約束 ―完結―
「……おい千里、もういいぞ」
「……ん」
千里は目を開け、笑顔を浮かべている鬼一を見つめる。
千里は無傷だった。
もし斬る瞬間を見ていた者がいれば、千里は鬼もろとも斬られていたように見えただろう。
だが刀は千里の体をすり抜けて、鬼だけを斬った。
鬼一の持つ霊刀。
その刀身は鉄ではなく、代々霊刀を所有してきた数多の退魔師の魂が姿を変えた刃だった。
ゆえに刀は人や獣の肉は切れず、邪なる魂とそれから生まれた穢れた肉のみを断つことが出来た。
「終わったの?」
「ああ、終わった」
その言葉で、千里の目から堤を切ったように涙が溢れる。
鬼一の胸にしがみつき、声を上げて泣いた。
自分が、そして鬼一が生きていることが嬉しくて、千里は泣いた。
鬼一は何も言わずに頭を撫でて、大きな手で肩を抱く。
しばらくして千里は落ち着き、腫れ上がった目元をはずかしそうにこする。
「怖かった……」
千里は鬼一の襟にしがみき、胸元に顔をうずめる。
「もう大丈夫だ、村に戻ろう」
襟を掴む千里の手に力が込められる。
いくら待っても千里の返事は返ってこなかった。
「千里?」
「……帰れないよ」
鬼一は、声色を沈ずませた様子の千里に困惑する。
鬼を倒し、千里を狙う者はいない。
明日からまた日常に戻れるのに、帰れないとはどういうことなのか、鬼一は千里の心中を察しかねる。
「連れてって。村のこと、思い出さないくらい、遠い、ところまで……」
消え入りそうな声で千里はつぶやいた。
「千里よ、それは出来ん。わしは人になりきれん半端者じゃ。この身が朽ち果てる最後まで、平穏とは縁の無い、血と屍の道を往く運命にある。お前は生きろ。お前は、この孤独の辛さを知らなくていい」
「わたしだって……ひとりだもん!」
千里は声を押し殺して、鬼一の着物を涙で濡らす。
千里は出雲の血を引く最後の一人。
その血を求める妖怪はごまんといるだろう。それが千里の逃れられない運命だった。
たとえ村に戻ったとしても、それがある限り、これから先、村人とのわだかまりが無くなることはない。
ならば千里はここで死んだことにして、姿を消してしまうのが、千里にとっても、村にとっても最良なのだと鬼一は気付く。
そしてそれがとても悲しいことだということにも。
しかし鬼一はためらった。己の行く先、これから地獄しか待っていないのは百も承知。
どんな最期であれ、ろくな死に方が出来ないのはわかっている。
そこへ連れて行くのは、間違いなく千里の命を縮めることとなる。
それは決して賢い選択とは言えない。
鬼一は千里の頭を優しく撫で、そしてため息をひとつ吐いた。
見上げれば、背の高い木々の間から見える空は、夜を過ぎていた。
紫紺に染まり、寂しく雲が流れている。
「守ってくれる親も、帰るべき場所もない。技を持たず、血の業だけ背負い生きていくのに、小さなお前では、この時代は辛すぎるか」
千里が言葉に出来なかった感情を、鬼一が代わりに言ってみせる。
千里の手がより強く襟を掴み、震えた。
「……いいのか?」
それは千里の覚悟を問う言葉。
決して訪れる事の無い平穏に絶望せず、魍魎の蠢く夜に生きる決意を確かめる言葉。
千里は、ただ無言でうなづいた。
「ならば、弱いお前には護り刀が必要だな。そしてちょうど良いことに、おあつらえ向きなのがここにいる。ただしそいつは大飯喰らいで、ろくな甲斐性もない」
千里が顔を上げる。
鬼一は千里の不安を吹き飛ばすように、にっこりと笑ってみせた。
「これを振るうのは腹が減るんだ。だから握り飯、作ってくれよ。そうしたらわしが、お前の護り刀になってやる」
千里は顔を伏せ、肩を震わせた。
「もうすぐ冬になるな。旅をするのに北のこれからは寒い。南へ下ってみるか?あちらは食い物も美味いと聞いている」
「……う゛ん」
鬼一は千里の顔を上げさせた。
千里はこぼれそうになる涙をこらえていた。
「もう泣くな。こういう時は笑え。辛くても悲しくても、笑ってさえいりゃどうにかなるもんだ」
「……ほんと?」
