最初の一歩
眩しさを感じ目を開くと、蔓に覆われた青空が見えた。
すでに太陽は中天だ。一体、俺はどれだけ寝ていたのだろう、とぼんやりとした頭で考え――
曜はがばり、と体を起こした。
「あ、あの子は!?」
魔獄も、キモイ蛙も、黒くてでっかい狼の存在すら、あの衝撃には敵わない。
見たことがない『人』。花の中にいたお姫様みたいな少女。
人類がこのメイズ・バベルに潜り、ひたすら探していた文明の痕跡や意思疎通ができる存在。
そんな子が――いなかった。
辺りを見回しても、何処にもそんな子はいなかった。
あるのは開花した金の模様が浮かぶ黒い大輪の花のみ。それ以外は蔓に囲まれた殺風景な空間が広がっているだけだ。
「そりゃ夢だよな……」
五十年。
世界中の人々が血眼になって探しても、迷宮の中に文明の痕跡を見つけることはできなかった。
人類がメイズ・バベルについて理解していることなど表面的なことに過ぎない。
少しでもその根底を理解できていたのなら、例えば、北米辺りのゾンビみたいなイヴィルへの対抗策だって用意できたはずだ。
しかし、あの地は瞬く間にイヴィルがひしめく禁域と化した。
そんな現状だというのに、文明の痕跡を跳び越えて『人』を発見?
まさに夢物語だ。というか、年齢とかどうなっているんだ。
メイズ・バベルが飛来して五十年ということは、あんな若そうだったのに、実はおばあちゃんなのだろうか。
「俺、どんだけ疲れてたんだか」
いっそ昨日の出来事が全部夢のように思えた。
あれだけ痛かったはずの体も嘘みたいに楽になっている。
今は少しの痛みさえ我慢すれば走ることもできそうだ。まあ、少し状況が良くなったとしても、依然として大変まずい状況であることが悲しいところ。
曜は欠伸を噛み殺し、バックパックを引き寄せる。
ふむ。物資、少し心もとないが問題はない。ウィザード、問題なく起動できる。アリアドネ、通信機能が故障中。士気、まったくもって上がらない。
「よーし、がんばるぞー……はあ」
「――?」
「…………まずは、アリアドネか。これ、直るといいんだけどな」
「――?」
「………………工具もあるし、マニュアルもある。後はここで直せることを祈るしかない、と」
「――!?」
――どこから湧いて出た。
曜はそんな言葉をなんとか飲みこむ。
なんだか歌みたいな声が聞こえる気がするし、角が生えている少女の幻覚も見える気がする。
しかし、曜はあくまでそれを錯覚と断じた。
だって、もう無理なのだ。色々と限界なのだ。昨日の出来事は全部夢で、視界の端に見える少女はいなかったということにさせて欲しい。
――なんで今このタイミングなんだよ。
ただでさえ一人で、体はボロボロ、通信機能を直せなければ救助も見込めないという、生粋のギャンブラーだって鼻で笑うような状況なのに。
か弱い一高校生にはイヴィルをなぎ倒しながら、格好良く迷宮を脱出するなんてヒロイックな行動はできません。
だから、体を揺らさないで、怒ったような声を上げないで。
だが、どんなに心で否定しようと、これは現実だった。
「ふう……よし」
覚悟を決めることにした。
いかに今はご遠慮願いたくても、これは地球人類にとって待望のファーストコンタクトだ。
図らずも、月城曜は地球人代表みたいなもの。
第一印象を悪くするのはまずい、という冷静さが辛うじて曜には残っていた。
「えーと、こんにちは、ハロー、グーテンモルゲン、ボンジュール、ニーハオ……あと、何があったかな」
「――?」
当然ながら、こちらの挨拶は伝わらないようだった。
そりゃあ、角が生えているのだ。
曜の知っている限り、地球上に角が生えている人間は存在していない。
よって日本語だろうと他の国の言葉だろうと通じるはずがない。
(待てよ、コスプレという可能性は……)
流石に角に手を伸ばすのは気が引けた。
その代わりまじまじと少女を、特に角の辺りを凝視していると、少女が気まずそうに俯く。その頬はほんのり赤くなっていた。
「あ、ごめん」
どうやら、女子をまじまじと見るのはそちらの世界においてもいただけないことらしい。
頭を下げて謝罪の意を伝えようとするも、これが正しい意味で理解されているのかはまったくわからない。
「まいったなあ」
曜は意思疎通の難しさを実感していた。
言語が通じない、ボディランゲージも文化圏が違う以上、意味を為さない。
地球の中でさえ、ピースサインや手招きの意味は国によって違ったりするのだ。まったくの異邦人であるこの少女とどうすれば『会話』ができるのか。
――こんなとき、どうすれば「仲良くしたいです」と伝えられるのだろう?
