140.雨粒-Raindrop-
1991年6月10日(月)PM:13:40 中央区人工迷宮地下一階西ブロック
一撃目として、大きな左手を横薙ぎに振った形藁 伝二。
屈んでかわす古川 美咲。
即座に左手を戻し、ついでに床に押し潰そうとする。
彼女は既にそこにはいない。
だがここまでは予測の範囲内。
真直ぐ向ってくる古川の背後。
まるで、関節等存在しないかのようだ。
弧を描いて迫る右手。
不自然な角度。
空中に浮いているように見える。
血に塗れていた部分と形藁との位置。
それが明らかにおかしい。
更に古川の前面。
血には塗れていない小さな手が、二本進んでいく。
一本は彼女の左の膝を目指し、もう一本が右肩を抉ろうと突き進む。
しかしここで古川が、形藁が全く予想してない行動に出た。
まるで透明な形藁の手が見えているかのようだ。
彼女の左膝を目指す手を、振り上げた左足で踏み潰す。
一瞬形藁の動きが停止する。
≪連水牙≫
古川の言葉に、ゆっくりと降り注いでいた雨。
その一部が、その牙を向いた。
踏み潰され動きを止められた手。
一瞬で牙のような形状の水に切り裂かれる。
右肩を抉ろうとしていた手も、同様にズタズタになっていた。
痛撃に顔を歪める形藁。
一瞬、攻撃する事すらも忘れた形藁。
その僅かな隙に、既に目の前に到達していた古川。
≪乱水牙≫
彼女の一言で、囲もうとしていた十二本の手。
全てに降り注ぐ水の牙。
咄嗟に後ろに跳び退る形藁。
雨雲の影響下にあった為、その行動は余り意味はなかった。
致命傷を負う事は避ける事が出来た。
しかしほんの僅かな対峙に、彼が被った損害は決して低くは無い。
体中に走る痛みに苦悶する。
彼の顔からは、余裕という文字は消え失せようとしていた。
「さすがは特殊技術隊の副師団長という事か。ある程度の実力が無いと、部下の統率も出来ないだろうしな」
古川を、侮っていた形藁。
十年前とは比べ物にならない実力者と認めるしかなかった。
ここまでズタボロに傷付けられたのは、久しぶりなのだ。
最初の振り下ろされた蹴り。
明らかに手の位置を把握していなければ出来ない。
だが、古川の瞳は特に変化しているようには見えなかった。
魔眼持ちではない、という事だ。
そう考える形藁。
一つの疑問が出て来る。
どうやって手の位置を把握したのかだ。
雨粒の変化を把握して、見極めた。
彼の脳裏に浮かんだ考え。
しかし直ぐに、破棄する。
常識的に考えれば、人間技ではないからだ。
動いた場所の雨粒は欠ける事にはなる。
仮にそうだとしても、把握できるのは視界の範囲内。
見えない部分を感知する理由にはならなかった。
最後は、無差別攻撃に近い。
しかし、その前に蹴りと連水牙は、視界内にしか攻撃していない。
結局、可能性として雨粒を把握していたと結論付けた形藁。
形藁が思考に陥る間。
古川は特に攻撃する事もなかった。
警戒しているだけだ。
その間も、雨雲は徐々に薄くなっていく。
魔力で生み出された現象。
しかし、保有し吐き出す雨粒の量には、限界がある。
その事に気付いた形藁。
雨雲が薄くなっていく。
にも関わらず攻撃してこない古川。
逆に違和感を覚える。
推測が正しければ、雨雲が消えれば把握出来なくなる。
にも関わらず攻めない古川。
形藁は、自信の推論に自信を持てなくなる。
雨雲を起した時、何と言ったかわからない。
しかし、複数発動した可能性に思い至る。
雨雲を起こし、自身を濡れないようにした。
少なくとも、最低二つ。
しかし、呟きの言葉を、形藁は正確には聞いていない。
それ以上、推測する事は不可能だった。
このまま睨み合いを続けるわけにもいかない。
目の部分に違和感を感じてはいる形藁。
しかしそれは、気のせいだと勝手に解釈してしまう。
雨雲が消えた時こそ好機と判断していた。
思考に陥っている形藁。
それを見つめている古川。
とうとう薄くなっていた雨雲が消える。
ゆっくりと落ちていた雨粒も、なくなった。
雨雲が消えると同時に攻勢に出る形藁。
