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悪魔の洗礼  作者: 東方博
30/35

二十九

 正確には睡眠薬ではなく、スピリタスという世界最高のアルコール度数を誇る酒を混ぜたのだ。とはいえ睡眠薬を盛るのと変わりはない。目的は尊を前後不覚にすることだ。

「いくら私がアルコールに強くても危険ですね。遠慮させていただきます」

 泉は助けを求めてカウンターの方を見た。が、仕事を終えたバーテンダーは既に奥に引っ込んでいる。この場には尊と自分の二人きりだ。

「目的は見当がつくので聞きません。何故こんな陳腐な手を? 娼婦でさえも一晩の相手をさせたら料金を払うのが道理ではありませんか。合意もなく対価も支払わずに抱こうなどとは……これでは娼婦以下だ」

 尊の薄い唇が弧を描く。だが、その目は全く笑っていない。獲物をいたぶる捕食者の眼差しだ。

 泉は蛇に睨まれたかのような心地がした。いっそ怒鳴って責めてくれた方がまだマシだと思った。

「何故私を軽んじたのですか」

「いや、俺は、その……」

「どういうおつもりで?」

 黙秘を尊は許さなかった。穏やかだが決して追及の手を緩めない。

「永野さんは、こういうことに慣れているでしょう?」

「ええ。それがどうかしましたか」

「さ、最後に、少し……くらい」

「まったくもって手前勝手な動機ですね」

 尊は失望を露わにため息をついた。

「私の意思などどうでもよいということですか。成功報酬のお支払いですらまだだというのに。これはまたずいぶんと大胆なことで」

「か、金なら払うっ」

「あいにくですが」尊は財布を探ろうとした泉の手を押しとどめた「そう簡単にお譲りできるものでもありません。私にも相手を選ぶ権利がありますので」

 言外にお呼びではないと告げられる。泉は言葉を失った。次いで顔が、いや全身が熱くなった。袖にされた屈辱。いくら積まれたのかは知らないが、あの男には足を開いておきながら、自分は駄目だという尊がとてつもなく憎らしかった。

「一条忠寛はいくらで買ったんだ?」

 亜紀の叔父の名前を口にした途端、尊の瞳が僅かに揺らいだ。彼にしてみれば致命的な隙だった。

「なんのことでしょうか」

「とぼけても無駄だよ、ナガノミコトさん」

 スマートに事を運ぶつもりだったが仕方ない。泉は懐から写真を二枚取り出した。尊と壮年の男性――忠寛がホテルのラウンジで会っている姿だ。何も事情を知らない者が見ればビジネスマン同士の商談に見える。

「あんたは忠寛専務から亜紀の素行調査の依頼を受けたんだろ? だから俺には破格で調査結果を譲った。俺をけしかけたのも、亜紀と野田の仲を引き裂くよう忠寛専務に指示されたからだ」

 忠寛からすれば、次期社長候補の姪は歓迎できる存在ではない。それが婚約者がいながら他の男にうつつを抜かすような、会社のイメージを損なうような女ならばなおさら。排除を考えるのが当然だろう。

 そこで白羽の矢を当てたのが自分――亜紀の婚約者である泉達也だ。自分に亜紀の不貞を教え、彼女への復讐を唆した。亜紀を完膚なきまでに傷つけ、失脚させるためだ。

「万が一、亜紀に計画がバレても俺からの依頼だと言えばいい。いずれにせよ、邪魔な亜紀を排除できて、忠寛専務は傷一つつかないってわけだ」

 善意の第三者を装っておきながらとんだ曲者だ。

「俺を利用しておいてタダで済まそうというのも、虫が良すぎるんじゃないか」

「利用したとはいささか言葉が過ぎませんか? あなたが泣き寝入りするところに手を差し出したのですから」

「都合がよかったから、だろ。善意じゃない」

 泉は尊に顔を寄せた。高揚感で高鳴る胸を抑えて、囁いた。

「とはいえ俺も鬼じゃない。あんたには世話になったし、忠寛専務と今のところは利害が一致している。そっちの仕事の邪魔はできればしたくないというのが本音だ」

「それはどうも」

「でもさすがにタダで、というわけにはいかないな。あんたのことを調べさせるのにも金がかかっているし」

 スピリタスを盛ったのはせめてもの温情だった。相当にプライドの高い尊だが、酒で酔っていたことを言い訳にすればまだ体裁は保てるだろうと。しかし、その情けを踏みにじったのは尊自身だ。

「さあ、どうする?」

 泉はアンダルシアのカクテルを尊の前に戻した。聡い彼はこちらの言わんとしていることを正確に理解しているだろう。

「この場で、ですか」

「まさか。今後のことも相談したいから、ちゃんと然るべき場所まで連れて行く。なんだったら素面のままで行くかい?」

「できればそうしたいところですが」

 尊は終始淡々としていた。過剰に嫌悪や怒りを示したりしない。こういった手合いに慣れているのだ。

「……いいでしょう」

 尊はカクテルグラスを手に取ると一気に飲み干した。

「お付き合いいたしましょう、最期まで」


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