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2人2脚  作者: 凡人
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7/9

届かなかった手

朝の光はやわらかく、けれどどこか、ぬるく感じられた。

春先の空はまだ乾いていて、街の色彩は色づききらず、肌の奥にうっすらと冷たさを残していた。


タカは朝早く、ひとりで出ていった。

「ちょっと見ておきたい展示がある」とだけ言い残し、目的地も時間も曖昧なまま、さっと姿を消した。

カシは特に引き留めなかった。最近は互いの行動をあまり細かく干渉しない。そういう距離感が、今のふたりにとっては自然だった。


けれどその朝、胸の奥のどこかがきしんだ。

理由のないざわめきが、薄い膜のように意識に貼りついていた。


風月堂の扉を開けると、あの小さな鈴の音が鳴った。


「こんにちは」


森田の声はいつものように優しく、静かだった。

けれどその柔らかさの奥に、微かな緊張が混ざっていることを、カシは見逃さなかった。


「また来てくれたんですね」


「うん。……なんとなく」


「うれしいです。今日は、少し静かで」


そう言って彼女は笑った。

その笑顔はきちんと形になっていた。けれど、その間が一拍遅れていた。


カシは、棚に並んだ古書の背表紙に視線を向けながら、意識の片隅で森田の仕草を観察していた。

会話を終えるたびに、森田はガラス扉の外をちらりと見た。

それは一見すれば単なる癖にも見えたが、回数が多すぎた。


「最近、なにかあった?」


問いかけは自然に出た。けれど、森田の身体はほんの一瞬、硬直した。


「……気づきましたか」


「いや、なんとなく」


「……ちょっと、変なことが続いてて」


彼女は声を落とし、視線を本棚に滑らせた。


「ここ数日、同じ人が何度もお店の前をうろうろしてて。最初は気のせいかと思ったんですけど……気づくと、夕方になるといつもいるんです。顔は見えないんですけど」


「警察には?」


「一応相談しました。でも“実害がないなら様子を見て”って」


それ以上、森田は何も言わなかった。


けれど、カシにはわかっていた。

彼女の呼吸が浅いこと、指先に微かに震えがあること、声のトーンが普段よりわずかに高いこと。

恐怖は、明言されなくとも、全身ににじみ出るものだった。


店内は静かだった。けれどその静けさは、心地よいものではなく、不自然な沈黙だった。


---


「ここ、よかったらどうですか。うちの常連さんもあまり知らなくて、静かで……落ち着くんです」


森田は、店の裏にある喫茶店を指差した。

木製の小さな看板が、街路樹の陰にひっそりと立っていた。


「いいんですか?」


「ええ。少しだけ」


それは救いだった。

カシはうなずき、ふたりで喫茶店の扉をくぐった。


---


春色の照明が差し込む小さな店内には、低くジャズが流れていた。

カウンターには年配の店主が一人。

丸テーブルを挟んでふたりは向かい合う。


「本、好きなんですね」


「うん。あの店で並んでる本って、少しクセあるけど、選び方に哲学がある気がして」


「うれしい。私、並びを考えるの、けっこうこだわってるんです。中身だけじゃなくて、装丁のトーンとか、置く順番とか……少しでも手に取ってもらえるようにって」


「伝わってますよ、ちゃんと」


森田は、はにかむように笑った。

けれど、カップを持つ指先が一瞬だけ震えていた。


「……怖くはないんですか?」


「何が、ですか」


「さっきの話。いつも通りにお店にいるって、簡単なことじゃないと思って」


森田は、言葉を選ぶように息を吸った。


「……怖いです。ほんとうに。でも、誰かがいないと、あの店が止まってしまう気がして。止まると、それが許してしまうことのような気がして」


その言葉には、彼女の静かな決意が込められていた。

けれどその芯の強さは、逆にカシの胸を締めつけた。


「……ちゃんと、守られないといけない人ほど、自分を守ろうとしない」


森田は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。


「……やさしいですね、あなた」


カシは何も言わなかった。

けれど胸の奥で、何かがゆっくりと膨らんでいた。


---


「戻りますね。今日はありがとうございました」


喫茶店を出るとき、森田は少し明るくなった声で言った。

カシは、迷いながらも言葉を探す。


「送っていこうか?」


「だいじょうぶです。もう慣れてますから。……そういうのに」


“そういうの”。


その言葉が、ひどく嫌だった。


だが、何も言えなかった。

言えば、なにかが壊れてしまいそうで。


---


カシが風月堂に一緒に戻ることにしたのは、そのまま別れるには何かが宙に浮いたままだったからだ。

会話は尽きたはずなのに、呼吸のリズムがまだどこか繋がっていた。


「ここまでで大丈夫です」


「……うん、じゃあ、また」


「はい。また」


森田は、扉を押して店に入っていった。

カシはその姿をしばらく見送っていた。


その背中の小ささが、やけに遠く感じられた。


そしてその夜、その小ささが、二度と手の届かないものになるなど、まだ想像もしていなかった。


夕方。カシは何の気なしに並木道を歩いていた。

風が吹き抜け、耳元に森田の声がかすかに蘇る。


そのとき、スマホが震えた。


画面には「風月堂」の文字。

何かが胸の奥にざわめいた。けれど、タップする指が触れた瞬間、着信は切れた。


森田がこんな時間に電話をかけてくることは滅多にない。

あれはただの呼び出しではない。

そう感じたとき、脳の奥に灼けるような熱が突き刺さった。


「——っ……!」


立ち止まり、膝に力が入らなくなる。


視界が一瞬、途切れる。

平衡感覚が崩れ、心臓が皮膚の裏で暴れた。


タカが、距離制限の外へ出た。


カシは即座に理解した。

そして、わずか数秒のオーバーヒートが、何か大切なものを遅らせたことも、同時に悟った。


走り出す。

森田がいるはずの、風月堂へ。


---


風月堂の前にたどり着いたのは、それからほんの数分後だった。

けれど、その数分がすべてを決定づけるには十分だった。


扉は半開きで、誰の気配もなかった。


中に入ると、本がいくつか落ちていた。

紙のにおいと、微かな金属のにおい。

倒れたスツール。レジの下に転がる、ページが開いたままの一冊の詩集。


そこに彼女はいなかった。


店の空気は、言葉を発する前にすでに答えを語っていた。


物語というのは、都合の良いように作られている。


ギリギリのところで主人公が駆けつけ、傷ついたヒロインの手を取って救い出す。

観客は安堵し、物語はクライマックスを迎える。


けれどカシは——そうではなかった。


彼は、主人公ではなかった。

ギリギリにさえ、間に合わなかった。


目の前の光景が何を語っているのか、言葉にする必要もなかった。

すでにここには何もないことを、空気が、棚が、ページのめくれが語っていた。


そこにあるのは、終わってしまったという事実だけだった。


カシは足元の詩集を拾い上げた。

「夜の抜け殻と月の遺言」と題されたその本は、詩ではなく祈りのようだった。


わたしは光に間に合わなかった

あなたが手を伸ばしたのは

夜がすべてを奪ったあとだった


ページの文字が、揺れて見えた。


そしてその瞬間——

カシの内側で、何かが音を立てて割れた。


自分の無力さ、悔しさ、怒り、痛み。

胸の奥の深い井戸から、濁った感情が噴き出す。


そのすべてが、はるか遠くにいるタカの胸へと、静かに伝わっていった。

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