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悪魔の洗礼  作者: 東方博
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三十四

 最も罪深いのは、誰かに深い傷を負わせておきながら全く自覚していない人間だ。傷を負わせた相手のことも、傷を負わせたことすらも覚えていないーーまさしく泉達也は、小川もとい山田泉にとって、許しがたい存在そのものだった。

 だから彼は最後に残しておいた。

「これで全員、ですね」

 尊の確認に山田泉はゆっくりと頷いた。吉井孝太、沢田拓巳、榎本光、そして泉達也。この四人に復讐するために山田は尊を雇った。

「ご満足いただけましたか?」

「ええ。ありがとう」山田は皮肉げな笑みを浮かべた「おかしいでしょう? いい歳した大人が手間とお金を掛けて中学校時代の復讐をしたいだなんて」

 十年以上も昔のことだ。泉達也が「頭がおかしい」と喚く気持ちはわからなくもない。今さらどうして、という思うのも当然の心理だと。

「他者の賛同は得難いでしょうね。そもそも学生時代に集団内で虐げられた人間は割合として全体の三十分の一かそこらでしょう。ましてやあなたのようにトラウマになるほど苛烈なものはさほど多くはないかと」

「ではどうして、力を貸してくれたの?」

 何故当時訴えなかった。十年も経って今さら一方的に責められても困る。こっちにだって言い分はある。それは全て加害者側の理屈だ。時間の経過で犯した罪は軽減されない。三年前の殺人と三日前の殺人の罪に差がないことと同じように。

「高値でお買い上げいただきましたから」

 冗談めかして答えたら、山田は目を細めた。咎める眼差しだった。尊は早々に観念して白状した。

「同族のにおいがしました」

 深い傷と憎悪、そして世の理不尽さを知っている者同士。だから手を貸した。

 尊が初めて犯されたのは十歳の時だった。相手は思い出せないーー思い出すことを脳が拒むからだ。

 わかっているのは父か、二人の兄の内のどちらかということだけ。彼らは以前から家族であることを盾に、尊に過剰なスキンシップをはかっていた。舐めるように身体に触れ、あるいは尊の手を取って自身を触らせた。背筋を這うような怖気は今でも鮮明に思い出せる。

 中学生になっても尊は一人で風呂に入れなかった。必ず父か兄達が押し入って、尊を弄んだ。誰にも言えなかった。言ったとしても誰が信じただろう。傍目には裕福な仲睦まじい六人家族。その実態は夜な夜な三男を陵辱する父親と兄二人。

 中学二年になり親戚の叔母に引き取られるまでの四年間、尊は牢獄のような家で地獄を見た。

 東京にやってきて、家族から離れても尊は過去からは逃れられなかった。高校ではクラスメイト数人に襲われ、大学に入ったら教授に愛人になるよう迫られた。自分は男を引きつける体質なのだと悟らざるを得なかった。

