おかあさん
憂鬱な月曜日。今朝の天気は控えめに言っても最悪で、土砂降りの町は、夏の朝とはとても思えないほどに暗く、寒い。道行く車はみんなライトを点けているし、僕は押入れの衣装ケースにしまったばかりだった長袖のパーカーを迷った挙句に出して着てきた。
世界がそんな有様にもかかわらず、千坂さんはこの上なくご機嫌な様子であらわれた。
今朝の千坂さんは、一瞬見まごう程に浮腫んでいる。瞼はパンパンで、顔の輪郭もいつもより一回りは大きい。なのに、満面の笑顔だ。
「ねえ、聞いて聞いて!!」
バスに乗り込んでいつもの座席に座るやいなや、挨拶もそこそこに千坂さんはやや前につんのめるように話し出した。
「昨日ね、下の息子がね、初めて貰ったボーナスでね、飲みに連れていってくれたの!!」
千坂さんは息子さんの話をするとき、本当に目がキラキラして優しい表情をする。それは本当に素敵なんだけれど、僕の胸はなんだか船酔いでもしたみたいになる。
「はあー、息子さんが!いいねえー。立派だねえー。」
珍しく河野さんが食いついた。千坂さんはますます嬉しそうな、そして誇らしげな顔になる。
暫く千坂さんは河野さんに昨夜の楽しかったことや、大好きな息子の自慢話なんかをしていた。(その間僕は千坂さんの方が少し年上らしいが同年代だというのにボーナスを貰ってくる息子どころか結婚いや恋人すらいない自分自身について、また僕という親不孝な息子を持ってしまった僕の母親についてなど、今日の天候の様な色彩の陰鬱な思考を脳内でグルグルと滑車で遊ぶハムスターの如く廻していた。)
大音量の雨音で耳を塞ぎ、目蓋の裏に不毛なフラッシュバックを投影していた僕は、すっかり気分が落ち込んでしまった。真っ白に曇った車窓から信号機やパチンコ屋の看板の光がチラチラと見えた。
あれ。何か、違和感を覚えた。
河野さんの声だ。いつもと違う話をしている。
「…でね、末っ子はねえ、勉強が嫌いだっていうんでね、中学出てすぐに働きだしたの。」
これは初めて聞く内容だ。同乗者はみんな興味深げに耳を傾けている。
「初めての給料日の朝にねえ、かあちゃんに美味いもん食わせてやるから楽しみにしてて、なんてね、生意気なこと言って出て行ってねえ。…だけど、夕方になっても帰って来ないんだよ。」
なんか、胸がドキリとした。車内が緊張した空気に包まれる。
「それで私ね。心配になって玄関開けたら、末っ子がポロポロ泣いて突っ立てたんだよ。一体どうしたんだって聞いたら、中学時代の悪い先輩に帰り道に見つかって、ブン殴られて、給料袋ごと取られちまった。かあちゃんゴメンって、エンエン泣いてるんだよ。」
僕はもう泣いてしまいそうだった。
「ええ!!そんなの酷すぎるよ!!それで河野さん、どうしたの?!」
千坂さんがもう立ち上がりそうな勢いで河野さんに続きを促す。すると、河野さんの雰囲気が急に変わった。当時の記憶が甦ったのか、怒りと闘志に満ちた不動明王みたいな表情だ。完全に錯覚だと思うんだけど、河野さんの体がふた回りくらい大きくなった様にさえ見える。
「そう、これは本当に絶対に許せないって思ったの!だから私ね、奴らが住んでる社宅にね、私のお友達の工場長の奥さんと一緒に乗り込んでいってね、お前らの親が会社におれんようにしてやるぞって怒鳴って、ユウ君の給料を取り返してやったの!!」
「すごい!!エライよ河野さん!!うちの次男もユウ君なんだけどね、そんな酷い目に遭ったら私も許せないよ!!」
僕の名前もユウ君なんだけど、そのせいもあってか、河野さんの話が救われる結末で本当に僕自身の気持ちが救われたように感じた。同乗者の武藤さんも崎本さんも運転手さんまでも「良かった良かった」と言っている。(後で落ち着いて考えてみると、良くも悪くも非常に昭和的な話で、現在ではいろいろと有り得ない部分もあるんだけど…)
母の日でもないのに母親についていろいろ考えながら僕が透析室につくと、ミコさんと木村君がシーツ交換をしていた。
「おはようございます。珍しいですね、シーツ交換なんて。」
二人が顔を上げて僕の方を見た。
「ああ、今日は助手さんがみんな休んじゃったんで、僕たちで助手さんの仕事もやんなきゃいけないんですよ。」
「もー、エミちゃんズが揃ってお休みだから、ホントたいへーん!!」
