最終話「砂に還る」
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扉の向こうに、炎があった。
台座も燭台もなく、ただ虚空に浮かぶように、橙と金の炎が揺れていた。炎の高さは人の背丈ほどで、揺れているのに煙が出なかった。熱もなかった。ただ、光だけがあった。
ミナはその光の前に立った。
廃坑の広間で見た金の欠片の光に似ていた。あるいは、夕暮れに丘の上から見た空の色に似ていた。あるいは——もっと遠い、もっと古い、どこかで見た覚えのある光に似ていた。
「常火だ」とマティアスが言った。老人の声が、かすれていた。「これが、消えない火だ」
「金の記憶が向かっていた場所」とヴァルターは言った。
炎が揺れた。
まるで、五人の来訪を知っているように。
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炎が、語りかけてきた。
声ではなかった。響きに近かった。音が直接、頭の中に流れ込んでくるような感覚だった。言葉の形をとっているが、耳で聞いているのではない。
——来たか。
ミナは息をのんだ。
——また、来たか。
「また、という言葉は」とミナは声に出して聞いた。「どういう意味ですか」
炎が揺れた。
——何度目だろう。数えるのをやめて久しい。
「あなたは何ですか」
——名前はない。あえて言うなら、この火そのものだ。金の記憶が向かう先に、いつもここがある。
「金の記憶は、ここへ来るために動いていたんですか」
——違う。金の記憶は、ただ動いている。しかし——何かを求めて動く者が、必ずここへ辿り着く。この火は、その終点にある。
ミナはハルを見た。ハルも炎を見ていた。
「終点」とハルは言った。「では、金の答えが、ここにある」
——答えがここにあるのではない。答えを見つけた者が、ここへ来る。
「違いが分かりません」とミナは言った。
炎は静かに揺れた。
——金は、問いを持った者にしか見えないものを持っている。金を手に入れようとした者には、金しか見えない。しかし金が何かを問い続けた者には、金が何を記憶してきたかが見える。あなたたちは、その問いを持ってここへ来た。
「金が何か、を聞いてもいいですか」とミナは言った。
炎が、大きく揺れた。
——答えてみよう。
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炎の中に、映像が現れた。
砂漠だった。古い砂漠だった。神殿があった。ファラオが金の冠を被って立っていた。
それが消えた。次の光景が来た。
シルクロードを渡る隊商だった。ラクダの背に金が積まれていた。夜の砂漠で商人たちが火を囲んでいた。
それも消えた。次が来た。
戦場だった。城が燃えていた。兵士たちが金を略奪していた。泣いている人間がいた。笑っている人間がいた。
それも消えた。
次々と光景が現れ、消えた。
時代が違った。場所が違った。人間が違った。しかし金は、どこにも出てきた。形を変えながら、人の手を渡りながら、消えずに続いていた。
「これが」とヴァルターは言った。声が震えていた。「金の記憶の中で見たものだ。全てが——」
——全てが、この火の中にある。
「なぜここに」とマティアスが言った。
——金は、星の死骸から生まれた。星が死ぬ時、火があった。金はその火を記憶したまま、地に落ちた。だから、金は火と繋がっている。金の記憶は、火の記憶でもある。
「この火が、金の記憶を保管している」とミナは言った。
——正確には違う。この火は、金の記憶を映す鏡だ。金が見てきたものを、ここで見ることができる。
「なぜ私たちに見せるんですか」
炎は揺れた。
——見せているのではない。見られるから、見えている。金の問いを持たない者には、この火は見えない。この社殿に入ることもできない。
ソフィアが言った。「私も見えています」
——そうだ。あなたも、問いを持っている。
「私の問いは」とソフィアは言った。「金を動かすことで、何を守れるか、だと思います」
——それも、金の問いだ。
「師匠は」とミナはマティアスを見た。老人は炎の前に立って、目を閉じていた。「師匠の問いは何でしたか」
マティアスは目を開けた。
「錬金術師として、長年考えてきた」と老人は言った。「金を作ることはできるか、と。しかし今は——金を作ることよりも、金が何を知っているかを知りたいと思っている」
——それが、本当の問いだ。
「ヴァルターさんの問いは」とハルが言った。父に向かって。
