二十一
「こちらが契約書です。よくご確認の上、署名を」
尊から手渡された契約書を一通り眺める。甲と乙と明記された本格的な契約書だった。自分が「甲」で「乙」は山田探偵事務所。細かい字でびっしりと三ページ。スマホのバージョンアップの際に現れる利用規約を彷彿とさせた。尊の手前、読む格好をしていたが内容はほとんど理解できない。とりあえず前金百万円と成功報酬の二百万円を確認する。
「山田?」
「社長の名です。安易なネーミングですが」
フリーランスかと思いきや、事務所に所属していたのか。規模こそ小さいが登記もなされている立派な会社。専任の弁護士もいるらしい。
泉の中にあった僅かな不安が消し飛んだ。尊を信頼していないわけではないが、やはり個人と企業とでは安心感が違う。
末尾の探偵事務所の代表取締役のところには尊の言う通りの名前があった。山田泉。奇しくも自分の苗字が名前の社長。記憶の糸を手繰り寄せたが、覚えのある名前ではなかった。
「社長は下の名前が泉と申しまして」尊も同じことを考えていたようだ「珍しいですね」
「そうですね」
言ってから「あ、でも」と泉は声をあげた。
「学生時代にもクラスメイトでいましたね。名前が同じ人」
「ほう、中学生時代ですか?」
「どうだったかな……高校だったような。あんまり覚えてないんですよね。まあ名前なんてそんなものです」
そんなことよりも確認しておきたいことがあった。
「今回の件は永野さんが担当されるんですよね?」
「もちろん。責任を持って最期まで務めさせていただきます。契約書にもその点は明記しております」
ならば泉としても不服はない。社長とは書類上の契約だけで、実際は尊に頼めばいい。
「泉さんには無用かと思いますが、違約金のくだりもございますので一読ください」
尊が手で示した箇所を泉は凝視した。
「我々が泉さんの了承なく今回の依頼の件を第三者に教えることはありません。同様に泉さんも私どものことはご内密に願います。違約された場合は違約金をお支払いいただくことになります」
違約金は程度にもよるが最大で三百万円とあった。大金だ。ぽかんと口を開けた泉に「信用で成り立っている商売ですから」と尊は苦笑した。
「意図的にこちらの業務を妨害した場合も違約にあたります」
意図を理解しかねた。自分で依頼しておいて妨害するなどという輩が存在するのだろうか。
「保険ですよ。私はまだ遭遇したことはありませんが、ごく稀に土壇場で『縁切り』をやめるクライアントがいるもので。依頼を取り消すだけならばまだいいのですが、中には自分を正当化するために全て弊社が勝手にやったことだと濡れ衣を着せる方もいるそうです」
「……変な奴もいますね」
「世の中は広いですから」
男二人でしみじみ頷いた。それから改めて泉は契約書に目を通した。特に不審な点は見当たらない。問題はなさそうだ。
泉は鞄から印鑑を取り出した。署名と捺印を終えた契約書を差し出す。尊は契約書を確認すると控えを泉に返した。
「今月中に前金の振込をお願いいたします。もし難しいようでしたら私までご連絡ください」
契約書を仕舞って席を立とうとする尊を、泉は慌てて引き止めた。
「ちょっと気になったんですが……どうやって野田と接触するつもりなんですか」
「通勤中に声を掛けるか、彼が勤めている書店に客として赴くか、あるいは私も出張マッサージを依頼するか……いくらでも方法はあります。不自然ではないように近づきますのでご心配なく」
尊はなんでもないことのように言った。
「定期的に報告はいたします。何かご不明な点がございましたら、遠慮なく私までご連絡ください」
泉は満足感と共に頷いた。尊を頼もしく感じたからーーだけではない。この青年と連絡を取り合う正当な理由があることが、気分を高揚させていた。




