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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第7話 先代賢者の遺言

 理玖が落ち着いたのを確認して、そっと腕から下ろす。

 床に降りた途端、彼はぱっと顔を明るくして、シュシュのもとへ駆けていった。


 無邪気な笑い声が、部屋に戻ってくる。

 ……よかった。


 胸の奥に張りついていた緊張が、ようやくほどける。

 私は小さく息を吐き、ソファへ向かおうとした。


「イオリ様」

 背後から、長老の声がかかる。


「先代賢者様が、次代の賢者様へ宛てた遺言があったはずです。ご覧になりましたかな」

「あ……」

 そう言われて、記憶が引き戻される。


 机の上に置かれていた、あの紙。

 私は踵を返し、机へ向かった。


 指先でそれをつまみ上げると、わずかに紙が擦れる音がした。

 視線を落とす。


 ――次代の賢者へ

 端正な文字が、静かに並んでいる。

 読み進めるにつれ、この村の状況が淡々と綴られていく。


 結界はいずれ失われる可能性がある――

 そこで、指先がわずかに止まった。


 失われる?

 この、守られているはずの場所が?

 再び文字をなぞる。


 外には、魔獣が跋扈している――

 喉が、ひくりと引きつる。


 さっきまで笑っていた理玖の姿が、脳裏をよぎった。

 こんな場所に、一歩でも外に出れば――

 

 そして、小人族は――人間に見つかれば、再び搾取される。



 ……息が、詰まった。



 ――俺は、ここの者たちを救いたい。


 救う?

 思考が、わずかに遅れる。

 誰を。どうやって。


 問いが浮かびかけて――

 次の行が、目に入った。


 時空を越える魔法。

 そのために設けた、いくつかの条件。


 ――自らの人生に絶望したことがある者。

 ――憤りや孤独を抱えた者。

 ――できることなら、やり直したいと願った者。


 視界がわずかに揺れた。

 紙を持つ手に、力が入る。


 ――この世界で、人生をやり直してはどうだろうか。

 そして、できれば小人たちに力を貸してやってほしい。


 でもその前に、まずは俺が整えたこの村で存分に楽しむといい。


 紙を持つ手に、力がこもる。

 


 最後の一文まで読み終えたとき、胸の奥に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がってきた。

 どろりとした、黒い感情。


「……楽しめ、って……?」

 喉の奥で、声が掠れる。


 冗談じゃない。

 奥歯を噛みしめると、鈍い痛みが走った。


 ――あのとき。

 頭の奥に、焼きついた光景がよみがえる。

 視線の先に寄り添う二人の姿。

 夫の裏切りを知った瞬間。


 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。

 足元が崩れるような感覚と、胸をえぐるような喪失感。


 ――戻れるなら、やり直したい。

 確かに、そう思った。

 けれど。


「だからって……」

 指先が、わずかに震える。


「こんな場所に来たいなんて、思ったこと……一度もない……」

 私には理玖がいるのに。

 唇を強く噛み、顔を伏せた。


 視界の端で、理玖が笑っている。

 無邪気に、何も知らずに。

 胸が締めつけられる。


「イオリ様……?」

 長老の声に、はっとする。


 いけない。

 ここで感情に飲まれても、何も変わらない。


 ゆっくりと息を吸い、吐く。

 乱れた呼吸を整えながら、もう一度、紙へ視線を落とした。


 ――そのとき。

 言葉にできない引っかかりが、胸の奥に残った。


 ……おかしい。

 私はもう一度、該当の箇所を追う。


 ――召喚の条件。

 絶望。

 孤独。

 やり直したいという願い。


 さっきは、自分のことだと思った。

 けれど。


 ……違う。


 召喚されるのは、賢者。

 理玖が賢者なのだとしても、二歳の子供がそんなものを抱えているはずがない。


 最初から、噛み合っていない。


 ――選ばれたのは、理玖ではない……?

 その考えが浮かんだ瞬間、心臓が強く脈打った。


 ああ、でも長老は理玖を賢者と言った。

 賢者としての魔力を持っているとも。


 ならば、やはり召喚されたのは理玖……?

 思考が、そこで止まる。


 背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。

 何が本当なのかわからない。


 長老が言ったことも、この召喚が正しく機能していたのかどうかも。

 小さく、息が漏れる。


 もしかしたら、どこかにズレが生じたとか……。

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、視界がわずかに歪んだ。


 もし、そうだとしたら、本来はどんな形で召喚されるはずだったのだろうか。

 ……どちらにせよ、まともな状況じゃない。


 不安が、静かに広がっていく。

 それでも、私はゆっくりと顔を上げた。


 考えろ、立ち止まるな。

 この世界で、理玖を守れるのは自分しかいない。


「長老」

 声に、自分でも驚くほどの硬さが混じった。


「教えてください。この村のこと、人間のこと……知っている限り、全部」

 長老は一瞬だけ目を見開き、やがて静かに頷いた。

 ――まずは、情報だ。


 私は一度だけ息を整え、次の疑問を口にした。

「この世界にも……人間はいるんですか?」

 問いかけた瞬間、長老の表情がわずかに曇る。


「……おりますとも」

 静かな声だった。だが、その奥に沈んだものは重い。


「ですが――彼らはわしらを対等とは見ておりませぬ」

 長老の視線が、遠くへと向く。


「人間のもとで強制的に働かされていた時でした。ある冬の日、足を折った仲間がおったのです」

 長老は、遠くを見るように目を細めた。


「働けぬと判断されたその日のうちに、森へ捨てられました」


 ……言葉が、続かなかった。


「翌朝には――もう、姿はありませんでした」

 短い沈黙が落ちる。


 ……寒さか、それとも。

 喉の奥が、ひゅっと狭くなる。


「……それが、特別なことではなかったのです」

 長老は静かに続けた。


「わしらは……使える間だけ、価値があったのです」

「使えなくなれば?」

 思わず私は聞き返した。


「――捨てられます」

 長老の視線が、床へ落ちた。


「わしらだけではありませぬ。他の種族もまた、同じように扱われてきました」



 そこで一度、言葉が途切れた。

 長老は遠くを見るように目を細める。


「……百年前、賢者様が手を差し伸べてくださらなければ、今のわしらはなかったでしょうな。逃げ延びたわしらは、賢者様の力でこの森の奥に村を築いたのです」

 それが、この場所。

 この閉ざされた、安全な世界。


 ――だからこそ。

 彼らが先代賢者に向ける信頼は、揺るがない。


 そして同時に――

 その“次代”として現れた理玖に、どれほどの期待が向けられているのかも。

 私は、シュシュと遊ぶ小さな背中を見つめた。


「チュチュ、こっち!」

 無邪気な声が、やけに遠く感じた。


 この状況を理解しなければ、生き残ることすらできない。

 

 小さな背中が、無防備に揺れている。

 何も知らずに、笑っている。


 ……もし、この世界が間違っているなら。

 もし、この召喚にズレがあるなら。


 ――関係ない。

 この子が笑っていられるなら、私が正しい形にしてみせる。

 たとえ、どんな手を使ってでも。


 私は拳を握り締め、確固たる決心を胸に刻み付けたのだった。



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