職員検診
「ねえー、今日が健診だって聞いてた?」
「うそー!やだ、本当に?わたし、昨日子どもの誕生日だったからケーキとか食べちゃったよー!!」
「私も昨日ダンナの方の家族の集まりがあって外食だったんだよねー。マズイなー。」
看護師のメグさんとカナさんがそんな会話をしているのが聞こえた。
今日は病院のスタッフさん達の健康診断があるようだ。いつも散々体重だの栄養だの食事管理について言われているので、僕はついついちょっと意地悪な目で看護師さん達を見てしまう。偉そうなことを言ったってやっぱり食事に気を使うのは難しいのだ。
そんな中、ミコさんが辺りを憚るように金髪のポニーテールの頭を少し低くしてコソコソとした動きで、僕のベッドサイドにやって来た。
「ねえ、毛受くんってさ、ペンレス余分に持ってない?貼り忘れたときのとかさ。」
「え、ペンレスですか?いや、いま余ってないですね。どうしたんですか?」
ミコさんは眉間に皺を寄せて、苦い漢方薬でも口に入れたみたいな表情になった。
「あたしさ、ダメなんだよね。」
「は?なにがですか?」
「だからさ、あの、昔っからさ…」
いつもハキハキというか、ともすれば叱られているかと思うくらいに威勢のいいミコさんとは、まるで別人のような歯切れの悪さだ。
「ええと、矢田さん。ペンレスって余ってます?」
僕は隣のベッドの矢田さんに声をかけてみた。
「ああ?俺は男にはティッシュ1枚だってやらんと決めてるんだ。死んだ爺さんの遺言でな。」
矢田さんは今日も相変わらずだ。
「僕じゃなくてミコさんが欲しいみたいですよ。」
「おう、ヤンキーねえちゃんか。ならあるだけ全部持ってってくれ…と言いたいところだが、持ってないんだな。これが。すまんなあ。」
矢田さんはベッドから体を起こしてミコさんを見て、心底すまなそうに言った。
「そっかー。ないかー。ありがとね。」
明らかに元気のないミコさんが立ち上がるのと同時に主任さんが、バタバタとやって来た。
「ああー!ミコちゃん、そんなとこにいたの!!いま採血やってるからすぐ行って!!」
「えっ!!!採血は昼じゃないの?!」
「いま外来が空いてるから、今のうちにやっちゃうことにしたって。」
「えええええー!!いやあああ!!!むりむりむり!!!まだ心の準備とか全然、できてないし!!!」
急に子どもみたいに駄々をこねだしたミコさんを僕と矢田さんは唖然と見ていた。
「なにが無理ですか。さっさと行って!」
ピシャリと主任さんが一喝したものの、ミコさんは涙目で首を振ってデモとかダッテとかゴニョゴニョムリムリ言っている。
ははーん。僕はようやく理解した。どうやら、ミコさんは注射が嫌なのだ。毎日毎日大きな針を刺しまくっている筈なのに、自分が刺されるのはそんなに嫌なものなのかと、なんだか不思議な気分がした。
なおも言い合いをしている主任さんとミコさんのところへ、メグさんとカナさんがやって来た。
「採血行ってきましたー!」
「今はまだ患者さん少ないから早く来てって外来の人が言ってましたよー。」
よく見ると、二人とも腕に絆創膏が2枚貼ってある。ミコさんもそれに気づいたらしく、より一層激しく抵抗しだした。
「ちょっと、なんでメグッチもカナッペも2箇所刺されてんの?!失敗されたの?!!今日って誰が刺してんの?!!!ヤバくない??!!!」
「ああー。今年入った新人さんが採血してたんだけどねー。私あんまりいい血管ないからさー。」
「そうそう、みんな見てるし緊張しちゃったみたい。でも2本目はちゃんと刺せたし。ねえ。」
メグさんカナさんはのんびりとそんなことを言うが、ミコさんはもう顔面蒼白だ。主任さんの白衣の裾をつかんで必死の形相で懇願した。
「主任さん、一生のお願いだから、主任さんが採血して!!ほんとマジ頼みますって!!!」
成程。もう絶対に刺されるなら、下手な新人さんより信頼と実績の主任さんを指名することにしたようだ。
「ええー。なんで私が…」
「た、の、み、ま、すっっっっって!!!このとおり!!!」
それこそ土下座も辞さないくらいのミコさんに、主任さんはちょっとひいていた。頰に手を当ててぽわんと眺めていたカナさんが言った。
「そういえばミコさん、去年の採血のとき倒れちゃって1日入院してたよね。」
「ああ、そういえばそんなこともあったねー。」
メグさんがうんうんと頷いた。主任さんが腕を組んで難しい顔でミコさんを見ていたが、短い溜息を一つつくとハッキリとした声で言った。
「わかった。私やるわ。カナちゃん、悪いけど伝票とスピッツ持ってきてもらっていい?ミコちゃん、また気絶すると困るから個室のベッドでやろう。」
テンポよく指示を出して、主任さんはミコさんの手を引いて個室に入っていった。
「なんなら、俺が代わりに新人の女の子に刺してもらっても良かったんだがなあ。緊張するといかんから、二人っきりで。」
矢田さんがそんなことを言っては、メグさんにやさしく窘められている。
「それにしても、看護師さんって毎日針とか刺してるのに、注射が苦手なんてことがあるんですね。」
僕がそういうと、メグさんはうふふと笑った。
「そうそう。結構刺されるの苦手な人多いんですよ。実は、主任さんも注射ダメなんですよー。」
野原の風船のようにふわふわと遠ざかっていくメグさんの白い背中を、僕と矢田さんは、何度か顔を見合わせながら見送った。