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ハディスの笑顔が、きらきらしすぎて、感情が読めない。もともとハディスは顔に出やすいほうだが、絶対、楽しい会談ではなかったはずなのに、あやしい。
会談がやけに早く終わったのも気になる。お話にならない内容だったのだろうか。しかし、ロレンスがそんな交渉を持ちかけるとも思えない。つまりこのハディスの笑顔の内訳は――
(ロレンスがキレさせたな……でも交渉は成立したんだ)
邪魔されたくないから結界を張るね、なんて言っているのがその証左だ。
中庭の一画、見晴らしがいいというよりはとにかく壊れたものを片づけた、だだっ広い芝生の上に丸テーブルを出して、ジルは嘆息する。予想どおりといえなくもない。
ハディスがお茶を用意する手は、しっかりしている。座ってと、ジルに椅子を引く手つきも優しい。ジルは呼吸を整え、背後のハディスを見あげる。
「会談、ロレンスは何を言ってきました?」
「いきなり聞く? まだ、僕は席にも着いてないのに」
「苺のケーキ、半分くれるならもう少し待ってあげてもいいですよ! ――あ」
ざっくり、いわゆるひとりぶんのサイズに切り取られてしまった。ハディスが有無を言わさぬ笑顔で苺のケーキを皿に移し、ジルの目の前に差し出す。
「晩ご飯もあるからね、これだけだよ」
「……おとなしくしていたわたしにご褒美で、もうちょっとくらい」
「じゃあ苺をふたつ、追加ね」
むうっと頬をふくらませつつ、ここで抵抗すれば苺がなくなってしまう可能性もある。しぶしぶ、ジルはフォークを取った。
「そのかわり、ちゃんと話してもらいますよ」
「もちろん。とりあえず食べて、お茶淹れたあとに話すから」
「わっかりました! いっただっきまーす!」
ぱくりとひとくち、あえて大きく切り取って食べる。たちまち頬がゆるゆるになった。
「おいしい~~……陛下、ますます腕をあげましたね!」
「そりゃあ、君の好みを日々追及しているからね。大きさ以外は」
余計なひとことがついていたが、今は気にせず堪能する。ちょっとゆっくりにしなければあっという間になくなってしまうから、ハディスが淹れてくれたばかりのお茶も飲んで、一息ついた。ハディスがやっと、正面の席に腰をおろす。
「それで? どうなったんです。誤魔化したらケーキ増量ですよ!」
「わかってるよ。――クリームついてる」
人差し指が伸びてきて、口元をぬぐわれた。なんでもない顔でそのクリームを舐め取るハディスに首をかしげる。どうしたんだろう、最近はジルを刺激しないよう、ハディスはそういうことにずいぶん慎重になっていたのに。
「――女王と結婚しろって」
「は? なんて?」
余計な思考が吹き飛んだ。だが目が据わったジルと対称的に、ハディスの口調は軽快だ。
「ほんと、ふざけてるよねえ」
「今の、空耳じゃないんです? 本当に会談でそう言われたんです?」
「本当。第一皇妃としてね。竜妃はそのままでいいって、譲歩のつもりかな」
なるほど、なぜジルの出席を許さなかったのかよくわかった。
半分ほど残っているケーキをぐっさりフォークで刺す。
「ちょっとしめてきます、ロレンス。……わかりましたよ、どうりで会談が終わるの早かったわけです」
落ち着くために、半分ほど残っているケーキをひとくちで片づけた。戦いの前の栄養補給である。なんならもう一個いってしまえ、きっとハディスは怒らない。手を伸ばす前にその顔をうかがおうとして、気づいた。
ハディスが、泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
「……陛下? どうしたんですか。そんな――」
申し訳ない、みたいな。
答えを考えるより先に、フォークが手から落ちた。やけに甲高い落下音にうろたえて、夫の顔を見つめる。ケーキを取ろうとする手は止まったのに、唇は止まらなかった。
「……まさか了承したんですか? どうして?」
ハディスが目をそらさないのが、よりどころだった。ハディスは女神とその器を嫌っている、まるで本能みたいに。だからそうせざるを得ないだけの事情があるのだ。
でもそんな、事情なんて。
「ラーヴェを助けるために」
――それ以外、ないではないか。
「ラーヴェは今、弱ってる。あのとき、女神の魔術を……理を書き換えたせいで。このままじゃ消える」
「待ってください、ラーヴェ様は女神に封印されてるんでしょう」
「そうだよ。消えないように女神が封印してる」
喉がひゅっと、鳴った。ジェラルド王子と理屈は同じだよ、とハディスが付け加える。
「消えるまでの時間を、引き延ばしてる。でも延ばしてるだけだ、いずれもたなくなる。ごめんね、ジル」
「な、なんで、陛下が、謝るんですか……」
