甘いご褒美
港に朝がやってきた。
停泊した船内で朝まで過ごした自分達九人は、眠い目を擦りながらも、港まで迎えにきたムイ正師と再会した。
「皆さん大活躍だったそうですね。本当にお疲れ様でした」
よく通る艶やかな声音が懐かしい。
波乱に満ち満ちた実習は、ムイ正師の一言でとうとう終わりを迎えた。
里への連絡と担当高士の交代は、すでにバトが報告していたようだ。
港に降り立った時点で、四人の高士の姿はどこにもなく。挨拶もしないままの別れとなってしまった。
他の三人はどうでもいいけれど、アナベルとだけは挨拶がしたかったのに。ちょっとだけ寂しくなってしまう。
「バト高士。導士達が大変お世話になりました」
「いや……。それよりも例の確約を」
「ええ、大丈夫です。彼等の口は、私がきっちり閉ざしておきますから」
ムイ正師の美しい笑顔を見て、導士全員が背を正した。バトも怖いがムイ正師も怖い。
里に帰ってからしゃべろうなどとは、誰一人思っていなかった。
「慧師へのご報告はいかがなさいます」
「俺から直接上げる。これから別件があるので、失礼する……」
それだけ言って、足早に歩き去ろうとするバトの背中を引き止めた。
「バトさん」
小走りで追いつき、背中の後ろでぴたりと止まる。
「ありがとうございました」
自分の一言をきっかけに、背後から礼の言葉が紡がれた。
しばらくの沈黙の後、盛大な溜息を吐いたバトは半身だけ振り向かせ。そしてこう言った。
「まったく、理解しがたい奴等だ……」
どこかで聞いたバトの言葉に、笑いがこぼれてしまう。
フードを深く被り、影が落ちた表情の奥から。幻の光を湛えた静かな青銀が、自分を見ていた。
突然、バトの手が伸びてきて頭に乗っかった。加えられた重みで、少しだけ顔の位置が下がる。
これは……?
「首輪を外すなよ、サキ」
ほんのわずかな時間だけ、幻の光を消した青銀が自分を見つめていた。
澄み切った色に、目を惹かれ。つい判断が遅れてしまった。意味を理解し抗議で吠えようとしたのに、またもや転送で姿を消されてしまう。
バトは。
あの人はあまりにも逃げ足が早過ぎる。
今度会ったら盛大に吠え盛ってやる。年頃の娘を犬扱いしたことを、絶対に後悔させなければ。
反撃の誓いを胸に刻みながら振り返れば、口を開けた同期の面々が自分をじっと見ていた。何だ、何ごとだと思って呆けている彼等の顔を見渡し、一点で時を止める。
怒りの熱も高く。嵐が来たかのような高波の気配が、周囲に撒き散らされている。怒りの気配をまとった黒髪の相棒は、あまりにも深く黒い笑いを浮かべながら、消えたバトを睨みつけていた。
たらたらと汗が流れ出る。怒りに圧され、奇妙な恰好のまま動くことができない。
ムイ正師は、不可思議な状態で固まっている九人の導士達を見ていながらも。それでは帰りますよと、問答無用で転送を開始した。
やや強引な彼女の導きにより、自分達はついに――穏やかな真導士の里に帰還したのであった。
くたくたな状態で辿りついた我が家。
扉を開ければ、小さな獣がとても必死な様子で胸に飛び込んできた。
かわいいジュジュと入れ替わるように、気配を鎮めようともしない黒髪の相棒が、ずかずかと居間に入り込んだ。
激怒中のローグは、そのまま長椅子の上に転がった。背もたれの方を向いて横になるのは、彼が怒っている時にするお決まりの姿勢だ。
ジュジュは一通り甘えてから、ふとローグの怒りを感じ取ったようだ。主を見捨てて自室に戻って行ってしまった。
自分の安全を優先した白い獣。見捨てるなんてひどいではないかと、小さく拗ねた気分になる。
とにかく、長椅子に転がる巨大ないじけ虫を何とかせねばと思案する。そして、足取りも軽く炊事場に駆け込んだ。
困った時の頼みの綱。
いじけ虫の大好物である白い果実を、冷水で洗ってから皿に盛り、長椅子のところまで持っていった。
「ローグ」
呼び掛けてみるが返事はない。
これはかなり怒っている。困ったものだ。
「ローグ、リズベリー食べないのですか」
肩がぴくりと揺れた。もうひと押しだと誘惑の力を強める。
彼の頭の方にある脇机に、リズベリーの皿をそっと置く。甘い匂いでの誘惑を試みたが、これは我慢ができてしまったらしい。
なかなか根性があるいじけ虫だ。
「食べないなら、わたしが全部食べてしまいますよ」
そう言って一つだけ白の果実を手に取り、皮ごとぱくりと食べる。リズベリーは皮もおいしくいただける。
口の中に広がる、とろけるような甘味。つかの間、作戦を忘れてうっとりとする。
野苺と同じ大きさのリズベリーは、食べやすくてついつい手が伸びてしまう。一緒に持ってきた小皿に、食べ終えたリズベリーの種を入れた。種を出された音で、またも肩がぴくりとなったが振り返る様子はない。
これは本当に困った……。
かなりへそを曲げてしまっているようだ。打つ手をなくし、情けない声でもう一度呼び掛けてみる。
「一緒に食べると約束したではないですか」
最後の作戦だ。約束は必ず守るという信条に、訴え掛けてみることにした。
これは効果があったらしい。
いじけ虫がついに言葉を発してくれた。
「……どういう知り合いだ」
やはり誤解をされているようだ。青銀の真導士も迂闊なことをしてくれた。
本人は飼い犬の世話だと思っているかもしれないけれど、周りから見たら誤解されるに十分なことなのだ。
帽子で隠して、ローブで保護されているとはいえ。髪がある場所への接触は控えてもらわないと。
