二十七
ハンドが午後の七時を示す。尊は用の済んだブライトニングの時計を腕から外して、テーブルの上に置いた。
時計に限らず、指輪、ネックレスといった装飾品の類は昔から好きじゃなかった。拘束されているような気分になるからだ。忌まわしい記憶を呼び起こす。忘れようと思えば思うほど鮮明に。わかりきっているだけに人間の心理が疎ましいと思った時もあった。でも、今は違う。
(望むところです)
痛みがあるからこそ傷つけられた記憶は色褪せない。おぞましい過去は尊の原動力になっていた。
割り切った関係の相手ならば気づきもしない。尊にのぼせ上がって我を忘れるような浅はかな相手も然り。だが、入れ込んできた男は、尊の中にある激情の一端を察知し、恐れおののく。理解できないと言う。それだけならまだしも、尊を変えようとしてくるのだからたまったものではない。
「どうしてこんなことを?」
事を済ませた後になって、その男は言い出した。訊くくらいならば抱かなければいいのに。気怠さもあって、尊は適当に答えた。
「たしかにアブノーマルな性癖ではありますが、人間の三大欲求に理由を求められても答えようがありませんよ」
「そういう意味じゃない」
男はいくぶんか不満気に言った。
「医師免許を持っているということは、相応の努力をしたはずだ。決して美貌だけで得たものじゃない。能力や才能にも恵まれ、かつ一途に努力することもできる前途有望な青年が、何故こんなことをしているんだ。何故現状で満足できない」
お言葉だが、一途に努力ができるのは、その先に果たすべき目的があるからだ。今のままでいいと思っていたら尊は何も努力しない。誰かを陥れたりもしない。この男と寝たりもしないし、ましてや泉達也のような小物は相手にもしない。
「私は強欲なんです」
「はぐらかすな」
「心外ですね。私は真面目ですよ」
取り繕ったり、誤魔化すつもりもない。尊は本気だった。だから努力も惜しまないし、自分の魅力を最大限に引き出して事にあたる。
「人をどこまで堕とせるのか。どこまで狂わせられるのか、知りたいのです」
「ファム・ファタール〈運命の女〉にでもなるつもりか」
男を破滅させる悪女呼ばわり。随分な言い草だが悪い気はしない。預言者ヨハネの首を刎ねさせた稀代の悪女サロメもまたファム・ファタールと呼ばれている。むしろ実に光栄なことだと尊は思った。
「あいにく私は男ですが」
しかし自分には男を虜にする力がある。望んでもいない異能がある。魔性と恐れられ、悪魔と蔑まれる宿命付きで。逃れることが許されないのならば、果てまで突き進むまでだ。
「神から授かった能力を試して何がいけないのでしょう?」
男は答えなかった。元より凡人に理解してもらおうなどとは考えていない。異質なものを見るかのような恐怖を孕んだ眼差し。男は無力感に打ちひしがれ、ため息混じりに呟いた。
「……俺が止めても無駄なんだな」
尊は声をあげて笑いそうになった。一度寝ただけで自分を所有したつもりになっている男が滑稽に思えたからだ。
たった一晩だ。
人が迎える幾千もの夜の中のたった一つを共に過ごしたからどうだというのだろう。
『千夜一夜物語』のシャフリヤールの方がよほど理にかなっている。彼は妻の不貞を防ぐために生娘を抱いては翌朝に殺していたという。その残虐さはさておき、絶対に裏切らせないという意思の強さと激しい独占欲は敬服に値する。
少なくとも一夜寝た後は放置しておきながら、尊に貞操を求める厚顔無恥な輩よりはずっと潔い。ましてや自分を変えようなどとは片腹痛かった。
「身の程知らずにも程がありますよ」




