視線の先にいた人
その日、俺はひとりで街に出た。
一緒に過ごしてはいなかったけれど、俺たちはちゃんと“つながっていた”。
制限距離の内側。気配も視界も、互いに届いている。
だから今日は、それぞれの場所で、ひとりずつ歩くことにしていた。
気温は穏やかで、風はやわらかかった。
カレンダーでは春が近いことになっていたけれど、日陰の空気はまだ冬を引きずっていて、歩くたびに頬がきゅっと縮んだ。
目的地は決まっていなかった。
それでも、足が自然と向かったのは——風月堂だった。
何か特別な意味があったわけじゃない。
だけど、あの日、記憶の“空白”を知った書店。その棚の並びや紙のにおいが、ふと恋しくなった。
扉を開けた瞬間、カラン、と鈴の音が鳴った。
「あ、いらっしゃいませ」
森田の声だった。
軽やかで、どこか間の抜けたイントネーション。前に来たときと同じ、変わらない声だった。
「あ……こんにちは」
気の抜けた返事になってしまい、俺は少しだけ頭を下げた。
森田はレジの奥から顔を出し、にこっと笑った。
「前に来てくれた方ですよね。……えっと、あのときは確か……」
彼女は言葉を濁した。
きっと“もうひとりの俺”を思い出しているのだろう。
俺は、肩をすくめるように笑って答えた。
「……似たような顔のやつがいるだけです。気にしないでください」
森田は一度だけまばたきをしてから、柔らかく笑った。
「そうなんですね。……でも、ちょっと驚きました」
穏やかな声で続ける。
「立ち姿とか、声の雰囲気まで、すごく似てたので。双子の方かなって……つい、そう思ってしまって」
俺は少し拍子抜けしながら、店内へ足を踏み入れた。
店の奥へと進みながら、ふと棚の一角に視線を向ける。
詩集、文学全集、写真集——どれも色あせた背表紙を並べて、静かにそこにあった。
と、そのとき。
「これ、私のおすすめなんですけど……よかったら、どうですか?」
声がした。
振り返ると、森田が手に一冊の古びた本を持っていた。
表紙は色落ちした白で、タイトルは小さな明朝体で書かれていた。
『愛とその他の不可能について』
「タイトルが、ちょっとくさくないですか?」
俺が苦笑すると、森田も笑った。
「わかります。でも内容は意外とドライで、読むとスッキリしますよ。恋愛小説というより、少し哲学的というか……
“自分にとっての他者”について書かれている感じです」
「……“他者”ね」
俺は本を受け取って、ぱらぱらとページをめくった。
活字は小さくて、少しだけ紙の端が波打っていた。
それでも、不思議と“この本は読める”気がした。
「じゃあ、これ借ります。いや……買います」
「ありがとうございます」
森田はうれしそうにレジへ向かった。
俺は少しだけ微笑んで、彼女の後ろ姿を見送った。
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そのあと、俺はしばらく書棚のあいだを歩き、森田とは特に話すこともなく店を出た。
風月堂の前の路地はいつも静かだった。細い道に陽が落ちて、アスファルトの上に白い線のような光が伸びている。
ふとした気配に顔を上げると、向こうから森田が出てくるところだった。どうやら休憩か、外の空気を吸いに出たらしい。
「あ……偶然ですね」
森田が声をかけてきた。
俺は頷いた。けれど、それ以上なにか言葉を返すことができなかった。
「少し歩きませんか? 店、すぐ戻るので」
森田がそう言ったので、俺は自然にその隣を歩き始めた。
沈黙はあった。でも、それは気まずさじゃなく、心地よいものだった。
ふたり並んで歩いていると、風が頬を撫でるたびに、何かが少しずつ剥がれていくようだった。
「さっきの本、なんで気になったんですか?」
森田がふと尋ねた。
俺は少し考えてから、答える。
「……“他者”って言葉、最近よく考えるんです。誰かと一緒にいるって、どんな感覚なのかとか」
「そうなんですね。私も、人との距離については、よく考えます」
「距離?」
「ええ。近づきすぎても苦しいし、離れすぎると寂しい。
ちょうどいい場所を見つけるのって、なかなか難しいですよね」
その言葉が、まっすぐに胸に入ってきた。
俺とタカのあいだに横たわる、距離と制限と、感情と情報の境界線が、今ふと照らされた気がした。
「……難しいです、ほんとに」
「でも、今のこの感じは、私はけっこうちょうどいいかも」
森田が少し笑いながら言った。
俺は何も言えずに、それでも歩く足を止めなかった。
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日が傾き始めた帰り道。
別れ際、森田はふと足を止めた。
「……今日、話せてよかったです。また来てくださいね」
その言葉に、俺はわずかに頷いた。
「……うん、また」
それだけを返して、俺は路地を曲がった。
振り返らなかった。けれど、背中に残る余韻が、どこかあたたかかった。
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夜、部屋に戻ると、タカがソファで横になっていた。
テレビはつけっぱなしで、ぼんやりと青い光が部屋の壁を染めている。
「おかえり」
タカが言った。
「ただいま」
俺も言葉を返した。
靴を脱いで、冷蔵庫から水を取り出す。何気ない動作。そのすべてが、やけに静かに感じられた。
「散歩してた?」
「……まあ、そんな感じ」
俺が曖昧に答えると、タカは小さく頷いた。
そのまま会話は終わったように見えたが、タカは少しだけ視線をこちらに向けた。
「……なんか、いつもとちょっと違うな」
「ん?」
「いや、別に。気のせいかも」
タカはそう言って、テレビの方に目を戻した。
俺も特にそれ以上は答えず、水を一口だけ飲んで、部屋の隅に目をやった。
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夜が深まり、部屋が静かになる。
俺がベッドに入ったあとも、タカはまだ起きていた。
ソファに座ったまま、画面の電源を切り、目を閉じる。
——さっきの、あいつの空気。
なんというか、輪郭がやわらかかった。
話すテンポも、言葉の選び方も、ちょっとだけ違った。
タカは頭の中で、カシの今日の記憶を巻き戻す。
視界、音、身体の揺れ。記憶の奥で静かに再生される時間の断片。
風月堂の扉を開けたときの光。
本を受け取ったときの指の動き。
森田という女性の声。
歩くテンポ。沈黙の温度。
——そして、あの笑い方。
「……ああ」
タカは、少しだけ目を開けて、天井を見つめた。
「あいつ……ああいう顔も、するんだな」
苦笑するように、タカはソファの背にもたれかかる。
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翌朝、カシが洗面所から出てくると、タカがコップを片手にぽつりと言った。
「なあ……あの店員さんの声、綺麗だったよな」
「……は?」
「“私のおすすめなんですけど……”って、お前ちゃんと覚えてるし。
なんか、記憶の波形がやたらスムーズでさ。お前、少しニヤけてただろ」
「……覚えてねぇし、そんなの」
と言いながら、どこか耳のあたりがほんのり赤くなっているようにも見えた。
タカは口元を緩め、笑いを堪えながら言った。
「へぇ、そっか」
窓の外から差し込む朝の光のなかで、
いつもと変わらないようで、ほんの少しだけ違う空気が、ふたりのあいだに漂っていた。