「ああ、本当だ! うしゃしゃしゃ! ほら、笑え!」
鬼一は声を上げて笑い出す。
そんな鬼一を見ているうちに、千里の不安はいつの間にか薄れて、自然に笑みがこぼれた。
「ふふ、なによその笑い方。変なの」
「そうかの? そんなに変か?」
「変だよ、絶対に変」
「それよりもお前の顔の方が面白いわ! うしゃしゃしゃ!」
「え? 顔?」
鬼一が自分の顔を見て笑い出したので、千里は何か付いているのかと思い指で頬をぬぐってみる。
すると指にはべっとりと白粉が付いていた。
よくよく見れば腕や手にもたくさん付いている。
涙で化粧が落ちてしまっていた。
「ちょっと! やだっ!」
千里は慌てて顔を隠した。
きっとまだら模様で、たぬきのような顔をしているのだろうと、恥ずかしさで頬を染める。
「うしゃしゃしゃ! 化粧なんぞお前には似合わん! もっと美人にならんとな!」
「うう、言ったな!」
必死になって袖で化粧を落としながら、足元にあった石ころを拾う。
笑い転げている鬼一に投げた。
「いてっ! これだけ元気ならもう大丈夫じゃな、ほれ行くぞ。夜が明ければ村の者が来るかもしれん」
鬼一は千里のそばに来てしゃがむ。
「足を見せてみろ」
千里は自分が足首を捻っていたのを思い出し、その途端に痛みがやってきて顔をしかめる。
鬼一は懐からさらしを取り出し、腫れた足首に巻いていく。
そして千里に背を向けた。
「しょうがない……おぶされ。足、痛むじゃろ?」
「うん!」
「おわっ! 飛び乗るな! わしだってくたくたなんじゃ!」
千里は鬼一の首元に腕を回し、顔を広い背中に押し付ける。
山道を下り、村とは逆の方へと向かってしばらく歩いていると、それまで黙り込んでいた千里が話しかけた。
「ねえ、鬼一?」
「ん? なんだ?」
「どうして来てくれたの? わたし、なんにもしてないのに」
「……わしは、畑仕事も手伝えなけりゃ、銭も持ってねぇ。出来るとすればこんな事くらいじゃ。義に厚く生きることは信条だ。恩を受けたままじゃ気が済まねぇ、ただそれだけじゃ」
「そんなことで?」
「わしにはあの握り飯ひとつで十分じゃった。それとあの時は一個しか食えなかったから、今度はもっと食わしてくれよ」
「……うん、山ほど作ってあげる!」
次第に東の空が白み、二人の進む道を明るくしていく。
鬼一は背中の重みを感じながら、しっかりとした足取りで歩を進める。
「もう一つだけ、お願いしても良い?」
「おう、いいぞ」
「わたし……妖に怯えるのは、いや。誰かが、妖怪のせいで苦しむのも、いや」
「……そうだな」
「誰かが、わたしみたいな思いをするのは、いや……だから……」
千里はそこで言葉に詰まった。
あまりにも身勝手な願いだとわかっていた。
苦しみを全てを鬼一に押し付け、背負わせ、縛ってしまう。
「ああ、わしにまかせとけ! 見せてやるよ。誰もが、妖に怯える事も、苦しむ事もない、そんな時代を!」
鬼一は、そんな千里の心配を吹き飛ばすように、にっこりと微笑んでみせた。
千里が体を預ける鬼一の背中はとても優しく、千里の全てを背負ってもなお、とても広く、大きかった。
「鬼一……ありがとう……」
もしも、いつか来る最期まで千里を護り通すことができたなら。
誰かのために生きられたならば、いわば半妖の自分でも人として、少しはまっとうな最後を迎えられるかもしれない。
そんな生まれたばかりの希望を抱いて、鬼一は千里の望む時代へと向かい歩む。
(出雲よ。わしには一国なんぞ、とても背負えそうもないが、これで、許してはもらえんだろうか)
ひとりじゃない。守るべき者がいる。
人と鬼が交わした約束が果たされるのは、そう遠くはない、少しだけ先のこと――。
―― 完 ――
「一鬼夜行」は、これにて終幕とさせていただきます。
お読みいただき、ありがとうございました。
感想や批評がございましたら、どんなものでもありがたく頂戴します。
どうかよろしくお願いします。
構想中の次回作もありますので、今後もお付き合いくだされば幸せです。




