針③
彼女は大学のゼミの後輩。
ほんの少しよその家よりも親が金を持っている我が家は、よく飲み会の場として利用された。私の三つ上の兄は必要以上に社交的な人物で「世の中はコネだよ」が座右の銘だった。口癖ではない。証拠として紹介するが口癖は「お金ちょうだい」である。
そんな兄が近辺の大学生やらなにやらよく解らない連中を家に上げていた影響で、我が家で飲んでいたバカ共の後輩も家に来るようになった。
そして何故だろう、彼女はこんな掃き溜めに来る人物ではないのというのに、いつのまにかそこに居た。飲むでもなくしゃべるでもなく、誰の相手もせず、ただ家に来ていた。割れたグラスを拾う私を見て君は、哀れな生き物を見る視線を寄越すだろうか、それとも、それともだ、お手伝いしますなどという殊勝なことを言うのだろうか、グラスを拾い、次に大きめの破片をつまんだ私は上目づかいにそれとなく彼女を見ようとした。
すでに彼女の姿はなく、彼女がもたれかかっていた壁の絵画が誰かの酒で汚れていた。
「先輩、今度標本を見せてくださいよ」
誰かが余計なことを教えたのだろう、目を輝かせることもなく、かといって無関心でもなく、好奇を携えることもなく、ただ静かに彼女はそう言った。優秀な彼女のことだ、私のコレクションに何かしらの価値を見出したのかもしれない。
「……いいだろう」
少し考えるフリをして、彼女を自室に通した。
「ずいぶんと保存状態がいいんですね、欠損が全く無い」
「わかるのか」
私はずいぶんと驚いた。標本というのは経年劣化する。昆虫の標本であれば足や羽、身体の弱い部分から朽ちて本体と分離することは普通のことである。彼女に見せた標本は、完成こそ古いが全く欠損がない。完品である。
「これ、先輩が作ったんですか?」
「ああそうだよ」
「すごい……どの虫も生きているみたい」
温度や湿度、照明の当たり具合や、何より標本そのものの出来によって劣化速度は大きく変わる。僕の作った標本は時を止めたように生命の美しさを固定した。
「ずっと美しいままなんですね。いいなぁ」
ほどなくして僕と彼女は付き合い始めた。何もかもが新鮮で、人を好きになることが僕にも出来ることを彼女は教えてくれた。
大学を卒業したら結婚しよう。
彼女はくしゃっと顔をゆがませて「はい」と答えてくれた。
彼女の涙に僕も泣いた。
皮脂や体液を合成樹脂へと代えた彼女は、一定のポーズから姿勢を変えることはない。
今の彼女を美しいだなんて誰がそんなことを言うのか、降り注ぐ針の雨が彼女を濡らし続けるのだろう、永遠に渇き続けるのだろう。朽ちることなんかきっとないのだろう。
あれほど大事にしていた標本達を僕は手放した。ぐるぐる世界が廻る。僕も彼女も過去も未来も廻る。
時計の長い針が短い針と重なるのを見て、裏切り者。と小さく僕は罵った。




