東亜租界ラプソディ2
「該当無し、ね」
背もたれに体重を預けながら、リュシーカは思考操作式のモニターをスクロールさせ、表示されている検索結果を半眼で流し見た。
絶対にひと悶着起こすとの予想を覆し、シキが八徳會から無事に回収してきた古文書の解析結果、ではない。
そちらを進める傍ら、密かに着手していたもう一つの調査の途中経過が出たのだ。
その調査とはシキの素性を明らかにすること。
昨日のグエンとの戦闘は凄まじかった。まさかクレイドルから派遣されているイングレイヴ使いを、あそこまで圧倒するとは。忌憚のない見解を述べるならば、驚嘆の一語に尽きる。
完璧な情報などというものがありえない以上、想定外の事態はどうしても発生しうるが、この件に関しては些細な見落としですら致命傷になりかねないと情報屋としての勘が囁き、改めてシキという人間を洗い直していたのだ。
まず手を付けたのは、こんな事もあろうかとバックドアを仕込んでおいた、楼都の管理する鋼殻キャリッジ運航協会のサーバだ。ちょちょいのちょいで侵入し、シキを拾った荒野横断便に関する報告書を閲覧する。
簡易な報告書には以前にも目を通していたのだが、更新されたばかりの最終版をじっくりと読み込み、気になった点をピックアップしていく。
そして本命が、たった今ヒット件数ゼロで空振りに倒れた能力者検索であった。
クレイドルが管理・運用を担い、イングレイヴ能力に関するおよそありとあらゆる事柄が蓄積されていると噂されるデータベース。世界各地に点在する楼都ごとのクレイドル支部を高速ネットワークで繋いでおり、その規模は他の追随を許さない。ことイングレイヴに関してであれば、これを上回る情報源は存在しないと言っても過言ではなかった。
無論、クレイドルに所属する者の中でも限られた人員のみが閲覧できるクローズド型なのだが、リュシーカはとある伝手でこれを利用することを可能としていた。
しかし、どれだけ名前や能力で検索をかけてみても、完全一致するイングレイヴ使いの情報は、どこにも記録されていなかったのである。
もちろんクレイドルが運営しているデータベースとて万能ではない。能力を隠している者やこれまで能力が発現していなかった者など、記録されていない理由はいくらでも考えられる。
とはいえ、期待をかけていたのもまた事実。ほんの少しだけ落胆で肩を落とし――ふと付記されている補足事項に気が付いた。どうやら類似する能力を保有するイングレイヴ使いのリストらしい。
どんな些細な内容でも構わないので取っ掛かりが欲しいリュシーカは、一縷の望みにかけてリンクを辿る。
その先で列挙されていた情報は、いずれも注記の通り、シキのイングレイヴとは微妙に異なるものであった。
しかし、リストの最後まで到達したところで、リュシーカの眉根がハの字に寄せられた。
能力者の名前こそ別であるものの、隠し撮りらしきピンボケ画像が、シキと酷似しているように感じられたのだ。
正面からアップで撮ったものではないため、断定まではできない。それでも他人の空似というには、体格も含めて共通点が多過ぎる。
だが、もしも偽名を名乗っているのだとしても、能力まで別物なのは解せなかった。イングレイヴ能力は使い手自身を映す鏡とされている。基本的に複数の能力を持つことはない。
そのはずなのにリュシーカの勘は何事かを訴え、目を逸らすことを許さない。
重大な見落としをしている気分。能力は基本的に一人につき一種類。基本的に。では例外は?