アニメやドラマの探偵のように、指をあごにかけ悩むこと数十秒。
曜はバックパックに入っていた『食べもの』を取り出した。
つまり――美味しい食べ物なら万国、いや、全宇宙共通のはず! という考え。
味覚の感じ方が異なっていたら、もう諦めるしかない。
「大丈夫か、これ……」
ただそれ以前に、この潰れた茶色の物体を食べてくれるかが不安だった。
ラップに包んであったチョコケーキは無残に潰れていた……おのれ、くそ狼。
でも、味だけは。見た目はともかく味は大丈夫なはずなのだ。これはケーキ屋の娘であるF班員、鈴木花子がゲリラ的に配る試作スイーツなのだから。
興味深そうに異邦の少女は曜の手元を覗いている。
一縷の望みをかけ、曜はラップを開いて比較的見栄えの良い部分のチョコケーキを差し出した。
しげしげと茶色い物体を見つめる少女の前で、曜は見本を示すようにケーキを食べ始める。
「うまっ! そこらのより、絶対うまいだろこれ。流石、迷宮パティシエ志望」
口の中でとろけていくチョコケーキ。
その甘さはくどくなく、さっぱりとしたものでスーッと舌に溶けていく。
迷宮の食材で新たな味のスイーツを、なんて変わった動機だと思うが、その腕前は一流に近いのだろう。去年のクリスマスパーティのケーキも凄かった。
そして、彼女が積み上げてきたものは地球外の生命にすら届いたようだった。
ふわり、と。
おそるおそるケーキを口に運んだ少女は花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「――」
その声の響きだけは「美味しい」という意味だと確信できた。
「……すごいな、鈴木さん」
お菓子一つで、誰かの心を掴む。それも異邦人の。
なんだか、彼女がとても格好良く思えた。鈴木さんには勿論、これは是非とも皆に教えてあげなくてはいけない。だから、
「もうひと踏ん張り、頑張りますか」
まずは、通信するためにもアリアドネを修理しなくてはならない。
直ったら誰に通信するかなんて決まっている。隣りにいるこの少女の存在を知ったら、きっと飛び上がるほど驚くに違いない。
気合は十分。
修理を始めようとドライバーを手に持ったところで、曜は肝心なことを忘れていたことに気がついた。
ケーキを頬張りながらこちらを見ている少女に向き直る。
まだ警戒はされているのだろう。彼女は曜と目が合うと少しだけ身を固くした。
「……えーと、曜」
自分自身を指差して、曜はそれを言葉にした。
これは初めて会う人がする儀式のようなもの。絆を結ぶ最初の一歩。
「俺の名前は月城曜。よう。よーう」
一頻り自分の名を言葉にする。
大きく、はっきりと。ちゃんと届くように。そして、
「――あなたの名前は何ですか?」
最初の一歩は届いただろうか。
不安を抱えながら少女の様子を見守っていると、やがて少女は優し気な眼差しで、歌のような声を風に乗せた。
「イ――。イ――ア」
大きく、はっきりと。同じような歩幅で最初の一歩は返ってきた。
だけど、ちょっとだけ困った。
少女の歌のような声はなんとも発音しづらかった。
「イデ、イア……イルィエア……いや、ちょっと長いか……」
何度か少女の名前を繰り返す。そのたびに少しずつ少女の頬が膨れていく。
きっと、発音が悪い。それがわかっていても曜は正しい答えに中々たどり着けないでいた。
「……えーと、イデア。イデアは?」
こくん、と。
すこーしだけ不満そうだったが、彼女は『イデア』という名に頷いてくれた。
「よろしく、イデア」
「――――ヨウ」
言葉はわからないけど、想いは届いた。
最初の部分は相変わらず理解できない。でも、最後のそれはちょっと発音が違っていてもたしかに曜の名前だった。
「ヨウ?」
「あ、ああ、何でもない」
おかしい。微笑みとともに空気を震わせた声の威力はちょっと凄かった。
気恥ずかしさや、達成感。そんなよくわからないものが、背筋を這い上がってきて、とてもくすぐったかった。
「ヨウ、――?」
少しだけ明るくなった少女――イデアは楽し気に手に持ったケーキを揺らす。
「それはケーキだよ。ケーキ」
「ケエキ。ケエキ――。ヨウ、――?」
「これ? これは、アリアドネっていう通信機。俺の、というか、俺と君の命を握っている機械なんだよ……いや、機械って分かるのか?」
「――? ヨウ、――――?」
「うん、わからん。ほら、もう一個ケーキをあげるから、集中させて。それを修理しないと。俺、こういう細かいのほんと苦手でさ」
「――!」
薄っすら笑いながら、曜はアリアドネの修理を始める。
ケーキを頬張りながら、興味深そうに手元を覗きこむイデアを隣に。
鈴木花子
ケーキ屋の娘。迷宮パティシエ志望。なお、そんな職業は存在してない。色々と普通じゃない集団、F班の一員。