ヴァルターは息子を見た。
「お前を一人にして、消えてしまったことへの後悔だ」とヴァルターは言った。「金の記憶を見ることよりも、お前に会いたかった。それが問いだったかどうかは分からない。しかし——それだけを思っていた」
ハルは何も言わなかった。
「ハルの問いは何ですか」とミナは聞いた。
ハルは炎を見た。
「父を探すことが、問いだと思っていた」とハルは言った。「しかし今は——」
「今は」
「お前が何者かを、知りたい、ということかもしれない」
ミナはハルを見た。
「私が何者かは」とミナは言った。「私にも分かりません」
「だから問いになる」とハルは言った。
炎が揺れた。
まるで、賛同するように。
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「私の問いを」とミナは炎に向かって言った。「聞いてもらえますか」
——どうぞ。
「金は何のためにあるんですか」
社殿が静かになった。
炎が、大きく揺れた。
それから、静かになった。
——その問いに、答えはない。
「ない?」
——金は、何かのためにあるのではない。金は、そこにあるだけだ。人間が意味を与えてきた。神の象徴にした。権力の道具にした。愛の証にした。戦争の燃料にした。金そのものは、何も望んでいない。ただ、消えずにいる。
「消えずにいること、が金の本質ですか」
——そうだとも言えるし、そうでないとも言える。消えないのは性質だ。本質ではない。
「では本質は」
炎は長い間、揺れていた。
——人間が消えた後も、残ること。そして残ることで、その人間が生きたことを証明し続けること。
ミナは息を止めた。
「金は」とミナは言った。「人間の証人なんですか」
——そうかもしれない。何千年もの間、人間の喜びも悲しみも欲も愛も——全てを傍で見てきた。そしてその人間が消えた後も、残り続けて、証言し続けている。あの人間はここにいた、と。
「消えた人間の、代わりに残る」
——代わりではない。証人だ。証人は代わりにはなれない。しかし、いなかったことにはしない。
ミナは、その言葉を受け取った。
胸の中で、何かが動いた。
ずっと探していた何かに、触れたような感覚だった。
「師匠が言っていた」とミナは言った。「金の本質を知りたい、と。そしてミナは——」
声が途切れた。
ミナ、という名前が、どこから来たか分からなかった。
ミナはハルを見た。
ハルも、不思議そうな顔をしていた。
「ミナ、という名前を」とハルは言った。「今、俺も思った」
「なぜ」
「分からない。しかし——知っている名前だ」
炎が揺れた。
——それは、この火の中にある名前だ。
「この火の中に」
——金の記憶を、記録し続けた者がいた。あなたたちと同じ問いを持って、何度もここへ来た者が。その者の記録が、この火の中に残っている。
ミナは炎を見た。
炎の中に、無数の光の粒が見えた。
「その人たちは、今もここにいるんですか」
——消えていない。ここにいる。金が証人であるように、この火も証人だ。
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マティアスが、その時、倒れた。
音もなく、ゆっくりと。まるで眠るように、床に膝をついた。
「師匠」とミナは駆け寄った。
老人は床に座り込んでいた。意識はあった。しかし顔が白かった。
「大丈夫だ」とマティアスは言った。「ただ——少し疲れた」
「師匠」
「ミナ」とマティアスは言った。「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
「何を言っているんですか」
「これが、わしの見たかったものだ」老人は炎を見た。橙と金の炎を。「ヴァルターが先に見た、これを。わしも見たかった」
「見ました。まだこれからです」
「そうだな」とマティアスは言った。「しかし——わしはここまでだ」
「師匠」
「分かるんだ。自分のことだから」老人はミナを見た。「お前に言えなかったことを、一つ言う」
「言わなくていいです。話は後で」
「後がないかもしれない」マティアスはミナの手を取った。老人の手は、冷たかった。「わしは、お前のことを弟子として取ったのではなかった」
「……どういうことですか」
「お前が問いを持っているから、一緒にいたかった。それだけだ。師匠と弟子というより——同じものを探す、仲間として」
ミナは老人の手を握った。
「同じことです」とミナは言った。「師匠と弟子でも、仲間でも、同じことです」