「ほんとは気づいてたんだ、うっすら。ベイルブルグであのラーヴェを見たときから……でも君に言えなかった。ごめん」
ジルは首を横に振る。ジルだって言えなかったし、信じたくなかった。
――あのときのラーヴェが空に描いた神紋は、かつて世界が終わっていく先触れのような空の輝きとそっくりだった、とは。
かつてもああして竜神ラーヴェは消えたのでは、とは。
「そ……それはいいんです。言いたくなくて当然です。でも――どうしてそれで、陛下と女王が、その、結婚、なんてことに……」
「竜帝と女神の器が婚姻関係にあると、女神の力が安定するらしいんだ。信用ならないけど、時間を遅くするなんて魔術、しかも竜神にかけるとなれば、膨大な魔力が必要なのは間違いない。だから少しでも女神の魔力の消耗を防ぐためにだよ。今、ラーヴェはもちろん、女神の神格だって堕とさせるわけにはいかない」
手段を講じられないまま女神の魔力がたりなくなり、ラーヴェの封印が解けてしまわないようにするための、予防策だ。
「何より、そうすればラーヴェ帝国とクレイトス王国を僕が効率的に動かせる。ラーヴェを助けるためにも、アルカを横断的に調べる必要があるし」
「ア、アルカにラーヴェ様を助ける手段があるんですか?」
「あそこは神紋を研究してるし、竜神と女神の力を削ろうとしてきたところだ。逆説的に、竜神と女神の力を取り戻す方法がわかるかもしれない。そういう諸々を僕が円滑に使うために、承諾した。いちいちクレイトスにおうかがいをたてるのも、めんどくさいから」
だから、結婚するのか。話はわかるのに、なんだか上手に飲み込めない。
でも、ハディスはまっすぐにジルに説明してくれる。
「女王がうるさくするならどこかに監禁しておいてもいい」
「そ、それは駄目でしょう、さすがに。クレイトスの女王ですし……」
「ならクレイトスですごしててもらうよ。――ぜんぶ、君の言うとおりにする。だから許してほしいんだ」
ハディスがそこで初めて、目をそらした。
「言ったよね。僕をしあわせにしてくれるって――君を、しあわせにはできない僕を」
白い花がたくさん舞う、花畑を思い出す。誤魔化さないハディスを、誠実だと思った。
彼は皇帝で、竜帝で、ジルのためだけには生きられないひとだから。
「ひどいこと言ってるって、わかってるんだ。でも、僕はラーヴェを助けたい」
だからひとりぼっちにしないよう、ジルも誓った。
「君に、助けてほしいんだ」
その声色は、泣き出すかと思うくらい切実で――気づいたら、ジルはうつむいて顔をあげなくなってしまったハディスに向けて手を伸ばしていた。ケーキにも紅茶にも手をつけていないハディスの手は、冷え切っていた。
「……わたしだってラーヴェ様を助けたいです」
ひとりぼっちじゃない。伝えたいのに、小さな手では、なかなかハディスの手はあたたまらない。
「――それに……いちばん嫌なのは、陛下ですよね」
苦渋の決断だ。何より苦しんでくれるのは、ジルがいるからだ。わかるから、しかたがないなあと思ってしまう。
「……正直に言えば、嫌ですよ。陛下の妻はわたしだけじゃないと……」
「君が好きだよ」
か細い声で、懇願するみたいにハディスが言った。
「ほんとだよ。でなきゃ、こんなに悩まない」
「……わたしも陛下を好きじゃなかったらいいですよって、簡単に言えました」
でも、どこにでもありそうな話だ。後宮でも、その覚悟はしておけと教えられていた。
「いつかくるかもって、思ってはいました。でも思ったより、ずっと早かったですね。しかも、お相手はフェイリス様……」
つくづく縁のある相手だ。だがすぐに思い直す。以前とは違う。ハディスはちゃんと、相談してくれた。
「いえ、誰だって一緒なんですけどね」
「……ジル」
こちらをうかがうハディスの声も瞳の光も、か細い。
早くその手があたたかくなるよう、テーブルの上にある手をぎゅっと強く握る。
「ちゃんと相談してくれて、ありがとうございます」
泣き出しそうな眼差しが、期待めいたものを抱いてゆれる。
嫌だ、という想いは消えない。でもハディスの足手まといはもっと嫌だ。
「しょうがないですよね。陛下をしあわせにするって、決めたのはわたしです」
強ばっていたハディスの手が、そろそろと動く。こんなときまで、ジルが自分を見捨てるんじゃないかとおびえている。見捨てるわけがないのに。
ジルもゆっくりハディスの動きに合わせて、指をからめようと動かす。左手がハディスの手に包まれかけたそのとき、突然強い光が目を刺した。
黄金の指輪だった。竜妃の証。
竜神ラーヴェがくれたもの。頼んだぞと、何度も、何度も。
――愛に溺れて、理をまげさせるな。
口癖のように繰り返された台詞が、警告のように頭の中で響いた。
「……陛下。具体的に、どうやってラーヴェ様を助けるんですか?」
ジルの手を握ろうとしていたハディスの手が、止まった。