それに気付いた瞬間、リュシーカの思考は大胆にして荒唐無稽な仮説を閃いていた。データ上ではまったくの別人であるイングレイヴ使い二人を等号で結ぶことのできる、裏技に裏技を重ねた禁じ手。
まさかとは思いつつ検証を繰り返してみても、明確に否定するには至らない。だからと言って、この思いつきが事実だと証明できたわけではないのだが、リュシーカの直感はその仮説こそ真実であると強く訴えていた。
「これは流石に……迂闊に確かめるわけにはいかないわね……」
これ以上踏み込むには準備が足りていないと判断し、クールダウンのため全身を弛緩させる。
救いなのは、もしもこの推測が正しかったとしても、リュシーカが明かさない限りシキが同じ答えに至る可能性はまずないという点だ。
迂闊に触るには危険過ぎる。当分の間は保留にしておくしかあるまい。
胸中で結論付けた、その時だった。
視界の片隅に置いてあった端末が、耳障りな警告音を発したのである。
驚異的な反応速度で端末を拾い上げたリュシーカは、素早く警告の内容に目を通す。それはとある少女に秘密裏に取り付けた小型計測機器から発せられた、バイタルデータのリアルタイム情報であった。
「心拍数と発汗の急激な増加、呼吸も荒くなっている。典型的な緊張状態ね」
しかもただの緊張ではない。命の危険が想定されるほどの極限状態にあることを示している。
リュシーカが傍を離れている間に事態が動いてもすぐに把握できるよう、ツクモの状態を常時モニタリング可能な細工を施しておいたのだが、それが功を奏した形である。
グラフによれば、一度急激に上昇して危険な水準を越えた各種数値が、一分も経たない内に正常圏まで下降していた。
突発的な事故や発作の際に観測される傾向と似ており、一体何が起きたのかは腰を据えて検証する必要があるが、ひとまず命に別状は無いと判断してよさそうだ。
しかし真の問題は、生体情報ではなく同時に収集していた位置情報にこそあった。
セーフハウスから飛び出したかと思うと、人間の限界速度に挑むがごとき爆速で、租界の中心部を目指して移動を始めたのである。
バイタルデータの異常と併せれば、こちらの理由は簡単に推測できる。
発作等でツクモが倒れ、動転したシキが病院に連れて行こうとしているのだろう。
「慌てるのは分かるけど、迂闊すぎるわよ」
聞こえていないと分かっていても、つい文句が漏れてしまう。とはいえ、一時的な発作というのはバイタルデータを把握しているリュシーカだからこそ下せる判断であり、シキからすれば目の前でいきなり倒れられたのだろう。冷静な判断ができなくても責めることはできない。
それより問題なのは、ツクモを狙う敵がこんな絶好の機会を逃すはずないという点だ。
リュシーカは古文書の解析を自動で継続するよう設定すると、ツクモのところに向かうべく移動を開始した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
口に咥えた体温計で熱を測る。手首に指を添えて脈を取る。喉奥をペンライトで照らして腫れ具合を観察する。
そして幾つかの問診。
諸々の簡単な検査を終えた後、四十がらみの医師がくだしたのは実に常識的な診断であった。
「どこにも異常は見当たりませんね。貧血とかじゃあないのかな」
場所は東亜租界で一番設備が整っているという大病院の外来診療室。つまりはツクモを背負ったシキが駆け込んだ先である。
急患に備えて待機していた医者に事情を説明し、たった今診察が終わったところだった。
いきなり気を失って倒れたと聞かされたので、最初はすわ重病人かと気を張っていた医師も、今では大慌てで連れてきたシキへと生暖かい視線を向けている。十中八九、シスコン兄の勇み足と思われているに違いない。
「病気の兆候は発見できなかったし、大きな怪我をしているわけでもない。少しばかり体温が低い体質のようだけど、ぎりぎり個人差の範囲内ですよ。要するに、健康体というやつですね」
「本当に本当か?」
安心させるために太鼓判を押してやった医師だったが、それでもまだ不安を拭うには至らなかったらしく、シスコン兄が念入りに確かめてくる。
若干の鬱陶しさを感じた医師は、無の表情で診療室の扉を指差した。
「本当に本当ですよ。疑うのであれば、受付に行って入院と精密検査の手続きをしてきてください。当院の優秀なスタッフ達が、妹さんの身体を隅から隅までじっくりと調べて差し上げますので」
「ダメッ、ですっ!! あ、すみません。大きな声を、出して……」
自分の診察結果を疑われた不快感から、わざと嫌らしい言い方をしてしまった医師であったが、強烈な拒絶を示したのは患者本人であるツクモであった。