マティアスは笑った。
静かな、穏やかな笑いだった。
「そうだな」と言った。
炎が、大きく揺れた。
橙と金が溢れ、社殿全体を染めた。
マティアスの目が、炎を映した。
「きれいだ」と老人は言った。
それが最後の言葉だった。
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しばらくの間、誰も動かなかった。
ミナは老人の手を握ったまま、炎を見ていた。
炎の中に、何かが増えた。光の粒が一つ、増えた気がした。
——いなかったことにしない。
炎の言葉を思い出した。
「師匠」とミナは言った。「ここにいますね」
答えはなかった。
しかし炎が、かすかに強くなった。
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ヴァルターが、ミナの傍に来た。
「行こう」と言った。
「どこへ」
「炎に、まだ聞かなければならないことがある」
「今は」
「マティアスが、見たかったものを見た。それは終わりではない。わしたちが、続きを見なければならない」
ミナは老人を見た。
マティアスの顔が、穏やかだった。
これで良かったのだと、その顔が言っていた。
ミナは立ち上がった。
ハルが、手を差し伸べた。
ミナはその手を取った。
二人は並んで、炎の前に立った。
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「まだ聞いていいですか」とミナは炎に言った。
——どうぞ。
「私たちは、ここへ何度も来たと言いました。来るたびに、何かが変わりますか」
炎は揺れた。
——変わるとも、変わらないとも言える。来るたびに、問いが深くなる。答えは出ない。しかし問いが深くなる分だけ、人間は何かに近づく。
「何に近づくんですか」
——自分が何者かに。
ミナはその言葉を聞いた。
「自分が何者か」とミナは繰り返した。
——金が証人であるように、人間も何かの証人だ。自分が何を見てきたか、何を感じてきたか、誰を愛したか——それが積み重なって、人間が何者かになる。
「私が何者かは」とミナは言った。「まだ分かりません」
——分からなくていい。問い続けていれば、それでいい。
「問い続けることが、答えになるんですか」
——答えではない。しかし問い続ける者は、消えた後も、その問いが残る。この火の中に。金の記憶の中に。
ミナは炎を見た。
無数の光の粒を。かつてここへ来た人間の、問いの残骸を。
「ならば」とハルが言った。炎に向かって。「俺の問いも、ここに残りますか」
——残る。
「ミナの問いも」
——残る。全て残る。
ハルはミナを見た。
ミナもハルを見た。
炎の光の中で、二人の影が壁に長く伸びていた。
「一つだけ」とハルは言った。炎ではなく、ミナに向かって。
「何」
「この旅が終わった後も、一緒にいていいか」
ミナは少しの間、ハルを見ていた。
外から、風の音がした。島の風だった。湿った、草の匂いのする風だった。
「この旅は終わらない気がします」とミナは言った。
「なぜ」
「金の記憶は続いている。問いは続いている。終わりがどこにあるか、まだ分からない」
「だとしても」
「だとしても——」ミナは少しだけ間を置いた。「一緒にいます」
炎が揺れた。
橙と金が、社殿の中に溢れた。
まるで、喜ぶように。
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ソフィアが外に出た。
ハルがミナとまだ話していることが分かったから、ではなかった。
ただ、外の空気が吸いたかった。
社殿の外に出ると、夕暮れが広がっていた。
島の夕暮れだった。西の海に、太陽が沈んでいった。橙と金の空だった。
まるで常火の色のような、とソフィアは思った。
「ソフィア」とヴァルターが後ろから言った。老人も外に出ていた。
「はい」
「あなたは、ハルのことを長く支えてきたんですね」
「支えていたつもりはないですが」
「支えていたと思いますよ」とヴァルターは言った。「あの子が一人で旅を続けていられたのは、戻る場所があったからだと思う。あなたの商会が、その場所だった」
ソフィアは夕空を見た。
「戻ってこなかったくせに」と言った。
「それでも、あるということが大事なんです」とヴァルターは言った。「あなたも、それを分かっていたから、続けていた」
ソフィアは答えなかった。