しかしそこで、彼は信じられない現実を目の当たりにする。
古川目掛けて繰り出される、十本の手による拳撃。
まるで見えているかのように、その全てを躱しているのだ。
かわしつつP220WCを両手に持つ古川。
この状況で銃弾など何の意味があろうかと考える形藁。
たが、考えが甘かったのは彼の方だった。
突如走った痛撃と麻痺する感覚。
最初それが何かわからなかった。
原因に気付いた時、既に六本の腕が痺れていた。
動かす事すら難しい状態。
古川は腕の攻撃を躱している。
同時に、切り裂かれている傷口に、銃弾を叩き込んでいた。
それもただの銃弾ではない。
傷口に叩き込まれた銃弾は、着弾後、強烈な電撃を発して迸っていく。
雨に濡れている形藁。
透明な腕の表面と、内部を同時に蹂躙していく電撃。
自然の雷程の威力はないようだ。
それでも、今の形藁の透明な腕を、行動不能にするのは充分だった。
余裕を完全に失った形藁。
残りの二本の手も、攻撃に回そうとする。
傷により、通常よりも動きに精彩が欠けていた。
十本の手ですら、当てる事も出来なかった古川。
残り六本の手で止めれるわけもない。
血に塗れている二本の大きい手。
その大きさから、まだ動かせてはいる。
しかし残りの手は、戦闘を継続出来ない程感覚を失っていた。
体に走る痛み。
あっさりと行動不能寸前に追いやられている事実。
彼のプライドは、打ち砕かれる寸前まで追い詰められている。
それでも、残った二本の手で古川を捕まえようとする。
だが、触れる事すらも出来ない。
隙をついて叩き込まれる銃弾。
麻痺している事もあり、どれぐらい銃弾を撃ち込まれたのかはわからない。
何もない空間。
拉げた銃の弾が浮いている。
これはある種、シュールな光景だろう。
古川が何故、透明な手を認識しているのか。
間違った推測を立ててしまった形藁。
彼の思考は、ぐちゃぐちゃになっていた。
まるで複数の人格が、一つの意志の中で討論でもしているかのようだ。
どうするべきかも判断出来ない。
目の前に古川の接近を、呆気なく許してしまう。
彼女は、両手に持っていた銃をホルスターに戻していた。
形藁の腹部に向けて、両手で掌底を放つ。
同時に言霊を唱えた。
≪闇紫電≫
掌から迸る黒紫の雷。
放たれた衝撃に吹き飛ばされた形藁。
水に濡れている体を、何度も駆け巡り蹂躙していく。
抵抗する事も反撃する事も出来ない。
吹き飛ぶ腹部に、引っ張られるように宙を舞い床に落ちた。
体全体から、焦げたかのように煙が立ち昇る。
対する古川も疲労困憊というような表情。
一筋の汗が、その頬を伝って落ちていった。
形藁の血にまみれた巨大な二本の手。
突如集束していく魔力。
一瞬、腕を破壊するべきか判断に迷った古川。
形藁が何をするつもりかわからない。
その為、即座にアンジェラの元へ向う。
身体能力を全開にしている今、彼女の側に辿り着くのは簡単だった。
巨大な手の平。
そのの中心が口のように開く。
魔力が放たれると同時に形藁は呟いた。
「・・・喰い・・・尽くされろ・・・」
-----------------------------------------
1991年6月10日(月)PM:13:42 中央区人工迷宮地下二階
四人が進む道の先。
広がるのは、半ば原型を留めていない亡骸。
まるで凄まじい力で潰されたかのようだ。
ぺしゃんこになっているものが多い。
他には、捩じ切られたかのようだ。
体が欠損しているものもある。
死体の山と流れ出る血液。
噎せ返るような空気を醸し出していた。
状況から、この地獄絵図が完成。
その後、そんなに長くは経過してないようだ。
精々数十分から、一時間以内の出来事だろう。
「これはまた凄まじいのぅ。生きてるのがいないとは限らないから、注意は怠る出ないぞ」
散乱する死体。
極力触れないように注意しながら歩く四人。
土御門 春己を先頭に進んでいく。
この惨状、死体が途切れるまで、生存者を見つける事は出来なかった。