幼い少女を嫌悪させてしまう言い回しだったかと、遅ればせながら自覚した医師は、決まり悪げに目を伏せた後、小さく息を吸い込んだ。
「言葉が過ぎました、謝罪します。ただ、診断結果に変わりはありません。妹さんには疾患や怪我はありませんでした。安心してお引き取りを」
ここまで明確に退去を求められ、それでもなお居座れるほどツクモは神経が図太くはなかった。あるいはシキならば気にせず居座れるのかもしれないが、ぺこりと頭を下げたツクモが足早に退室すれば、その後を大人しくついてくる。
診療室を出ると、塵一つ落ちていない薄暗い廊下が二人を出迎えた。
さすがに東亜租界で一番の設備というだけあって、楼都の医療機器も少ないながら導入されているこの病院では、衛生観念も楼都並みらしい。
「まあ、なんだ、とりあえず何事もなくて良かったな」
「うん、そう、だね」
絵に描いて額縁に飾り後世に残したいほど下手くそな話題の転換を図るシキに、ツクモはくすりと微笑み頷く。
「でも、リュシーカお姉ちゃんに黙って、出てきちゃったから、帰ったら、とっても怒られると、思うよ?」
「うげっ、そいつは勘弁だ。大急ぎで帰ったらバレずに済まないかな……」
実はリアルタイムで監視されており、セーフハウスの外に出たこともとっくに知られているとは夢にも思っていないシキが、一縷の望みを込めてぼやく。
だが、その希望がすでに叶えられないものだと知らされるよりも先に、はすっぱな声が二人に投げつけられた。
「ねえ、お兄さん。ソレ頂戴よ」
立ち止まり、呼びかけられた方へと訝しげに振り向く。
昼間なのに照明が落とされているため、外よりやや薄暗い廊下の突き当りから声をかけてきたのは、見覚えのない一人の少女だった。ツクモよりもやや年上で、見た目には初等学舎の最高年次といったところだろうか。
一目で分かる楼都様式の装いは、この病院内であれば際立って目を引くほどではないが、にわか者にありがちな衣服に着られている雰囲気が無かった。それゆえ、少女にとってその格好こそが自然体であるとすぐに分かる。
言い換えるならば、この少女は楼都の人間だという意味だ。
だが、いくら楼都の設備を取り入れているとはいえ、楼都人がわざわざ隔絶の壁を越えてまで租界の病院にやって来るなどという話はないだろう。
ましてや目の前の少女は成人前。平たく言えば子供である。
それにも関わらず、保護者やお付きの人間が近くにいるのではと目を凝らしてみても、該当しそうな人物は見当たらなかった。
楼都人の子供がたった一人で租界に乗り込んできた?
ありえない、とシキは即座に結論する。別に楼都の仕組みを熟知しているわけではなく、楼都人の思考に精通しているわけでもないが、一般常識に当てはめてみれば、目の前の存在が逸脱していることは疑いようがない。
シキの警戒を察したのか、少女はその場から一歩も動くことなく小首をかしげた。左右に分けて結った髪がさらさらと揺れる。
「あれ、聞こえなかったのかな? お兄さん、ソレ私にくれない?」
すっと手を持ち上げ、澱みなく指差す。指先を目で追っていけば、シキ同様に息を呑み、いきなり現れた相手の要求に目を皿のようにしているツクモに行き着いた。
十中八九違うとは確信しつつも、念のため確かめてみる。
「ツクモ、あいつはお前さんの友達か?」
「わたしに、友達なんて……」
「やめてよ!! 冗談じゃないわ!!」
寂しそうに否定しようとしたツクモの言葉を、烈火のごとき怒声が塗り潰した。
憤怒の発生源はツインテールの少女だ。元々勝ち気そうだった面立ちが、吊り上げたまなじりによって今にも噛みつかんばかりとなっている。
「ソレと友達とか、馬鹿にするのも大概にしてくれない? 大人しく渡してくれれば、あたし的にはお兄さんなんかどうでもよかったんだけど、ムカついたからペシャンコにしちゃうんだからね!」
言うが早いか、袖口から鋭利な針を取り出すと、止める間もなく指の腹に突き立てる。
ぷつりと皮が裂け、赤い液体が小さな玉となった。
玉が膨らみあっという間に表面張力の限界を超えたかと思うと、血の滴がぽとりと床に落下する。その瞬間、大気が激しく渦動した。
反射的に身構えるシキを横目に、少女は高らかにその名を呼ばう。
「さあ、いらっしゃい。あたしの【双つ守護者】ちゃん!」
「こんな所でイングレイヴを呼び出すだと!? 正気か!?」
目の前の現象の意味を正確に理解したシキが、吹きつけてくる突風を片手で防ぎつつ声を裏返らせる。
その視線の先で、病院の静寂を打ち破り、見上げるような大鎧が顕現しようとしていた。