「これからは」とヴァルターは言った。「別の場所を作ればいい。あの二人の傍に、あなたがいればいい」
「邪魔では」
「邪魔ではない」とヴァルターは言った。「金は一人では動かない。人が動かす。あの二人だけでは、見えないものがある。あなたのような人間が傍にいなければ」
ソフィアはヴァルターを見た。
「ヴァルター様は」と言った。「錬金術師らしくない言葉を言う」
「十五年、眠っていたから」とヴァルターは笑った。「目が覚めたら、少し変わっていた」
ソフィアも、かすかに笑った。
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その夜、五人は社殿の前に並んで座った。
炎が、扉の向こうで燃えていた。
星が出ていた。島の夜の星は、砂漠で見た星とも、ヨーロッパで見た星とも違った。しかし同じ星だった。どこから見ても、同じ星だった。
「師匠」とミナは炎の方に向かって言った。社殿の扉に向かって。
返事はなかった。
しかし炎が揺れた。
「聞こえているかどうか分かりませんが」とミナは言った。「報告します。東へ来ました。常火を見ました。金が何かを、少し分かった気がします」
炎が、また揺れた。
「まだ分からないことの方が多いですが」とミナは続けた。「問いは持っています。続きを探します」
ハルが隣で言った。「俺からも報告することがある」
「何を」とミナは言った。
「お前に言いたいことを、言った」とハルは言った。炎ではなく、ミナに向かって。
「聞きました」
「それだけだ」
「それだけ?」
「師匠への報告は、それだけで十分だと思った」
ミナは少しだけ笑った。
「師匠は、もっと聞きたいかもしれない」
「聞かせない」
炎が、大きく揺れた。
まるで笑うように。
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夜が更けた。
一人ずつ、眠りについた。
ヴァルターが先に。ソフィアが次に。
ハルは眠る前に、ミナに言った。
「明日、何をするか決めてあるか」
「ない」とミナは言った。「あなたは」
「ない」とハルは言った。「しかし、考えてあることがある」
「何を」
「この島にしばらくいる。炎の傍にいる。金の記憶の、まだ見ていない部分がある。それを——二人で見たい」
ミナはハルを見た。
「時間がかかるかもしれない」
「構わない」
「どこかへ行けなくなる」
「ここにいたい」とハルは言った。「今は」
ミナは炎の方を見た。扉の向こうで揺れている、橙と金の光を。
「分かりました」と言った。「一緒にいます。ここに」
ハルは頷いた。
「おやすみ」と言った。
「おやすみなさい」
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ミナは最後まで起きていた。
炎の光が、扉の隙間から漏れていた。
金属の匂いが、夜風の中にあった。
星が、降るように出ていた。
ミナは空を見ながら、マティアスのことを思った。師匠がここまで来た理由を。師匠が最後に笑った顔を。
いなかったことにしない。
炎の言葉を思い出した。
「師匠はここにいる」とミナは小さく言った。「金の記憶の中にも、この火の中にも。いなかったことにはならない」
答えはなかった。
しかし炎が揺れた。
それで十分だった。
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遠い山の向こうで、夜が明けようとしていた。
どこかの村で、子供が生まれようとしていた。
その子は生まれる前の一瞬、目を開けるかもしれなかった。
まだ何も見えない目で、どこか遠くを見るように。
まるで、何かを覚えているように。
金は、その子が生まれる前から、そこにある。
金は、その子が死んだ後も、そこにある。
証人として。
消えずに。
それが金だった。
それが、ミナが辿り着いた答えだった。
答えではないかもしれなかった。しかし今の自分には、それで十分だった。
問いは、まだ続く。
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常火は、今夜も燃えていた。
橙と金の炎が、揺れていた。
砂に還ることなく。
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(第十話 了)
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# 黄金伝――砂の唄 完




