バスツアー
「毛受さん、患者会の旅行って、行きます?」
技士の山内君が、若干深刻な面持ちでそう聞いてきた。
「旅行…?」
僕はマヌケな声で聞き返した。
「ほら、さっき千鶴さんが案内の紙を配ってたでしょ?」
千鶴さんというのは患者会の代表を務めているおばあさんで、なんと透析がまだ自費だった時代から透析を続けているレジェンドな患者さんだ。僕は昔からナントカ会とかが苦手で、なるたけそういう活動には関わりたくないと思っていたんだけど、千鶴さんが本当に一生懸命に「金の切れ目が命の切れ目だった時代」の話や、いま僕がお金の心配をせずに透析を受けていられること、今後も同じように透析を続けていくことが決して当たり前の事ではないのだと話してくれたものだから、正直まったく熱心な会員とはいえないものの一応は患者会に入会して会費を払っている。
で、この病院の患者会では時々患者同士の親睦をはかるためにいろいろな行事があるようだ。ようだというのは、僕が全然そういう行事に参加していないからなんだけど、取り敢えず毎年一回は日帰りの旅行に行くのは(毎回お土産をもらうので)知っている。
「ああ、まだ読んでなかった。今回はどこに行くのかな。」
僕は枕元に置きっ放しにしていたチラシを手に取った。
「ねえ、毛受さん。僕、今回この旅行に一緒についていく係なんですけど…。毛受さん一緒に行きましょうよ。」
山内君は顔の前で両手を合わせて拝むように言った。
「ええ…。なんで僕なんだよ。」
「だって、僕、結婚もしてないし、子どももいないし、他の患者さんとあんまり共通の話題とかなくて絶対気まずくなりますもん。バスの中のカラオケとかも何歌っていいかわかんないし…。」
「えええ…。僕だってカラオケとか無理だよ。だいたい僕も他の患者さんとそんなに仲良いわけじゃないし…。」
そもそも僕と山内君だって特別に仲がいいわけでもないのだ。コミュ障の男が2人ならんで参加してどうなるというのか。
「じゃあ、千坂さんも誘いましょう。毛受さんが千坂さんの隣の席になるようにしますから!!」
「な、なんで千坂さんが出てくるんだよ!!!」
「とにかく、毛受さん参加でいいですよね!僕もう千鶴さんに参加で伝えときますから!」
「ちょ、ま…!!」
いつも小声でモソモソ話す山内君が別人のようにキッパリと言い切ると、僕の参加票を勝手に書いて提出してしまった。
かくして、僕は十数年ぶりに旅行に行くことになった。(日帰りだけど…)
帰宅して、母に旅行に行くことになったと伝えると、母は文字通り飛び上がって驚いた。目を真ん丸くして右往左往してから何故か仏壇に報告すると、猛ダッシュで家から飛び出してイオンで多量の買い物をしてきた。服と下着と靴下とお菓子…まるで修学旅行だ。
母が「皆さんにお渡しして」なんて言って多量のお菓子を持たせようとするのは、「みんな食事制限があるから!」でわかってくれたが、「何があるかわからない」とか言って、僕に新しい下着を持たせようとする。旅行は来月なのに。
そんなこんなで当日、母は車で病院まで僕を送ってくれた。道中何度も何度も「お小遣い足りる?」「本当にお菓子いいの?」なんて聞いてきた。全く、完全に子ども扱いだ。
いい加減ウンザリして文句のひとつも言ってやろうかと思って母の顔を見たら、ポロポロ涙なんかこぼしてて、結局なにも言えなかった。
バスの中は賑やかだった。杖をついたり、車椅子だったりする高齢の患者さんや付添いの家族の方達にとってこの旅行は本当に楽しみな行事のようで、どの患者さんたちもいつもの透析室とは違う明るい表情だった。
僕は通路を挟んで千坂さんの隣の席だった。僕の隣には山内君が、千坂さんの隣には初江さんが座っている。そして僕の後ろの席には、島本さんとその奥さんが座っていた。島本さんは最近透析を始めた患者さんで、まだ透析を完全に受け入れられないらしく、透析を嫌がっては看護師さんたちに説得されている様子をちょくちょく見掛ける。
島本さんの奥さんは、島本さんを気遣って(まさに朝の僕の母のように)あれやこれやと島本さんに声をかけている。島本さんはいつも通りの顰めっ面で窓の外をずっと睨んでいた。
やがて、カラオケが始まった。一番手の千鶴さんが氷川きよしのズンドコ節を元気いっぱいに歌うと、車内は「キヨシ!」の掛け声で、ぐっと盛り上がった。こう言うのを一体感というのだろうか。続いて主任さんが西城秀樹を歌う。みんな楽しそうだ。僕もみんなと一緒に掛け声を出したり、手拍子をしたりして結構楽しい気分になった。山内君もなんだかんだ言って楽しそうだ。
バスが高速道路に乗って少し経った頃、ふと島本さんが手を挙げてマイクを受け取った。イントロが流れる。加山雄三の「君といつまでも」だった。
島本さんの奥さんが、ハンカチで顔を覆った。泣いている。
僕の隣から嗚咽が聞こえた。山内君がもらい泣きしていた。千坂さんも泣き出した。
みんな泣いていた。多分、僕も。
みんな泣きながら、君といつまでもを一緒に歌っていた。
バスが到着したのは、海を見下ろす温泉旅館だった。空はスッキリと晴れていて、海と合わせ鏡のようにどこまでも青く深かった。
僕は潮の匂いを思いっきり吸い込んだ。胸に海が満ちるような気がした。あの溺れる感じではなくて、明るい夏の水平線が僕の中で輝くような、そんな幸せな海だ。
思えば海なんて、大学生の頃以来じゃないだろうか。来てよかったな、なんて思った。
新鮮な刺身(僕には魚の種類とかはわからない)は凄く美味しかった。そういえば、僕が透析を始めてから母は、刺身なんか食べてないんじゃないだろうか。いつも僕に合わせて薄味の煮物みたいなものばかり作っているような気がする。僕は勝手にコンビニとかに行っちゃうからあんまり意味ないんだけど、母は生真面目に毎日どこかで調べてきた透析食を作るのだ。
「母さんにも食べさせてあげたいな。」
僕が我知らず呟いたのに、山内君が大きく頷いた。
「僕、故郷が山奥なんで、こんな美味しい魚とか本当に初めて食べたんですよ。…今度お母さんも連れてきたいですね。」
そんな事を話していると、なんだか急に気恥ずかしくなって僕はそれから黙々と箸を動かした。
家に帰って、僕は多量のお土産袋を黙って母に差し出すと、そのまま部屋に戻った。
母の顔を見るのが恥ずかしかったからだけど、やっぱりなんだか落ち着かなくて、喉が渇いたとかなんとか自分に言い訳しながら台所に降りると、母は焼いたばかりの干物を僕に差し出した。
「母さんに買って来たんだから、母さんが食べなよ。」
僕がそっぽを向いてそう言うと、母は言った。
「こんな美味しいもの、独り占めなんてできないよ。」
昼間の刺身のことを思い出した。山内君はお母さんになんて伝えているのだろうか。
「母さん、今日行ったとこ、すごく海がきれいで…、魚が美味かったんだ。」
「そう、よかったわね。」
こんな風に母と話すのはいつ以来だろうか。背中にシャツが貼り付く。
「あの、さ。今度、また一緒に刺身食べに行こうよ。」
やっと言えた。
母さんは背中を向けて、何度も頷いていた。