第一章1 『招待』
消えない記憶が、俺を再び「ヌナキ」へと引き寄せる。
あれは単なる夢だったのか、それとも警告だったのか。
日本への旅行を計画し、高級レストランで仲間たちと語り合う日常。しかし、その裏側で不気味な着信と「コイチ・ウメヤマ」という謎の名前が俺を追い詰める。
プロローグで触れたあの電話の音と恐怖の記憶が、現実の世界で今、再び動き出そうとしている。
狂気の入り口は、すぐそこまで迫っていた――。
なんて美しい夢だったのだろう。だが、あの頃にはもう戻れない。彼らはみんな二十歳を過ぎ、それぞれ仕事の悩みを抱えている。それでも、こうして毎日顔を合わせられるのだから、それだけでもありがたいと思わなければならない。溢れ出す思い出に胸を締め付けられ、当時の切なさを抱えたまま、ドミトリーは顔を洗いに行った。
寝室から洗面所へ向かい、ドアを開ける。部屋にはモスクワの朝焼けの光が差し込んでいた。蛇口をひねり、冷たい水に両手をかざす。この冷たさだけが、乱れた思考を少しでも落ち着かせてくれた。あの「犬鳴トンネル」のことが、どうしても頭から離れないのだ。
念入りに顔を洗い、柔らかい黄色いタオルで水分を拭き取ると、ドミトリーは日本への航空券の価格を調べてみることにした。数字はかなり現実味のないものだった。一人あたり8万ルーブル(約12万イェン)以上、荷物を含めると10万ルーブル(約15万イェン)近くになる。
「まあ、チケット代の蓄えはある。この時のために貯めていたんだ。100万ルーブル(約150万イェン)はある、これで足りるさ」ドミトリーは嬉しそうに呟いた。今日はとことん楽しんで、ついでに旅行の計画を話し合おうと決め、ドミトリーは奴らに電話をかけた。まだ眠気眼の友人たちが、次々と画面に現れる。
「おっす、みんな元気か?」ドミトリーは明るく声をかけた。
「今起きたばっかだよ、顔も洗ってないのに朝早くから呼び出しかよ」ニコライが不満げにぼやいた。
「そうそう」アルチョムが同意する。ミハイルとアレクセイは何も言わず、黙って話を聞いていた。
「お前ら、なんで電話したかっていうとさ。今日、高級レストラン『バンバイ』にお前らを招待するよ」ドミトリーは宣言した。
「それ最高じゃん!」友人たちが声を揃えた。「何時に集まる?」ミハイルが尋ねる。「一時間後だ」ドミトリーが答えると、友人たちは次々とビデオ通話を切っていった。
ドミトリーは服を着替え、両親からプレゼントされたモスクワの55階のマンションの部屋を出て、鍵を閉めた。階段ではなく、エレベーターで降りることにした。ドアが閉まった途端、スマホが鳴り響いた。着信音がどこか奇妙だった――確かに前にも聞いたことがあるはずだが、一体どこでだろうか?
