届かなかった手
朝の光はやわらかく、けれどどこか、ぬるく感じられた。
春先の空はまだ乾いていて、街の色彩は色づききらず、肌の奥にうっすらと冷たさを残していた。
タカは朝早く、ひとりで出ていった。
「ちょっと見ておきたい展示がある」とだけ言い残し、目的地も時間も曖昧なまま、さっと姿を消した。
カシは特に引き留めなかった。最近は互いの行動をあまり細かく干渉しない。そういう距離感が、今のふたりにとっては自然だった。
けれどその朝、胸の奥のどこかがきしんだ。
理由のないざわめきが、薄い膜のように意識に貼りついていた。
風月堂の扉を開けると、あの小さな鈴の音が鳴った。
「こんにちは」
森田の声はいつものように優しく、静かだった。
けれどその柔らかさの奥に、微かな緊張が混ざっていることを、カシは見逃さなかった。
「また来てくれたんですね」
「うん。……なんとなく」
「うれしいです。今日は、少し静かで」
そう言って彼女は笑った。
その笑顔はきちんと形になっていた。けれど、その間が一拍遅れていた。
カシは、棚に並んだ古書の背表紙に視線を向けながら、意識の片隅で森田の仕草を観察していた。
会話を終えるたびに、森田はガラス扉の外をちらりと見た。
それは一見すれば単なる癖にも見えたが、回数が多すぎた。
「最近、なにかあった?」
問いかけは自然に出た。けれど、森田の身体はほんの一瞬、硬直した。
「……気づきましたか」
「いや、なんとなく」
「……ちょっと、変なことが続いてて」
彼女は声を落とし、視線を本棚に滑らせた。
「ここ数日、同じ人が何度もお店の前をうろうろしてて。最初は気のせいかと思ったんですけど……気づくと、夕方になるといつもいるんです。顔は見えないんですけど」
「警察には?」
「一応相談しました。でも“実害がないなら様子を見て”って」
それ以上、森田は何も言わなかった。
けれど、カシにはわかっていた。
彼女の呼吸が浅いこと、指先に微かに震えがあること、声のトーンが普段よりわずかに高いこと。
恐怖は、明言されなくとも、全身ににじみ出るものだった。
店内は静かだった。けれどその静けさは、心地よいものではなく、不自然な沈黙だった。
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「ここ、よかったらどうですか。うちの常連さんもあまり知らなくて、静かで……落ち着くんです」
森田は、店の裏にある喫茶店を指差した。
木製の小さな看板が、街路樹の陰にひっそりと立っていた。
「いいんですか?」
「ええ。少しだけ」
それは救いだった。
カシはうなずき、ふたりで喫茶店の扉をくぐった。
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春色の照明が差し込む小さな店内には、低くジャズが流れていた。
カウンターには年配の店主が一人。
丸テーブルを挟んでふたりは向かい合う。
「本、好きなんですね」
「うん。あの店で並んでる本って、少しクセあるけど、選び方に哲学がある気がして」
「うれしい。私、並びを考えるの、けっこうこだわってるんです。中身だけじゃなくて、装丁のトーンとか、置く順番とか……少しでも手に取ってもらえるようにって」
「伝わってますよ、ちゃんと」
森田は、はにかむように笑った。
けれど、カップを持つ指先が一瞬だけ震えていた。
「……怖くはないんですか?」
「何が、ですか」
「さっきの話。いつも通りにお店にいるって、簡単なことじゃないと思って」
森田は、言葉を選ぶように息を吸った。
「……怖いです。ほんとうに。でも、誰かがいないと、あの店が止まってしまう気がして。止まると、それが許してしまうことのような気がして」
その言葉には、彼女の静かな決意が込められていた。
けれどその芯の強さは、逆にカシの胸を締めつけた。
「……ちゃんと、守られないといけない人ほど、自分を守ろうとしない」
森田は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「……やさしいですね、あなた」
カシは何も言わなかった。
けれど胸の奥で、何かがゆっくりと膨らんでいた。
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「戻りますね。今日はありがとうございました」
喫茶店を出るとき、森田は少し明るくなった声で言った。
カシは、迷いながらも言葉を探す。
「送っていこうか?」
「だいじょうぶです。もう慣れてますから。……そういうのに」
“そういうの”。
その言葉が、ひどく嫌だった。
だが、何も言えなかった。
言えば、なにかが壊れてしまいそうで。
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カシが風月堂に一緒に戻ることにしたのは、そのまま別れるには何かが宙に浮いたままだったからだ。
会話は尽きたはずなのに、呼吸のリズムがまだどこか繋がっていた。
「ここまでで大丈夫です」
「……うん、じゃあ、また」
「はい。また」
森田は、扉を押して店に入っていった。
カシはその姿をしばらく見送っていた。
その背中の小ささが、やけに遠く感じられた。
そしてその夜、その小ささが、二度と手の届かないものになるなど、まだ想像もしていなかった。
夕方。カシは何の気なしに並木道を歩いていた。
風が吹き抜け、耳元に森田の声がかすかに蘇る。
そのとき、スマホが震えた。
画面には「風月堂」の文字。
何かが胸の奥にざわめいた。けれど、タップする指が触れた瞬間、着信は切れた。
森田がこんな時間に電話をかけてくることは滅多にない。
あれはただの呼び出しではない。
そう感じたとき、脳の奥に灼けるような熱が突き刺さった。
「——っ……!」
立ち止まり、膝に力が入らなくなる。
視界が一瞬、途切れる。
平衡感覚が崩れ、心臓が皮膚の裏で暴れた。
タカが、距離制限の外へ出た。
カシは即座に理解した。
そして、わずか数秒のオーバーヒートが、何か大切なものを遅らせたことも、同時に悟った。
走り出す。
森田がいるはずの、風月堂へ。
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風月堂の前にたどり着いたのは、それからほんの数分後だった。
けれど、その数分がすべてを決定づけるには十分だった。
扉は半開きで、誰の気配もなかった。
中に入ると、本がいくつか落ちていた。
紙のにおいと、微かな金属のにおい。
倒れたスツール。レジの下に転がる、ページが開いたままの一冊の詩集。
そこに彼女はいなかった。
店の空気は、言葉を発する前にすでに答えを語っていた。
物語というのは、都合の良いように作られている。
ギリギリのところで主人公が駆けつけ、傷ついたヒロインの手を取って救い出す。
観客は安堵し、物語はクライマックスを迎える。
けれどカシは——そうではなかった。
彼は、主人公ではなかった。
ギリギリにさえ、間に合わなかった。
目の前の光景が何を語っているのか、言葉にする必要もなかった。
すでにここには何もないことを、空気が、棚が、ページのめくれが語っていた。
そこにあるのは、終わってしまったという事実だけだった。
カシは足元の詩集を拾い上げた。
「夜の抜け殻と月の遺言」と題されたその本は、詩ではなく祈りのようだった。
わたしは光に間に合わなかった
あなたが手を伸ばしたのは
夜がすべてを奪ったあとだった
ページの文字が、揺れて見えた。
そしてその瞬間——
カシの内側で、何かが音を立てて割れた。
自分の無力さ、悔しさ、怒り、痛み。
胸の奥の深い井戸から、濁った感情が噴き出す。
そのすべてが、はるか遠くにいるタカの胸へと、静かに伝わっていった。




