架空交錯
ここはどこだろうか。
ふらふらになった頭で考えても答えは霞の中に消えていく。
力を使いすぎた。たったの半日程度で黒い壁が消え、目が覚めたことがその証。
すでに曜は限界だった。
ウィザードを起動させることすら難しい。
しかし、ここで立ち止まることは死を意味する。今にも倒れそうな足で曜は歩き続けた。
何度も……何度も何度も何度も何度も何度も同じ道を通っている気がする。
暗い森の中を独り。
疲れ切った体を引きずってイヴィルがいない方へ。
僅かでも安全を確保できる場所を求めて。
でも、いくら歩いても、どこからかイヴィルが湧き出てくる。
ほら、今も正面から何かの遠吠えが聞こえてきた。
小雨が降ってるからか寒い。ずっと震えが止まらない。
油断すると歯の根がすぐに合わなくなってしまう。
休める場所を求め、暗い森を見回しても目に映るのものは変わらず、木とイヴィルの影だけが視界を覆い続けた。
もう、自分がどう歩いているかも定かではなかった。
アリアドネを見ても、現在位置はそう変わっていない。
もしかしたら、本当に同じ場所を歩いているのかもしれない。
(……疲れたな…………)
このまま、倒れてしまいたかった。
瞼が重い。体が本当に怠くて、ふと気がつくとさっきと景色が違っている。
もはや痛みすら感じない。思考も、意識も真っ黒に染まっていき――
「ぐっ!」
真横からの衝撃に曜は突き飛ばされた。
無様に転がりながらも体は反射的に受け身を取って、起き上がろうとする。
ろくに力の入らない手を支えに顔を上げると、数体の【インプ】が曜を取り囲んでいた。
「は、なれろっ!」
いつもなら問題なく倒せるイヴィル。
だが、ウィザードを起動する力も、武器を振る力も残っていない曜はたった数体の【インプ】になぶられる。
意識が明滅する――肩のあたりが痛い――土の味がする。
こんなときなのに家族の顔が頭に浮かんだ。
父さんは帰ってきているだろうか。
家にいる母さんは大丈夫だろうか。
うちの妹は結構しっかりしているから、多分なんとかなる。
だから、俺が頑張ればまた会える――
最後の力を振り絞り曜は這い――どこかに転がり落ちていった。
「あ……」
体中に響く鈍痛に少しだけ目が覚めた。
立ち上がれ。立ち上がれ。立ち上がれ。
そう何度も言い聞かせ、呆れるほどの時間をかけながら曜は体を起こす。
窪地のような場所だった。どうやら、小さな崖から滑り落ちたらしい。
曜を襲っていた【インプ】もいなくなっている。
だが、それは決して幸運ではなかった。
「……ほんと、ツイてない……」
眼前に現れたのは巨大な【ベールゼブフォ】。
ただし、その形状は今まで見てきた同種のイヴィルとは異なっている。
背の凹凸に無数の黒いスライムのような卵を乗せ、体全体から粘着質な液体が滴り落ちている。まるで皮膚が溶解しているようで、不規則に動く巨大な眼球がひたすらに気持ちが悪い。
そんな不快な蛙のイヴィルが目の前にいた。
「……生は、映像よりはるかにグロイなあ……」
こいつは【ベールゼブフォ】のボス。
おそらくは雌だと思われるこの個体は滅多に移動せず、他の個体に餌を運ばせている。
この窪地に落ちてきた曜を餌だと思ったのだろう。【ベールゼブフォ】はゆっくりと口を開き――
その舌が曜を捉えた。
(これはもう……駄目だろ……)
もう舌を振り払う気力も体力もなかった。
凄まじい力に引き寄せられ意識は飛び、気がつけば、暗く異臭が立ち込める壁に圧迫されていた。
――ああ、喰われた。
ここは【ベールゼブフォ】の胃の中だ。
わかっているのに、体が動かない。
逃げようという意識まで溶かされていくようだった。
(……あと、どのくらい生きていられるんだろ……)
助けなんてくるはずがない。
ここで月城曜は死ぬ。
死ぬ。そうだ。この暗い胃の中で、誰にも気づかれず、骨すら残らず、何も残せないまま、家族を泣かせ、親友を傷つけ、先生の教えを裏切って、級友と約束した再会を果たせず、全てを放り出して、
ここで諦めて、俺は死ぬ。それで――
(よくないよな……)
一欠片の熱が胸に灯った。力がほんの少しだけ湧いてくる。
まだ死ねない。理由はたったそれだけだ。
べつに生涯を賭して成し遂げたい事があるわけでも、大きな目標があるわけでもない。むしろ、何もない。将来やりたい事も決まっていないし、この迷宮にいるのだって、自分の意思だけじゃなくて流されている部分もある。改めて考えてみると我ながら情けない奴だとすら思う。
それでも、曜は諦めたくない。
魔獄の中を駆け抜けた、あのときのように。
だから、最後まで足掻いてやる――
「こほっ、かほっ、はは、ざまあ」