 しかし尊は異性愛者だ。過去のトラウマもあるので男に言い寄られたところで嫌悪感しかわかない。が、相手はお構いなしに尊が誘惑したのだとのたまい、関係を持とうとする。

 泉達也が安易に「羨ましい」と口にしたことは、つまるところそういうことだ。

 尊にとって、自分の上で必死に腰を振る男は皆、ケダモノだ。人間ではない。だからケダモノを駆除しても露ほども尊の心は痛まなかった。

 自分が歪んでいる自覚はある。しかしもはや尊自身にもどうにもならなかった。

「私もあなたと同じように『削除』しなければならない者が何人かおりまして」

 父も兄二人も、生きている。立派な社会人として暮らしているらしい。人づてに知った事実に、尊は我を忘れるほどの激しい怒りを覚えた。

『父は製薬会社の代表取締役』

 息子を犯した父親が。

『長男は大学の准教授』

『次男は父の後を継ぐべく同じ会社に勤務』

 弟を犯した兄どもが。

『エリート街道まっしぐら』

 何故何事もなかったかのように生きているのか。自分の人生を歪めた連中が何故、順風満帆な人生を送っているのか。穏やかな一生を送る権利などありはしないというのに。

 他人を弄び陥れる尊を『悪魔』だと泉達也は罵った。ごもっともだ。しかしその悪魔を生み出したのは、泉達也のような自分のことしか考えられない連中だ。

「あなたにとって泉達也さんは乗り越えるべき歪みの原因なのでしょう。過去を清算してこそ歪みは正され、前に進むことができる」

 いわばこれは山田泉にとっての禊であり、洗礼なのだ。人間が成長していく過程で迎える通過儀礼ならば、避けては通れまい。

「行かれるの?」

「少し派手に動いてしまいましたからね。ほとぼりが冷めるまでしばらく神奈川を離れます」

「そう」山田は目を伏せた「もう会うことはないでしょうね」

 聡い女性だ。

 目的を果たした以上、尊が山田泉の前に姿を表す理由はない。これまでの復讐が全て成功したのは、黒幕である山田が決して表舞台に出てこなかったからだ。正体さえバレなければ、失敗しても何度でも策を練って仕掛けることができる。そうして一人一人に復讐を果たしてきた。その報酬も十分に受け取った。

「お目にかかるような事態にならないよう、お祈り申し上げます」

「神様なんて信じていないくせに」

「心外ですね。私は有神論者ですよ」

 尊はいつぞや購入した聖書を掲げた。六日間で世界を創造し、洪水で地表から悪を根絶やしにし、言葉一つで嵐を静める神がいるというのなら、構わない。否定する論拠もない。人智を超えた存在はきっとあるのだろう。

「ただ、その神は私を救い、導いてはくださらないだけです」

 聖書を放り投げた。重厚な書籍は大きな音を立てて床に落ちる。二千年前に書かれた聖なる書物といえどただの紙だ。躊躇いもなく尊はそれを足蹴にした。

 神を冒涜する行為。しかし尊に天罰が下ることはない。こんな異能を授けておきながら、それ故に尊が親兄弟に犯されていても助けてはくれなかった。どんなに復讐を望んでも果たされることはなかった。懇願も呪いも慟哭も、天には届かないのだ。

 そのくせ『復讐するは我にあり』とは笑ってしまう。自分でやらなければ一体誰が報復してくれるというのだろう。この苦痛と恥辱と絶望を、当の本人でなければ一体誰が理解できるというのだろう。

「過去の痛みから逃れることができるのならば、私とてそうしていたでしょう。あるいは全知全能の神が傷を癒し、不条理からも解き放ってくださるのならば」

 だが事あるごとに思い知らされる。決して痛みは消えない。過去からは解き放たれない。宿命からは逃れられない。

「この苦痛に打ち勝つためには、自ら苦痛の中に飛び込み、挑むしかないのです」

 それを教えてくれた女性に向かって、尊は深々とお辞儀した。心からの感謝と畏敬を込めて。

 名ばかりの事務所を出て、駅へと向かう。行き先は特に決めていなかった。人口が密集している東京ならば、縁切り屋や心療内科医の需要は山のようにある。しばらくは普通の仕事に就くのもいいだろう。どうせ長続きしないだろうが、腰掛けにはなる。

 少し休んだらまた動き出すつもりだ。この異能でどこまでやれるのか。行けるところまで行こうと考えている。

 山田泉と同じように、自分もまた洗礼を迎えるのだろう。尊は確信していた。

 おぞましい過去と向き合わなければ、一生囚われたままだ。必ずや自分が見た地獄の片鱗をあのケダモノどもにも味あわせる。その時こそ、尊の中の歪みは正され、新たに生きることができるだろう。

 いずれ訪れる洗礼の時を夢見て、尊は声を上げて嗤った。

これにて完結です。

お付き合いくださり、ありがとうございます!



なお、当拙作の続編にあたる『清くも正しくも美しくもない』の更新再開は来週を予定しております。

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