第9話 訪問者
「ちゅごーい、チュチュ……ちゅごーい!」
弾けるような声が、部屋の奥から響いた。
振り向けば、柔らかな織物の上に、理玖がちょこんと座っている。
両手を高く掲げ、まるで全身で感情を表すように、満面の笑みでばんざいしていた。
「あら、理玖。何がすごいの?」
その無邪気な姿に、微笑まずにはいられない。
「かぁたん、チュチュ……ちゅごいの!」
理玖はトコトコとこちらへ歩み寄り、懸命に言葉を紡ぐ。
舌足らずな声に、愛おしさが込み上がる。
「かぁたん、みて。チュチュ、みて!」
私の裾をぎゅっと掴み、小さな指が部屋の中央を示す。
――え?
視線の先で、赤髪の少女シュシュが静かに立っていた。
その掌の上に、淡く光る珠が浮かんでいる。
よく見ると、それはさっきの黒い魔力玉を光が覆っているのだと気がついた。
ふわりと宙に漂う魔力玉の周りにさらに小さな丸い光がいくつも浮かんでいる。
揺らぎながらも落ちることなく、まるでその小さな光が目に見えぬ糸で操っているように見えた。
あまりに幻想的で目が離せない。
「もしかして……魔法?」
思わず零れた私の呟きに、背後から穏やかな声が重なる。
「ああ、あれは初歩的な魔法ですぞ」
振り返れば、長老が白い髭を撫でながら微笑んでいた。
「あれが……初歩的、なんですか? 魔力玉の周りを漂っているいくつもの光も魔法?」
「ほう、その光が見えるのですか? さすが、賢者様のお母君」
「え? 長老には見えないのですか?」
「もちろん、見えますぞ。ですが、人間という種族のほとんどは精霊が見えないのですよ」
「精霊……?」
「そう、わしら小人族は精霊魔法を操る。魔力量の少ないわしらが魔法を使えるのは精霊の助けがあってこそなのです」
私にとっては、物が宙に浮くというだけで天地がひっくり返るほどの出来事だというのに、精霊とは……
あまりのファンタジー要素に思わず自分の存在すらも幻のように思えてくる。
魔法といえば、長老は先ほど、私にも理玖にも魔力があると言っていた。
ということは――。
私や理玖も、なんらかの魔法が使えるようになるのだろうか。
けれど理玖は、まだ二歳で幼い。
ならば――私が先に覚えよう。
理玖ができない分は、私が支えればいい。守ればいい。
胸の奥に、小さな炎が灯る。
それに……もし魔法を使いこなせるようになれば。
元の世界へ、帰る道も開けるかもしれない。
こちらへ来ることができたのだ。ならば、逆もまた然りではないか。
私はそっと拳を握りしめた。指先に、まだ見ぬ力を探すように。
「さて、他に知りたいことはありませんかな?」
長老の声に、はっと現実へ引き戻される。
知りたいことなら山ほどある。けれど多すぎて、何から尋ねればいいのか分からない。
「今、思いつかぬならばいつでもよい。分からぬことがあれば、わしだけでなく村の者にも遠慮なく聞きなされ」
「ありがとうございます、長老」
頭を下げた、その瞬間。
目の前に、半透明の白い玉がふわりと現れた。光を淡く宿したそれは、宙に浮かびながら、ゆっくりと揺れている。
「おや、風の便りですな」
長老が穏やかにそう言った、その直後だった。
ぱちん、と小さく弾ける音がして、玉は霧のようにほどける。次の瞬間、空気の中から声が流れ出した。
「お父さん、もうすぐ宴が始まるよ。ラウロが迎えに行くから」
姿の見えない声に、私は思わず息を呑み、その場に固まる。
「イオリ様、ご心配なさるな。マーラからの伝言ですよ」
「え……? だって、今……白い玉が弾けたと思ったら、急に声がして……」
戸惑いを隠せずにいる私に、長老はゆっくりとうなずいた。
「これは“風の便り”と言うのですよ。風の精霊に言葉を託し、遠く離れた相手へ届けてもらう術なのです」
す、すごい……ファンタジーだ……
そう思うや否や天井に吊るされた灯りが、ふっと明滅した。
「かぁたん……」
理玖が不安そうに私の足にしがみついた。私はすぐに抱き上げ、周囲を見渡す。
「心配いりませぬ。これは訪問者を知らせる合図です」
「訪問者?」
「おそらく、ラウロでしょうな。マーラが先ほどの便りで知らせてくれた」
「マーラ……さん?」
「わしの娘ですよ。そして、ラウロは私の孫です」
なるほど、ならば待たせちゃだめね。
私は理玖を胸に抱きかかえたまま、玄関へ向かう。
自然な温もりの木扉を開けると、傾きかけた太陽の光を背に、小柄な少年が立っていた。
小さいとはいえ、シュシュよりは年上に見える。鮮やかな赤髪を短く刈り揃え、活発そうな深緑の瞳を輝かせている。
「あ、イオリ様。宴の準備できたってさ。お母が呼んで来いって。じいちゃんとシュシュもいるんだろ?」
「宴……?」
思わず首を傾げると、後ろから長老が現れ、少年の頭を軽く小突いた。
「これこれ、ラウロ。まずは挨拶をせんか。それにイオリ様へのその口の利き方は失礼ですぞ」
「あ、ごめん!」
少年は慌てて背筋を伸ばし、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺、ラウロ。そこにいるじいちゃんの孫で、シュシュの従兄だ。……改めて、よろしく、イオリ様」
夕暮れの風が、彼の赤髪を揺らす。
ラウロは理玖をちらりと見て、眉を寄せた。
「なぁ、本当にそのチビが賢者なのか?」
「これ、ラウロ。間違いなくリク様は賢者ですぞ。わしが保証する。失礼なことを言ってはいけませんぞ。リク様に謝りなさい。それからお母君のイオリ様にも」
長老の言葉にラウロは一瞬唇を噛み締め、「悪かったよ」と小さな声で謝罪の言葉を述べた。
「イオリ様、許してやってはくれまいか。ラウロに悪気はないでな」
「もちろんですよ。理玖が賢者だなんて母親の私でさえ疑ってますもの」
私は恐縮して長老にそう言った。
外に目を向けると、夜の闇がもうそこまで来ているように感じた。
「さて、それでは参りましょうか。シュシュも行きますよ」
「うん、行こう、リク様、イオリ様」
「えっと、行くってどこへ……?」
私は意味がわからず戸惑った。
「村の広場ですぞ。今夜はイオリ様とリク様の歓迎の宴が開かれるのです」
「歓迎の宴……」
「こっちだよ、イオリ様!」
「こっちだよ!」
いつの間にか先に進んでいたラウロとシュシュが片手を上げて私を呼んでいた。
なんだかよくわからない。
でも、ここで断る選択肢はない。
「さあ、行きましょう。イオリ様」
長老が一歩進むと、私を振り返り先を促した。
「かぁたん……?」
理玖が私の顔を見つめて不思議そうな顔をした。
「そうね、行きましょうか」
私は理玖を抱いたまま、彼らの後に続いて歩き出した。
歓迎の宴が開かれているという広場へ。




