一鬼 その二
鬼の太い指が、千里の喉もとに届く直前で止まる。
そして黒い大目玉が、ゆっくりと、声のした方に向けられた。
聞き覚えのあるその声に、千里も同じ方を向いた。
「鬼一!?」
「おう、まだ喰われてねぇみてぇだな」
この状況を理解していないのか、現れた鬼一は飄々とした態度で、軽く笑みを浮かべている。
鬼の真っ黒な目が睨む。
鬼一はそれを真正面から受けるが、気圧されている様子は見せない。
「なんだお前は?」
「わしか? わしは見ての通りの浪人よ」
鬼は千里に伸ばしていた手を戻し、鬼一の方に向き直る。
寺を囲んでいた妖怪達も、静かに鬼の背後に集まってくる。
「目障りだ、喰らってしまえ」
鬼のその一言で、妖怪たちの半分が一斉に鬼一に襲い掛かる。
鉄砲水のような圧力で飲み込み、木々を押し倒して林の奥へと雪崩れ込んだ。
「鬼一!」
どこか頼りなさげで、鈍くさそうで、おまけに身なりはだらしないが、鬼一の前では感情をさらけ出せた。
おじさんやおばさんの前では、どんなに辛くても絶対に「辛い」なんて言えなかった。
それは遠慮や他の気持ちもあったかもしれない。
でも鬼一だと、何のためらいもなく、有りのままの感情を口にできる気がしていた。
なぜ来てしまったのだろうかと、不思議に思う。
特別何かしたわけでもないのに、危険を冒してまで助けに来る義理なんてないのに。
鬼一に襲い掛かった妖怪の群れは、団子のように固まり蠢いている。
「……ふん」
鬼はそれを見て決着したと判断し、再び千里の方を向く。
そして乱暴に千里の体を掴み、顔の高さまで持ち上げた。
「やめて! 離してっ! 鬼一、返事をしてーーっ!」
その瞬間、鬼の視界の端で、団子が大きく膨らむのが見えた。
妖怪達が弾けた。
その体は粉々になっていたり、裂かれていたりと、無残な姿になって消えていく。
百いた妖怪の半分が、この一瞬で消え去った。
「……なんだと」
林の暗がりから鬼一が姿を現す。
着物の裾を手で払いながら鬼のいる方に歩いてきた。
「ああ、せっかく洗ったばっかりだってのに。
また汚くなっちまった」
鬼は何事もなかったかのように歩いてくる鬼一を、いぶかしむように遥か上から見下ろす。
「何者だ貴様、さては坊主か? 経を唱えたくらいでは、この九角丸は祓えんぞ!」
「この寝ぼけ眼が。わしのどこを見たら坊主に見える。ただの風来坊よ。だがその娘に死なれちゃあ気分が悪い。だから返してもらう」
馬鹿にされて、千里を握る鬼の手にわずかに力がこもる。
「うぅっ!」
千里は強く締め付けられ、くぐもった悲鳴をもらした。
「おい、今すぐその娘を放しな。そうすりゃ見逃してやらなくもない」
鬼一の目が鋭くなる。千里にも感じられるほどの殺気が放たれる。
鬼に比べればずっと小さな体が、なぜかとてつもなく大きく感じられた。
「グルァァァァアアァァ!」
鬼一の放つ気に当てられ、鬼の背後に残っていた妖怪達が襲い掛かった。
無数の鋭い牙が、大きな爪が、真っ赤な炎や毒の霧が、鬼一の体を引き裂き、燃やし、腐らせるために襲い掛かる。
鬼一は慌てることなく、左腰に下げた刀に手を掛けた。
(だめ! あれは……竹光じゃない!)
鬼一を風呂に入れたとき、千里はあの刀に触れていた。
こっそり鞘から抜いて中身を見たが、刃はこぼれて錆が浮いた、とんでもないなまくら刀だった。
そんな刀では人はおろか、大根すらまともに斬れないはず。
鬼一の変わり果てた姿を見たくなくて、千里は強く目を閉じて顔を背ける。
耳は塞げなかったので鬼一の悲鳴が聴こえない事を祈るばかりだった。
「……見逃してやるといっておるのに、仕方のない」
そうつぶやいて、鬼一は刀を抜いた。
その刀身は刃こぼれも錆もない、見惚れるほど美しい刃だった。
闇に白刃がきらめき、残像を残す。
鬼一は足を肩幅より少しだけ広く取り、左足を前にしてやや半身になる。
柄を両手で握り、刀を右肩の位置に構えた。
そして大きく踏み出し、迫り来る妖怪の壁を、真正面から袈裟懸けに斬りつけた。
「だぁりゃぁぁーーーーッ!」
一振りで壁は裂け、そこに生じた竜巻のような衝撃で妖怪達は塵となり消えていった。
鬼はその光景を見て愕然としている。
「貴様、人ではないな! しかもその刀は……」
鬼一は刀の露を払い鞘に納め、口の端を吊り上げる。
「気付くのが遅ぇんだよ。童椀坊よ」
鬼の目が見開かれた。
「……なん、だと? 貴様、何故その名を知っている?」
「わしだよ。姿が変わりすぎてわからねぇか? まあ無理もねぇ、面影なんて残っちゃいねぇからな」
「その刀、そして俺の名を知る者……、まさかお前は……九角丸かっ!?」
「おいおい、このわしを呼び捨てとは、ずいぶん偉くなったじゃねぇか」
鬼と鬼一のやりとりを聞いて、千里の頭は混乱していた。
(九角丸……? 鬼一が? そんな、だって……)
鬼一は頭をポリポリとかきながら、ゆっくりと距離を詰める。
それに対して鬼はわずかに後退した。
千里には鬼が萎縮しているのが感じられた。
「馬鹿な……死んだはず。二百年前のあの戦で! 貴様はその刀に滅ぼされたはずだ!」
鬼との距離が十歩ほどのところで鬼一は足を止め、不適な笑みを浮かべ鬼を見上げる。
「確かにわしは滅んだよ。お前が仕組んだ、あの戦でな――」
同世界転生。




