第四話
「おーし、気合入れていくぞー」
キャンプ場までの山道を、琴音先輩は先陣を切って登って行く。
やや厚手のシャツにデニムというラフな格好だ。
そういえば、琴音先輩の私服姿を見たのも凄く久しぶりだった。
連休の初日、日が昇るにつれて平地は結構暑くなっていたが、それでも山の方は思いのほか涼しくて。体を動かすのには丁度いい具合だった。
琴音先輩はリュックを背負って、左手には彼女のお手製らしい、ショッキングピンクが目に鮮やか、というよりどぎつい二本入り木刀袋を持って。脇目も振らずに登っていく。……ひょっとして、手合わせさせられるのかな。もう二年以上、竹刀すら振っていないのだが。
琴音先輩は、はた目に見ても、判り易い空元気。
だけど、それには誰も触れず。
俺は小走りに琴音先輩に並んだ。
「琴音先輩、競争しますか?」
俺も剣道部に居た頃と比べれば随分と背が伸びて、身体能力も格段に向上している筈なのだが、それでも琴音先輩に敵うとは思わなかった。だけど体を動かしていれば元気が出るかもしれないと思って、俺は無理して山道を駆け上がった。
「あっ、負けないぞ」
琴音先輩も俺に釣られて、早足になった。
後ろの方から、部長が「気をつけろよー」と声を掛けてきて。奈緒が「元気ねぇ」と呆れた調子で呟いたのが辛うじて聞こえた。
琴音先輩にはすぐに追いつかれて。暫くは並んでいたのだが、やがて「お先ー」と置き去りにされてしまった。
さすがに、登り道で駆け足だと汗ばんでくる。
今目指しているのは、県の北東に連なる山の中のキャンプ場で、部長が提示した『縁を映す鏡』の顕現場所に近かった。それが顕現するらしい日取りは今日から明後日の間のどこかで、それも深夜らしくて。夜の山道は危険だろうけど、キャンプ場からそう遠くないため、そこに泊まることにしたのだ。
「牧嶋、遅ーい」
琴音先輩は上の方で振り返って、遅れる俺を見て指を差して笑っていた。
その笑顔は、自然な感じがして。俺なんかでも気晴らしになってもらえるならと、気合を入れて走り出した。
「ぜぇ……ぜぇ……」
結局。琴音先輩は途中から軽く流す感じで登って。それでも俺は彼女に追いつけず、最後の方は歩いているのと変わらない速度になって。キャンプ場に到着した途端、地面にひっくり返ってしまった。
「だらしないなぁ。まぁ、昔からそんなところが可愛いかったんだけどさ」
琴音先輩は寝転ぶ俺の横に座って、水で濡らしたタオルを差し出した。
俺は返事も出来ず。ただ頷いてそれを受け取ると、広げて顔に被せた。
山の水は冷たく、汗が引いていくのを感じた。
「……ありがとね。気を使ってくれて……」
タオルで彼女の顔は見えなかったが、多分、優しく、だけど悲しげに微笑んでいるだろう。普段は姉御肌でわがままな感じだが、基本的に優しい人なのだ。
俺はそのまま肩で息をして誤魔化した。何も言葉に出来なかったのだ。
俺が何を言っても、慰めにもならないだろう。だから、ただ傍にいることくらいしか出来なかった。
部長と奈緒が到着する頃には、俺もすっかり回復していて。タオルを水で濡らして、二人に差し出した。
「おっ、ありがとな」
部長は割りと平気な顔をしていて。
「……ありがと……明臣、元気ね……」
奈緒はゆっくり登ってきたにも関わらず、結構へばっていた。
「いや、俺もさっきまでひっくり返っていたよ。琴音先輩は全然平気そうだったけどな」
俺は肩を竦めて見せた。
「二人とも鍛え方が足りないぞ」
二ッと笑って見せる琴音先輩に、奈緒も安堵した様子で。肩で息をしながらも笑みを返していた。
キャンプ場の管理人から、妙な話を聞かされた。
曰く、このキャンプ場から北の方、俺たちが目的としている『縁を映す鏡』の顕現場所の方に、最近不審者が出没しているらしい。
相手は外国人らしくて、言葉が通じないらしい。
何かを守っているのか、それとも何かの修行でもしているのか判らないのだが、山中で出くわすと追い払おうとするらしい。
などと、曖昧な情報なのだが。
俺は部長と目を見合わせた。部長は難しい顔をしていたが、何も心当たりは無いらしく。行って見ないと判らん、と零していた。
琴音先輩は、「やっぱり木刀を持ってきてよかった」と自慢げだった。戦うつもりらしい。
俺と奈緒は、苦笑いするしかなかった。
俺はキャンプなんてしたことがなかったから、勝手が良く判らなかったのだが。部長と琴音先輩は慣れた様子で、食事の準備やらを手際よく指示してくれた。
無事(?)食事を終えて。近くの温泉に入ってもまだ時間に余裕があった。
