を伝える後輪が不安定に揺れ出した。
元々サスペンションがないとはいえ、このがたつきは異常だ。
「あちゃー」
これもまた解体屋の面目躍如というべきか。
自転車のパンクだった。
夏休みに入って既に三度目の。