誤解を解くのは簡単。でも、確約に触れてしまう。しかも里に戻ってきた時点で、すべて忘れることになっている。悩ましいところだがサガノトスの真導士である以上、話すわけにはいかない。
「里に戻ってきています。お願いだから聞かないでください」
この発言は気に入らなかったらしい。いじけ虫は背を向けたまま、少しだけ身体を丸めて転がり続けている。
いつまでも振り返ってくれない白い背中を見つめていたら。胸の奥の寂しさのふりをした例の感情が、大きくなってきてしまった。
早く名前を呼んでくれと。早く外に出してくれと急かす感情を、持て余して苦心する。
「ねえ、ローグ。帰ったら話したいことがあると言いましたよね。わたしの話を聞いてはくれないのですか?」
自分だって恥ずかしい。
けれど真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたローグに対して、ちゃんと真っ直ぐに向き合いたい。
「……聞く。話してくれ」
何と。背中を向けたまま聞くつもりなのか。それはちょっと……どうなのだろうか。
「こちらを見てはくれないのですか」
返事はない。ちょっとだけむっとする。
人が一大決心をして、向き合おうとしているのに。さすがにひどいのではと思える。
「本当にいいのですか」
「……いい」
ならばこのまま伝えよう。後になってもう一度と言っても、そのような願いなど聞いてはあげない。
もう決めてしまった。
深呼吸を一つする。
「ずっとずっと"寂しい"と思っていました」
肩が揺れた。
「ローグに違うのではないかと言われて、わたしなりに考えていたのですが……。確かに"寂しい"わけではなかったようです」
いじけ虫が転がって、こちらを向いた。
いまさら振り向かれても……。本当はとても恥ずかしいので、あちらを向いていてもらってもよかったのに。
「悪化するはずです。治療法が間違っていましたから」
黒の瞳の中で、自分が微笑んでいる。
「わかったのか」
長椅子の上に座りなおした彼の前。膝立ちしたままの姿勢で相対する。
右手が頬に伸びてくる。やさしく撫でてくれる手は、いつも通り高い熱を帯びている。
「はい。ローグがいるから"寂しい"わけでも、ローグがいないから"寂しい"わけでもありませんでした」
強い眼差しを正面から受け止めて、ローグの瞳を見つめる。
真っ直ぐな黒い瞳。自分の大切な相棒を象徴する――鮮やかな色。
「わたし、貴方が"恋しい"」
大きく開かれた黒の奥で、心の炎が大きく揺らめいている。
「ローグが"恋しい"」
意志を持って彼に触れる。自分の右手を彼の頬に当てて、ぬくもりを感じた。
「貴方が……好きです」
驚いた顔で固まってしまったローグは、目を少し見開いたままで問う。
「確かめてもいいか」
信じられないといった表情に、微笑みを返し。
目を閉じて、そっと真眼を開いた。
背中に腕が回り、抱き締められる。そうしてからゆっくりと額を合わせ、互いの気配を辿っていく。
ローグの気配は大変な様相になっていた。嵐がきたのか竜巻が起きたのかと心配してしまうほど、波が忙しなく蠢いている。
思わず頬が緩んでしまう。
真力を整えるのは大変だろう。実習の後にして正解だった。
自分を抱き締めて。ひたすらに気配を追っていたローグから、笑いがこぼれた。
「確認できましたか」
「ああ……」
彼はとてもうれしそうな返事をして、額を離した。
瞼を上げたら、満面の笑みを浮かべたローグがそこにいた。照れ臭くて堪らない。でも、うれしそうな彼の笑顔を見ていたくて、目を逸らさないよう努力する。
触れ合っていた真眼に、口付けが一つ降ってきた。
「ずいぶんと、大きく実ったものだ……」
さらに頬に口付けて、真剣な顔になって自分を見つめてきた。
背中に回していた右手を頬に滑り込ませ。口付けたばかりの場所に熱を送り込んでくる。
高鳴っていく鼓動と、恋心で胸が苦しい。
呼吸が途切れてしまいそうな圧迫感に、眩暈がしてきてしまう。
「サキ。触れてもいいか」
とても断定的な問い掛け。
もう触れているのではと、とぼけることもできる。しかしそれは、まったく意味がない。
「……聞かないでください」
視界に膜を下ろした。
衣擦れの音と共に、彼の右手がするりと喉元に滑っていき。
熱が唇に触れる。
想いをあらわしたようなぬくもりに眩暈を覚えて、身体の力を抜いた。
一度離れた熱が、足りないと言わんばかりに、またきつく重ねられる。唇が触れ合う熱に浮かされ。自分を支えていた軸が熔かされてしまった。
幸福感に支配された自分は、ローグのぬくもりに溺れようと腕の中に沈んでいく。胸元に頭を埋めて、恋しい人の顔を見上げた。
「甘いな」
思った通りだと言いながら、熱い親指が唇をなぞる。
とうとう羞恥に完敗してしまい、白のローブに顔を隠して動けなくなった。
甘いのは先ほど果実を食べたせいなのに。
しかしその事実もまた恥ずかしく。ぴたりと動きを止めたまま、彼の腕の中で長いこと隠れて潜んだ。
気がついた時には、白い果実はすっかり平らげられて一つも姿を残していなかった。
その日の夕食が、聖都ダール風になったのは言うまでもないだろう。
第六章以降は『蒼天のかけら ~二つ星編~』として掲載中です。
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