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逃亡者

その日、僕たちが「ああ、今週もまた透析だなあ」なんて言いながら病院の前で送迎バスから降りると、PHSを片手に持った主任さんが、珍しくちょっと焦ったような表情で走ってきた。

「ねえ、矢田さん見なかった?」

矢田さんは、いつも僕の隣のベッドで透析を受けている、話好きで面白い元気なおじさんだ。

「え、矢田さんがどうかしたんですか?」

「いなくなっちゃったのよ。突然。行方不明。」

主任さんは肩をすくめて言った。

「えー、矢田さんって毛受くんの隣のベッドの人だよね?いつも3号車で来るんじゃないのー?」

千坂さんが首を傾げた。

「そうそう、病院までは来たんだけどね。トイレに行ってくるっていって、そのままいなくなっちゃったのよ。どうも院内にはいないみたいだから、今その辺探してもらってるんだけど…」

そのとき、僕らと同じ送迎バスの助手席から降りてきた武藤さんが、あっと言って手を叩いた。

「そういえば…さっき、窓から見覚えがあるような無いような人が見えて…誰だったかなあ、って思ってたんだけど、あれ、矢田さんだったような気がしてきた。」

「そっ、それどこっ?!!」

主任さんがババっと音がするくらいの勢いで喰いついた。その勢いに圧倒されて武藤さんは半歩後退りながら、首を捻りつつ答える。

「ええと、なんだったかなあ。…河野さんが、伊勢湾台風の時の話してた辺りなんだけど…」

そこで千坂さんが何かを思い出したようだ。

「あー、もしかしてリラックマのTシャツとか着てた人?それなら私も見たよー。あのシャツかわいいなあって思ったからー。」

「ああ、矢田さんはいつも娘さんが買ってきたかわいい服着てるからね。」

主任さんが、ちょっと大分イライラして来たのを隠し切れない様子で僕の方を見た。

「河野さんが伊勢湾台風の話してた辺りってどこ?!!!」

「ええと。だいたいいつもパチンコ屋さんの前の信号の辺りで伊勢湾台風の話きいてますけど…」

「パチンコ屋?……そ、れ、だ!!!!ありがとっ!!!」

主任さんはPHSをどこかに掛けながら走っていってしまった。


主任さんの意外に小さい白い背中を見送って僕と千坂さんは顔を見合わせた。千坂さんが、ポツリと言った。

「でもさー、どうしてもどうしてもどうしても透析やりたくない日って、あるよね。」

ある。これは本当にある。僕は深く頷いた。

「うん。僕も前に本当に本当に透析が嫌で、一回部屋に立てこもったことがあるんです。…まあ結局、呼吸が苦しくなって出てきちゃったんですけど…。」

苦笑いしながら僕が言うと、千坂さんはちょっと笑って言った。

「私も、一回脱走したことあるんだ。自転車で。」

「自転車で?」

「うん。馬鹿みたいなんだけど、自転車で逃げたの。」

千坂さんは、独言るように静かな声で話し出した。

「透析始めたばっかりの頃って、血管もまだ細くて針が上手く入らなくて刺し直しが多くて凄い痛かったし…、内出血もしょっちゅうで腕が本当めちゃくちゃ酷い色になっちゃって、それ見るだけで本当凹んじゃうし…。おまけに体重も多分あんまり合ってなかったみたいで、透析すると毎回毎回、足攣ったり、血圧下がって吐いたりしちゃうし、本当つらくなっちゃって…。」

声が少し震えている。僕は千坂さんが泣き出してしまうんじゃないかと、オロオロしてしまう。そんな俺のことなんか見えていないような遠い目で千坂さんは話し続けた。

「なんか…確か月曜日だったんだけどね、自転車を全力で漕いで夕方くらいまで漕いで逃げたんだ。薄暗くなってきて、急にお腹が空いてきて、で、偶々そこにオシャレなカフェみたいなお店があったから、入ったのね。そこで、それまでいろいろ我慢してきた食べ物とか、食べてやろうって思ったの。」

夕映えの中、髪を乱して自転車で逃げる千坂さんの姿が、僕の頭に思い浮かんだ。針の痛み、足攣り、血圧低下の辛さ、そんなものたちと一緒に、僕の胸の底にズシンと重く落ちかかって来る。

「でもね。すごく大きいフルーツパフェとコーヒー頼んで、食べてたらね、唇とか痺れてきちゃって…胸がドーンと重苦しくなってきて…あ、やばい、死ぬかも、って思ったら、突然すっごく、こわくなってきちゃって…結局、自分で救急車呼んだんだよね。それで、息子たちにめちゃくちゃ泣かれて、叱られちゃった。」

えへへ、と寂しそうに笑った千坂さんの横顔に、僕は上手く笑い掛けることができていただろうか。



僕が着替えていつものベッドで透析を開始して間もなく、矢田さんがやって来た。若手の技士の木村くんに手を引かれて、いつも通りの飄々とした様子であちこちのベッドの患者やスタッフに軽口を叩きながら歩いてくる。

「いやー、迎えにくるならカナちゃんとかリエちゃんとか可愛い子が良かったなあ。男に手を引かれて歩くなんて恥ずかしくてかなわんなあ。」

「矢田さん、おはようございます。どこまで行って来たんですか?」

僕が挨拶すると、ベッドの上にどっこいしょと胡座をかいて矢田さんはヨッと片手を挙げて挨拶を返し、一気に喋り出す。

「いやー、この木村くんっていう男は、本当に真面目だなあ。この子が迎えに来た時、俺は大当たりが出とったんだ。だから、ちょっとだけ待ってくれたら半分分けてやるって言ったんだけどな。みんな心配してます、早く戻りましょうの一点張りなんだわ。」

憮然、というか疲弊しきった表情の木村くんを押し退けるように、主任さんが駆け寄って来た。

「もーおおおおう!!透析すっぽかしてパチンコ行くなんて、なに考えてるのー!!みんなどれだけ心配したかと思ってるのー?!」

怒りながらも、ちょっと泣きそうな表情の主任さんは、なんだか母親みたいだった。

矢田さんは、きまり悪そうに頭を掻いて、(多分精一杯の)軽薄な声で言った。


「いやー、憧れの婦長さんにこんなに心配してもらえるなんて、僕は幸せものだなあ。」


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