電話に出ると、ニコライの声が聞こえた。「ディマ、お前一体どこにいるんだ?もう5分も待ってるぞ」
「今エレベーターで降りてるとこだよ、あと5分で行く。レストランは目の前だろ」ドミトリーは答えた。
「そっか」ニコライはそう言うと、どこか神経質そうに付け加えた。「いや、ちょっと心配になっちまって……」
「どうしたんだよ?」ドミトリーが聞き返したが、ニコライは何かを隠すように、ぶっきらぼうに遮った。「いや、なんでもねえ。早くしろよ、待ってるからな」
通話が切れた。1階に着き、エントランスを出て警備員に軽く会釈する。早歩きでレストランに向かうと、友人たちの姿が見えた。「やっと来たか!もう来ないんじゃないかと思ったぞ」アレクセイが言った。「そうそう」アルチョムがドミトリーの背中を小突く。「よし、行こうぜ」ミハイルが合図を出した。
彼らは美しく、格調高い高級レストランへと足を踏み入れた。「この店、最高に美味いステーキが出るんだよな」ニコライが言った。「そうそう、前に同僚とここで飯食ったことあるけど、評判通りだったわ」アルチョムが相槌を打つ。友人たちをここに招待して本当に良かった。エレベーターでの奇妙な電話のことも、一瞬だけ忘れさせてくれた。
「お前らは席を取っててくれ、俺が注文してくる」ドミトリーは言った。「サプライズを用意してやるよ」友人たちは窓際の席についた。ドミトリーはレジへと向かう。
「日本の最高級A5ランク、霜降り飛騨牛のジューシーなステーキを10人前。それと、ビール『ロボトミー』を8本、ノニジュースを5本」ドミトリーははっきりと注文を伝えた。会計は10万2000ルーブル(約16万イェン)。ドミトリーは現金で支払い、みんなのところへ戻った。
「注文したか?」アルチョムが聞いた。「ああ」ドミトリーは誇らしげに答えた。「30分くらい待つってさ」
ドミトリーは本題に入ることにした。「お前ら、集まってもらったのは、日本への旅行……犬鳴トンネルについて話し合うためだ」友人たちが静まり返った。
「ビザはどうするんだ?」アレクセイが尋ねる。
「俺の親父が2、3日でなんとかしてくれるさ。親父は外務省の領事局長だからな」ドミトリーは軽く手を振った。「航空券はもう2月5日の便で買ってある」
「ディマ、すまん」アレクセイが顔を曇らせた。「俺は行けない。出張が入っちまったんだ」
「俺もパスだ」ミハイルがぴしゃりと言った。「嫌な予感がする。お前らの言うそのトンネルの話は、ろくなもんじゃない」$
ドミトリーは苛立ったが、ニコライとアルチョムが味方してくれた。「俺たちは絶対に絶対に行くぜ!」
「よし」ドミトリーは頷いた。「言葉の心配がないように、日本語の喋れるロシア人を雇った。福岡の空港で出迎えてくれる手筈になってる」
ウェイトレスが、彼らの膨大な注文の品を運んできた。友人たちは大喜びだった。「食え、飲め。ニコライにはジュース、他の奴らにはビールだ。お前ら、いつもありがとうな」ドミトリーは言った。
やがて、トイレに行きたくなった。「お前ら、肉を焼いといてくれ。すぐ戻る」ドミトリーはそう言って席を立った。
中に入り、用を足して出ようとしたが、個室のドアがびくともしなかった。「おい、開けてくれ!なんで閉めたんだよ!」ドミトリーはドアノブをガチャガチャと引っ張りながら叫んだ。助けを呼ぼうとスマホを取り出したが、画面にはニコライの連絡先の代わりに、見たこともない奇妙な名前が表示されていた。
『梅山晃一』
誰だ、これは?!ドミトリーは発信ボタンを押した。電話はすぐに繋がった――。だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、耳を聾するほどの静寂と、激しく燃え盛る【炎の音】だけだった。
「っ……!」
ドミトリーは恐怖に目を見開いた。気がつくと、ドミトリーはトイレに行く手前の通路で、床に倒れ込んでいた。「ディマ、大丈夫かよ?!」ニコライが心配そうにドミトリーの顔を覗き込み、大声を出した。「俺……よくわからない。トイレに行こうとして……」ドミトリーはうわ言のように呟いた。
ニコライは周囲を見回し、『清掃中・足元注意』の看板を見つけてため息をついた。「床が濡れてて滑って頭を打ったんだよ。頭、痛まないか?」「いや、大丈夫だ」ドミトリーは立ち上がりながら答えた。「気をつけて行ってこいよ。俺たちはステーキを焼きながら待ってるからな」
ドミトリーは再び歩き出したが、頭の中にはただ一つの疑問がぐるぐると渦巻いていた。梅山晃一とは、一体誰なのだ?そして、今の不気味な出来事は、一体何だったのだろうか――。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
第1章の第1部分では、主人公の現実と、夢から覚めた後の不可解な出来事を描きました。友人たちとの楽しげな会話と、突如として訪れる異様な体験のコントラストを楽しんでいただけていたら幸いです。
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それでは、第1章の第2部分でまたお会いしましょう!もし「続きが気になる!」「面白い!」と思っていただけましたら、画面の一番下にある星評価(★)やブックマーク登録で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!どうぞよろしくお願いいたします!




