第2幕 勉強会という名の雑談あるいは〈反則〉(1)
「……おーい。ねえ、ちょっと枢子、聞いてんの?」
「……へ?」
高校生活最初の夏期休業、その締め括りは当然溜まりに溜まった宿題の処理だ。
午前中に起きた偶然の邂逅に思い巡らせていた枢子は、盟の声で敢えなく現実に引き戻された。
「何物思いに耽ってんのよ」
「そ、そうね。ごめんごめん」
頬を叩いて数学のプリントに対峙する。
物言わぬ難敵の数々に頭が痛くなる。
「〈……これらの解及び共有点の個数を求めよ〉。盟、二次関数ってなんだっけ」
「ちょい待ち……じ……次数が、2の多項式によって表される関数ってあるけど」
「次数? 多項式? ……そもそも関数って何?」
「だぁーっ!」シャーペンを机の上に投げ出し、盟は後ろざまに思い切り倒れ込んだ。「もーやめやめ! こんなに暑くちゃ勉強なんてやってらんない」
「まぁね……」呼応するようにシャツの襟をパタパタ扇ぎながら、応える枢子。「数学だけは明日誰かに見せてもらおっか」
「うん、そうしよう。もーダメ、ムリ、ゲンカイ」
「なんでエアコン壊れちゃったんだろうね」
「枢子が来たからじゃないの。あんた昔っからそういうとこあるし」
「濡れ衣だ!」
強風設定の扇風機が首を振り続けているのは、郊外に位置する海棠宅の二階、長女・盟の自室。
一応は宿題に追い込みを掛けるための勉強会という名目になっているものの、数度の休憩を挟んだのち、暑さに耐えきれないという詮方ない理由から、その内実は単なる雑談にすり替わろうとしていた。
計る者など誰もいないが、結局のところ勉強時間は一時間と続かなかった。
「ところで盟、あんた航也に妙なこと言ったでしょ」
「え? 何が?」
氷のほとんど解けてしまったグラスにウーロン茶を注いでいる盟は、心身共にすっかり寛ぎモードへ突入していた。
ゴージャスな巻き髪のミドルレイヤーとは似ても似つかない、飾り気のない気さくな性格は、穿った見方をすれば短所に取れないこともないのだけれど、そこまで深読みしない枢子には、なんでも気軽に相談できる親友の鑑だった。
「わたしが一階の階段の下で誰かと話してたって」
ウーロン茶で口を潤し五秒ばかり黙考していた盟は、あーあれね、そうそう言った言った、と瞳を輝かせた。
「なんか様子がおかしかったからね。ちょい気になったんよ」
「様子おかしかった?」
どういう意味だ?
「人目につかないようにこそこそしてたじゃん。だから桐沢と逢い引きでもしてんのかなーって思ったわけよ。そしたらあたしの知らないオトコだったもんだから」
オトコ……そこまで見られていたとは。
油断も隙もあったもんじゃない。
「そんなわけで、こりゃちょっと桐沢にも報せてやんなきゃと思ってね」
「余計なことしないでよねっ」
「ゴメンゴメン。でもこれも親心だからさ。大目に見てよ」
なんじゃそりゃ。
「ほら、枢子が違うオトコといちゃついてるって知ったら、あいつも少しは焼き餅焼くじゃんか。いい刺激になるかなーなぁんて」
「刺激っていうか波風立たせたいだけでしょーが」
「あはは、そんなんじゃないって」盟は引き攣った笑いを口許に宿して、「ほら、枢子たちの煮え切らない態度見てるとさ、じれったいっていうか、じっとしてらんないのよ。お互い連絡先も知らないんでしょ? もう天然記念物クラスの奥手じゃん」
そんなものだろうか。
枢子も冷たいお茶を喉元に流し込み、少し考えてみた。
航也との付かず離れずな感じが、盟や諸先輩方にはもどかしいらしい。
とはいうものの、あの航也から真意を訊き出すのは容易じゃない。
いや、直接尋ねればそれで済むのだけれど。
でもそんな芸当ができれば最初から苦労しないわけで。
うーむ。
「いや、あのね、わたし大体そんなに航也のこと気にしてなかったんだよ。盟とか部活の先輩がいろいろ言うから、段々意識するようになっちゃって」
「あっそう。じゃあさ、階段で話してたのは誰なのよ? 上級生?」
早くも話題が逸れ始めた。
むしろ盟の興味がシフトしたと言ったほうが正確か。
「柱が邪魔で横顔しか見えなかったからさ、実際よく判んなかったんだよね。なんか、変な柄のシャツ着てた気がするんだけど。まさかあたしの知ってる人?」