ウィザードで作り上げた壁が解けた先に広がっていたのは、偽りの夜空だった。
火薬と生物が焦げた嫌な臭いが周囲には充満している。ゆっくりと辺りを見回せば、腹が爆ぜ焼け焦げた蛙の死体が目に入った。
いかにハザードⅢといえど、腹の中からありったけの爆弾を起爆されては、曜とは違い耐えられなかったようだ。
(進まないと……)
ゆっくりと。再び曜は這い始めた。
森の中へ。どこを目指し進んでいるのかもわからないまま。
アリアドネは繋がらず、最後の頼みでウィーザードを起動しても上手く形にならなかった。
頭痛も酷い。さっきのが本当に最後の足掻き。残されたのはこの身一つだけ。
――視界が霞む。頭がぼんやりする。でも、あの木のところまで頑張ろう……あの切り株のところまで行って……あの茂みの中なら……あの岩陰なら……あの黒い花のところまで…………
進み続けた。
進み続け、這い続け、そして、ふと曜は自分が何を追っているのか気がついた。
――花の匂いがする。
甘く爽やかで、この森には不釣り合いなその匂いを曜は無意識に追っていた。
何でこんなものを追っているのか。そんな疑問に這うのを止めようとしたとき、曜の身を浮遊感が包み込んだ。
「痛って……何が……」
また何処かに落ちた。慣れ始めた痛みにすぐに状況を理解することができた。
さっきは崖から転がり落ちたが、今のは違う。
平坦だったはずの地面が不意に消え去った。
訳もわからず、曜は空を見上げ、
言葉を失った。
地面だと思っていたものは、無数の蔓が絡み合ったものだった。
とても自然にできた物とは思えぬほど、整然と絡まり合ったそれは天然のドームのように広がっていた。
まるで、この中心部に鎮座する巨大な花のつぼみを守るように。
「何だ、これ……セフィラ……」
黒い花弁に金の模様が浮かぶ花。
それはセフィラの特徴と合致していた。
しかし、巨大すぎ――何より、美しすぎた。
こんなに暗いのに黒い花を認識できるのは、花弁に浮かぶ金の模様が光で描かれたかのように煌めいているからだ。
決して強い光ではない。
暗闇の中でポツリと灯るその光はまるで鬼火のようで、曜は誘われるように手を伸ばす。
触れた花弁の柔らかさに思わず息を呑む。
手についた血と泥が花を汚してしまう。そんなことに罪悪感を覚えるほど、この花は美しく幻想的だった。
そして、花弁は開き始める。
「…………は?」
美しく咲き誇る黒い花。
暗い森の中、孤高に花開いたその中身を見て、曜の思考は停止した。
「ひ、と……」
そこには、お伽噺の姫がいた。
黒い花をベッドにして眠る、どう見ても少女にしか見えないモノがいた。
少女だ。本当にどう見ても華奢な女性にしか見えない。
何度、目をこすってもホモ・サピエンスにしか見えなかった。
光を受けて輝く灰被りの髪。
作られたように整った顔。
肌の色素は薄く、白いワンピースのような服の胸部は僅かに盛り上がっている。
だから、多分女性だ。この顔と体で男だったら怖すぎる。
これだけなら、人だ。地球の人間だ。
だが、両の側頭部から生える角のようなものが、曜の中から普通の『人間』という可能性を消し去った。
まさか。この少女らしきものは、人であっても人ではない?
それはつまり……
「いや、いやいやいや……ごっほ、痛っ、いや、それは、は? えっ?」
思考が働かない。まともな言葉が出ない。何をすればいいかわからない。
思わず疲れも痛みも忘れ去ってしまうほどの衝撃に曜は見舞われていた。
そして、パチリと開いた少女の夜色の目が曜を映した。
その夜空の星を映しているような目に、綺麗だな、と場違いな感想を抱きながら、曜はなんとか声を絞り出す。
「…………お、おはよう?」
「……――?」
場違いな挨拶への返事か、薄い唇が何か言葉のようなものを紡ぐ。
ちらりと覗いた白い歯も舌も人と変わらないように見えた。しかし、その声は歌のようで、とても何と言っているのかなどわからなかった。
首を傾げる少女を前に、曜はゆっくりと意識が遠のくのを感じる。
あれだけ張りつめていた緊張の糸が切れて、暗い意識の彼方へ思考が追いやられていく。
「今週の俺の運……どうなってんだよ」
なんとも格好のつかないファーストコンタクト。
もうこんなのやだ、という心からの叫びは、きっと誰にも届かないのだろう。
メイズ・バベルが飛来してから半世紀。
十二本の楔の内に広がる異世界において、人類は意思の疎通を可能とする存在も文明の痕跡の一つも発見していない。
それゆえにメイズ・バベルは謎だった。その全てが未知と神秘に包まれていた。
しかし、今日この瞬間、未踏の謎への扉が開いた。
この出会いは人類が待ち望んだ幻想との邂逅にして、全ての始点。
この日、月城曜は架空と出会った。




