痛覚の向こう側
詩集を拾い上げたカシの手は、震えていた。
指先から冷気が這い上がり、喉元で凍った声がつかえていた。
風月堂の中に、言葉はなかった。
ただ崩れた本、倒れたスツール、空になった空間。
それが全てだった。
——彼女は、もういない。
カシの視界が、滲んだ。
そのとき、遠くで誰かが声を上げた。
「警察! 早く!」
外が騒がしくなっていた。
すでに数人の通行人が集まり、店の中を覗き込んでいる。
誰かがスマホで撮影し、誰かが泣き声をあげ、誰かが面白がっていた。
騒音が、皮膚の奥に突き刺さる。
脳が焼けるように熱くなり、背骨が痙攣する。
カシは、その場にしゃがみこんだ。
息ができない。
喉が詰まり、胃の奥から何かが這い上がってくる。
「……やめろ……撮るな……撮るなよ……!」
床に手をついたまま、唇を震わせる。
けれど誰にも届かない。
目の前の誰もが、ただ“彼女の不在”を消費していた。
その時だった。
「カシ!?」
群衆の奥から陽翔の声が聞こえた。
大学の帰り道、偶然この路地を通った陽翔は、異常な騒ぎと警察車両に引き寄せられ、
そして群衆の中に、しゃがみこんで肩を震わせているカシの姿を見つけた。
「……おい、大丈夫か!」
カシは陽翔に気づかない。
顔は歪み、目は虚ろで、唇は意味をなさない言葉を繰り返していた。
「お前……何が……どうしたんだ……!」
カシは突然、首をかきむしるようにして叫んだ。
「助けられなかったんだよ!!」
その叫びに、野次馬のざわめきが一瞬止まった。
陽翔は迷わず、カシの肩を抱えた。
「帰ろう。ここはもう……お前の知ってるような場所じゃない」
⸻
夜。部屋のドアを開けると、そこにはタカがいた。
壁にもたれ、息を切らし、顔を歪めていた。
汗がシャツに染み、手は小刻みに震えていた。
「タカ……?」
カシの姿を見て、タカはわずかに顔を上げた。
次の瞬間——
「なんでだよ……なんで“お前”が……!」
怒鳴り声と共に、タカは駆け寄り、カシの胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた。
「“目の前”にいたんだろ!? なのに、どうして——!」
言葉にならない怒りが、拳に宿る。
タカの手が、カシの頬を殴った。
鋭く乾いた音が部屋に響く。
殴られたカシは何も言わなかった。
ただ、倒れながらタカの目を見つめていた。
その目には涙はなかった。
けれど、すでに自分を責め続けて擦り切れた色が、そこにあった。
「やめろ!!」
陽翔が叫び、タカの肩を掴む。
けれどタカの感情は収まらない。
「殺したのは俺じゃない、お前だ……!」と繰り返しながら、カシの胸元を何度も突いた。
ふたりの間で感情が暴走しはじめる。
「これ、やばい……!」
陽翔は咄嗟にスマホを取り出し、ある番号にかけた。
——如月。
大学の先輩、認知科学者であり、かつてタカとカシが現在の状態について話した唯一の人物。
『……陽翔くん? こんな時間にどうした』
「如月さん、すみません。今すぐ来てください。タカとカシが……とにかくやばいです。お互いを壊し合ってるみたいに」
『場所は?』
「自宅です。急いで来てください。もう誰も手を出せない」
『……すぐ向かう。10分で着く』
⸻
しばらくして、ドアが開く音がした。
如月が現れた。
黒のコートに、整ったシャツ、無駄のない足取り。けれどその目は鋭く、すぐ状況を読み取っていた。
「想像以上だな……」
彼はゆっくりと近づき、まずカシの顔を覗き込んだ。
「共有を超えてる。これは“共振”だ。しかも最も悪質なかたちの」
「止められるんですか?」
陽翔の問いに、如月は静かに頷いた。
「距離を取る。物理的に。
最低3キロ以上。リンクは切れる。副作用は残るが、今よりはマシだ」
「俺が車を呼びます!」
陽翔がスマホを操作する。
タカは壁にもたれ、目を閉じたまま、唇をわずかに動かした。
「……俺は……お前を殴りたくなんかなかった」
その声に、カシは何も返さなかった。
けれど、その沈黙が確かに、伝わるものを含んでいた。