「多分知らないと思うよ」
「じゃあ誰よーっ! もーっ、大人しい顔して隅に置けないんだから。御厨先輩だったらマジ承知しないよっ」
「んなわけないって。もしそれでビンゴだったら、盟その場で気づくでしょ」
「そりゃそうだけどさー、まぁそのとき一緒にいた先輩も見憶えないって言ってたしね」
盟が怒るのも無理ないか……部活の先輩の名が出たところで、枢子の思考はそっち方面へ追いやられるかに見えたが、盟の言葉にすぐさま遮られた。
「ほんっと役得だよねー枢子の場合。毎日御厨先輩と恋愛とか青春について語り合えるんだもん」
語らない語らない。
「あたしも墓守部に入りたかったわぁ」
あまりに気落ちした様子で言うので、可哀想になってきた。
「ごめんね。わたしも何回か掛け合ったんだけど、月島先生頑固でさ」
「いいよ。知ってる。あんときはあんがと」グラスの中身を一気に呷った盟は、大人の飲み物でも飲み干したようにクーッと甲高い声を上げ、「入部者は完全指名制ってのが創部以来のしきたりなんだよね。部外者のあたしがぼやいてもしょーがないし」
入部希望者に関しては完全に盟の言う通りで、校内でも指折りの異色の部活である墓守部は、現在部員が六人しかいない。
まあ全国的に見ても、こんな運動系とも文化系ともつかぬ奇っ怪な名前の部活動、そうそう存在しないだろう。
けれども部員の少なさは決して名称の異常さや、そこから連想される不気味な雰囲気に起因するものではなかった。
もしこれが制限を設けずに来る者を拒まない間口の広さを持っていれば、物珍しさや部長の人気も相俟って部員は相当数にまで膨れ上がっていたはずなのだ。
それがこの程度で収まっているのは、偏に入部希望者への奇妙奇天烈な篩い落としによるものだった。
「でも墓守部って、ほんと美男美女揃いだよねぇ」
「そうかな?」
「またまた謙遜しちゃって。あ、顧問は抜きでね」
「言えてる」
先に挙げた六人以外にも、三十路まであと数年という顧問の化学教師・月島十五と、マスコット的存在として可愛がられている一匹のワンちゃんが墓守部に所属している。
そして入部者の決定権は他でもない、御年五歳になるメスの北海道犬、〈オスターバーグ〉が掌握していた。
オスターバーグはもう今が何代目なのか定かでないほど古い家系を持つ、大変由緒ある犬で、その意向にはエサをやる立場の顧問でさえ逆らうことはできない。
「なんか、あの先生だけ浮いてんだよね。まだワンちゃんのほうが馴染んでる感じ」
「まあ、そうだね。あんま先生っぽくないし」
部員の選出方法はというと、入学式以後暫くの間、墓守部の者が人通りの多い時間帯――主に登下校時刻など――を見計らい、オスターバーグを散歩に連れ出す。
鋭い眼光には程遠い円な瞳と、適度に湿った黒い鼻が、行き交う生徒を見分け、嗅ぎ分け、やがて……そんなオスターバーグがなんらかのリアクションを示した新入生に限り――九割方は相手に向かって〈吠える〉そうなのだが――入部を許可するのだ。
どういった訓練を受けているのか、あるいはそれが当たり前なのか、オスターバーグは平常時にはほぼ声を発さない。
クーンとかハッハッくらいは言うけれど、ワンワン吠え立てることはまずなかった。
彼女が吠えるのは、新たな部員を見つけたときだけなのだ。
「九条先輩はいつも元気いっぱいで、頼りがいのある姉貴って感じだしさぁ、簓木先輩の厳しい中に見える優しさもまたいいんだよね。学校始まったらさ、また先輩たちと一緒にお昼食べようよ」
「そうね、伝えとく」
更に、これも通常の部活としては考えられないことだが、選ばれた側に拒否権は一切存しない。
つまり一度声が掛かってしまうと、当人の意思如何に関わりなく、該当者は強制的に部員として登録されてしまうのである。
全くもってありえない話だ。
ただし他の部活動との掛け持ちはOKで、大会や発表会が近い際にはそちらを優先しても良いことになっている。
今のところ部活を兼任しているのは、サッカー部にも籍を置く航也一人のみ。
因みに盟は男子サッカー部のマネージャーだ。