エミちゃんズというのは、ミコさんが看護助手さん3人に名付けたコンビ名だ。3人の看護助手さんは、それぞれ「スズキエミコ」「サトウエミ」「タナカエミリー」という名前で、偶然にも全員がエミさんなのだ。看護助手さんというのはいつも掃除やシーツ交換やいろいろな道具を準備する仕事なんかをしているらしい。
「本当に、朝からお茶の入れ方ひとつ分かんなくて大騒ぎですよ。」
「そーそー。エミちゃんズがここのみんなのおかーさんだからさ、アタシ達、みんなお茶っ葉のしまってある場所も、冷凍庫の製氷皿の入れ方もよくわかんなくってさ、ホントダメダメなんだよねー。」
「これから掃除とかしなきゃいけないんですけど、道具とかがどこかも分からないという…」
「マジかー。つか、掃除とか今日はしなくても良くない?」
いつもテキパキを仕事をしている看護師さんや技士さんがそんなことで大騒ぎなんて、と思って言ってみると木村君とミコさんは顔を見合わせて苦笑いをした。
お母さんか。
今日も透析が始まった。ベッドの上で見慣れきった白い天井をボンヤリと眺めながら、僕は母親の事を考えていた。ヘッドホンでなんとなく聴いている古い時代劇の音声では、シジミ売りの少年が病気の母親の為に悪事を働こうとしている。もう、今日の僕はこれだけで泣きそうだ。僕はテレビのチャンネルを変えて、涙が溢れてしまわないように、東京の最新グルメ情報やコンビニスイーツの新商品ランキングを人生で1番熱心に見ていた。
帰宅してからも僕は、母親の事を考えている。
僕はこの家に住んでいるけど、お茶っ葉の収納場所を知らない。掃除機の場所くらいは知っているけど、掃除なんかしたことはない。昔働いていた時に何回か母にプレゼントをしたりもしたけれど、それももう十数年も前のことだ。水が溜まっている訳でもないのに、胸が重い。
腎不全と診断されたときの泣いている横顔を思い出す。
なんだかいたたまれなくなって、僕は家から飛び出した。
家から出たものの、行く宛てなんか有るわけなかった。幸い雨は完全に過ぎ去っていたけど、いつのまにか外は夜だった。スマホを持たずに出てきてしまったから時刻が分からないが、スーパーがもう閉まっていたのでまあまあ遅いのだろう。
なんとなくコンビニに行くと、入り口付近にちょっと怖そうな人々の集団が見えたので、僕は下を向いてちょっと急ぎ足で通過しようとした。
「あれー?メンジョウくんじゃん!!」
馴染みの声がした。顔を上げると、ピンクのジャージにキティちゃんサンダルを履いたミコさんがいた。
「ミコ、こいつお前の知り合いなの?」
ミコさんの隣にいる、大きめのタトゥがTシャツからチラリと見えているマッチョな男が僕を睨んだ。
「患者さんだよ。メンジョウ君って言うんだけど、めっちゃ名字、珍しくない?あ、メンジョウ君、これうちのダンナ。あと、これうちの息子3人。よろしく。」
襟足を伸ばした髪型の小さな男の子が3人マッチョ男の後ろから登場した。なんかここまで美意識を徹底していると感心してしまう。
「そんでメンジョウ君、こんなとこでどうしたの?なんか買うの?」
別に目的なんかなかったんだけど、ふと昼間テレビで見た新作スイーツの事を思い出した。
「昼にテレビでやってた新作スイーツを…母さんに買っていこうかと…」
自分の口からでた台詞に、自分で驚いた。なんだか恥ずかしいやら気まずいやらで顔が熱くなった。
「えらいっっ!!!メンジョウ君えらいよ!!ちょっとアンタら聞いた?メンジョウ君はお母さんに新作スイーツ買ってあげるためにコンビニに来たんだって!!アンタらもアタシにスイーツくらい買ってよー!!うわー、いいなあー。メンジョウ君のおかーさん、いいなあー!!」
ミコさんのテンションに気圧されてアハハと虚ろに笑いながら僕は店内に入り、母ためにちょっと高いプリンを買った。胸がドキドキして、久しぶりにレジでお金を払うのが嬉しい気持ちになった。
帰宅すると、母が玄関の前で僕を待っていた。
コンビニの前で不良に絡まれていたのではないかと心配していたらしい。あの金髪の女性はいつもお世話になっている看護師さんだというと、驚きと安堵が絶妙にミックスされた顔になった。
「あのさ、これ、病院のテレビでやってるの見て…、ほら、母さん、プリン好きだったよね?」
コンビニの袋を差し出すと、母は、驚愕の表情の見本を見せるかの様に目と口をOの字にした。
それから、母さんは、泣きながら笑った。
僕も、多分同じような顔をしていた。