『縁を映す鏡』の顕現時間は零時頃らしく。その神秘について、時間まで部長から説明を聞いていた。
「原理とか理屈は、私も知らない。情報をくれたやつも、多分詳しいことは何も知らないだろう。ただ、そういう現象が何時頃何処で起きる、ということだけ、ある程度把握しているらしい。多分、星の巡りとかも関係しているんだろうね」
部長は肩を竦めた。
「時節的なものでしたら、一昨日の夜とか合いそうですけどねぇ」
琴音先輩は俯いていて。俺は場を和まそうと軽口を飛ばしたのだが、不発だったらしい。
奈緒は、意味が判らない様子で首を傾げた。
部長も、一瞬何を言われたか判らなかったみたいだが、すぐに相好を崩した。
「牧嶋君の口からそういう話が出るとは思わなかったよ。確かに、魔女の夜なら相応しいかもしれないな。だけど、ここは日本だし」
部長は頭を振った。
「冗談は置いといて……『縁を映す鏡』の効果は確からしい。口寄せとかイタコの類の力みたいなんだが、相手が生者でも死者でも、距離や言語すら関係なく意思の疎通が出来るという話だ。触れることは叶わないがね。……生者が、意識がある状態で話しかけられたらどんなことになるのか興味はあるが。概ね死者を呼び出すために使われる神秘だが、鷲塚君の目的は果たせるだろう」
部長の言葉に、琴音先輩は目を伏せて、静かに頷いていた。
二十二時を過ぎて、俺たちは出発した。
それほど遠い訳では無いらしいが、夜の山を登るため、急ぐのは危険だと判断して、余裕を持ってのことだ。
懐中電灯を片手に、俺たちは山道を登っていく。
空は快晴で、一面の星。木々がまばらなところだと月明かりだけでも結構見通せた。
山の夜は結構冷えていて。登り道なのに殆ど汗も掻かずに済んだ。
暫く上りが続いて。なだらかなところに出たところで、琴音先輩が足を止めた。
何事かと声を出そうとしたが、琴音先輩がこちらに振り返って、口に指を当てているのに気付いて、その場で口を噤む。
その様子は、何かがいる、とでも言っているみたいだった。
キャンプ場の管理人が言っていた、不審者だろうか。
琴音先輩は木刀袋から一本抜いて。木刀袋を俺に差し出した。
持っていろ、というだけではなく。何かあれば、俺が部長と奈緒を守れ、という意思表示だろう。俺は黙ってそれを受け取り、頷いてみせた。
琴音先輩は左手に懐中電灯を持ち替えて、右手で木刀を突き出すように前に向けて。懐中電灯の明かりを右前方、それもやや上に向けた。
俺は、思わず息を呑んだ。
木の上に、人がいたのだ。
まだ距離があったから懐中電灯の明かりは拡散されていて、はっきりと見えた訳ではなかったのだが。それでも相手が女性で、輝く銀髪の持ち主だという事だけは判った。
明かりを向けられた相手は一瞬怯んだ様子を見せたが、それでも木から飛び降りて、琴音先輩の前に堂々と立ちはだかった。
その手には、棒状の物が握られていた。木刀くらいの太さの、木の枝らしい。
女はその枝を琴音先輩に向けて、何やら言葉を発した。だけど、俺にはうまく聞き取れず、それが何語かすら判らなかった。部長を見たが、首を傾げていて。部長にもよく判らないみたいだった。
「……何言ってるのか判らないけどさ」
琴音先輩は、懐中電灯を消して、ポケットに仕舞って。木刀を両手で構えた。
「──ここは通してもらうよ!」
木刀で切りかかった。
女はそれを受けて、数歩下がる。
琴音先輩は、立て続けに切り掛かって前進して。木刀と相手の得物がぶつかる音が木霊した。
女はまだ何か言っている様だったが、やはりうまく聞き取れず。
女の反撃を、琴音先輩は数回木刀で受け止めて。後ろに跳躍した躱したかと思うと、すかさず上段で飛び込んだ。
思い切り振り下ろす。
女はそれを得物で受けたのだが。大きな音を立てて、相手の得物が折れた。
それで、勝負はついた。
相手は引き下がって。闇の中に消えていった。
「ふぅ……」
琴音先輩はため息を吐くと、額を左手で拭った。気温は結構冷え込んでいたが、それでも汗が噴出していた。山道を登るよりはるかに消耗している様子。
「お疲れ様です」
俺は手を差し出して。彼女から木刀を受け取ると、木刀袋に収納して袋ごと渡した。
「向こうの得物がただの木の枝っぽかったからどうにかなったけど。あの人、剣士だね。剣道とは違うけど、何がしか剣術を習っているみたい。……何語で話してるのかはさっぱり判らなかったけど」
「どこの国の人でしょうね」
奈緒も言葉は判らなかった様子で、女が消えていった方を見ていた。