夢のまた夢
老人「最近の小説というのは、珍妙な小世界で奇天烈なことをしているものが悪目立ちしている、そんなものは小説ではない」
若者「じゃあ本物の小説ってのを読ませてみろよ」
老人「ほら」
若者「ふむふむ。なんだこの現代語から離れた変な言い回しは、話も古臭いし、展開も発想も平凡。これのどこが面白いのさ」
老人「そりゃお前さんの教養が足りんだけじゃ」
若者「教養ねぇ。じゃあ、じいさんは今を時代ってのを勉強しているのかい? それだって教養じゃないの? じいさんが最近の小説の面白さを理解出来ないのは、今の時代の教養がないからじゃないの?」
などという会話があったとしましょう。
僕は《小説家になろう》で連載させていただいている。
僕が書くような《なろう系》だとか《なろう小説》などと呼ばれる話を理解するには、一定の知識が必要になる。それを教養と読んでいいかは別の問題として、レベルだとか、転生だとか、魔法だとか、ことばの意味や概念ぐらいは常識として理解しておかないとストーリーを追うのは難しいだろう。
その逆。ライトノベルとは呼ばれていない小説を現代の若者は理解できるだろうか。作者が比較的若いものならまだ理解できるだろう、それが齢60を超えても現役バリバリの作家さんだとどうか、言葉を理解するのも難解、楽しむことなぞ、それこそ老人が教養と呼ぶ知識が必要になってくるはずだ。
僕はそれらを悪いことだとは言いたくない。言いたくはないがひとつの事実としてジャンル、あるいは世代による隔絶がそこにはある。
僕は小説家になりたい人間だ。僕が努力と幸運の果てに、小説家になれるとしたら若者に向けた、今の知識を持った人に向けたモノでデビューするだろう。
しかし難しい顔をした老人達から「天才じゃ!」と言わしめたいという、なろう主人公のような願望もある。
地球の全ての人とは言わない、せめて日本人の半分ぐらいが楽しめるものは書けないのか?
今現在そのような作品は存在していない。そして今後も難しいだろうというのが僕の考えだ。
ならばどうするか、一つの作品、一つの作風で無理ならば複数出すしかない。
老人&若者「雷然は面白い小説を書く」
夢のまた夢のような話だ。まずはまともなものが書けるように修行あるのみ。