第39話 白狼族の事情①
「フェイ。一人で出歩いてはならんと言ったはずだ。いくら冬場とはいえ、獰猛な魔獣がいないとは限らないんだ」
白髪の男、ラザは、目の前に立つ小さな少年を低い声で諭した。
少年もまた、父と同じ白い髪をしている。肩にかかる毛皮をぎゅっと握りしめ、悔しそうに唇を噛んでいた。
「だって……!」
フェイと呼ばれた少年は、父をまっすぐ見上げて言い返す。
「小海にさえ入れれば、俺たちはもっと強くなれるんだ。母ちゃんだって、元気になるかもしれないじゃないか!」
唇を噛み締め、涙目で訴える我が子のその言葉に、ラザは一瞬だけ表情を曇らせた。
ここは岩山の中腹に口を開けた洞窟。
幽玄の森の奥深くにあり、小人族の村からは数キロほど離れた場所だった。
この洞窟に身を寄せているのは、白狼族の一団だ。
かつては数百もの同胞がいた一族。
だが今では、その数は五十にも満たない。
彼らは長年暮らしてきた故郷――「アクアウッド」と呼ばれる土地を、人間たちに追われたのだ。
土地を去る時には半分以下になった同胞たちも、逃げ延びる旅の中でさらに減り、ここへ辿り着いたときには、すでにその数になっていた。
アクアウッド。
それは、人の足がほとんど踏み入れることのない自然の楽園だった。
緑深い森を背に、弧を描くように白い砂浜がどこまでも続く。
そして海は、不思議なほど美しい色をしていた。
岸辺では、淡い翡翠のような緑。
少し沖へ出れば、澄みきった蒼へと変わる。
さらに遠くでは、深い紺色が水平線へ溶け込んでいく。
海と風の精霊たちが集う場所――。
白狼族は、古の時代からその地を棲み処としてきた。
だが、それも数十年前に終わりを告げる。
人間たちが、その土地を“リゾート地”として開発し始めたときからだった。
「父ちゃんは言ってたじゃないか。海は俺たちを強くしてくれる源だって。だったら……母ちゃんだって――」
そこまで言って、少年フェイは悔しそうに口をつぐんだ。
頬を伝う涙を、手の甲で何度も乱暴に拭きながら足元の岩肌を睨みつけている。
白狼族は、もともと海岸沿いで生きる民だった。
海からの恵みを受けて暮らす一族である。
海に身を浸せば、そのエネルギーを体に取り込み。
海の魚や貝を食せば、力が満ちていく。
そうして彼らは、長い時を生き抜く強さを保ってきたのだった。
けれども――人間たちに追われ、ここまで逃げ延びてきた今、その海は遠い。
この岩山の周囲には海がない。
森をはるかに越えた先に海はあるが、そこは切り立った断崖絶壁。白狼族の力をもってしても、海へ降りることはできなかった。
そんなある日、彼らは見つけたのだ。
森の奥に、潮の香りを漂わせる湖を。
水面は静かなのに、どこか海のような広がりを感じさせる不思議な湖だった。
だが、その湖は結界に守られていた。
いくら近づこうとしても、見えない壁に阻まれ、踏み入ることができない。
何度も結界を破ろうと試みたが、びくともしなかった。
これほど強固な結界を張れるのは、未知なる魔法が関わっているに違いない――。
そう確信して周囲を探ったとき、彼らは湖の向こうに住む者たちを見つけた。
とはいえ、それは人間にしてはあまりにも小さい。
小柄な体、素朴な衣服。
それを見て、ラザはすぐに思い当たった。
かつて耳にしたことのある種族――小人族だ。
小人族は、昔、人間たちに迫害されていたという。
だからこそラザは考えた。
敵対するのではなく、交渉できるのではないかと。
湖を、少しだけ使わせてもらえないか――そう頼もうとしたのだ。
しかし、彼らは聞く耳を持たなかった。
いや、正確には――近づいてさえ来なかった。
白狼族の姿を見るだけで、怯えて逃げてしまうのだ。
結界を通り抜けられるのは、小人族より力の弱い小動物や、攻撃性のない生き物だけのようだった。
小人族はきっと思っているのだろう。
白狼族が、自分たちの住処を奪いに来たのだと。
だが――。
白狼族に、そんなつもりはなかった。
次第に、同胞たちは弱っていった。
とりわけ影響を受けたのは、女と子どもたちだった。
海の恵みを失った体は、目に見えるほど急速に力を失っていく。
ラザの妻、シャーレも例外ではなかった。
特にフェイを出産してからは、みるみるうちに体力を失っていった。
今では起き上がることさえ難しく、洞窟の奥で横になっている時間がほとんどだ。
とくに冬になると、その傾向はひどくなる。
一日の大半を眠って過ごすようになり、目を覚ましている時間の方が少ないほどだった。
そんな母親の姿を、フェイはずっと見てきた。
自分のせいで弱ってしまったのだと、感覚的に察しているのかもしれない。
だからこそ――。
なんとかしたいと願い、あの小海へ向かおうとするのも無理はない。
「フェイ、大丈夫だ」
ラザは息子の肩に手を置き、静かに言った。
「もしかしたら……あの人間が、話を聞いてくれるかもしれない」
「人間?」
フェイはすぐさま顔を歪めた。
「人間なんて信用できるもんか! みんなが言ってた。人間のせいで、俺たちは故郷を追われたんだって!」
「……ああ、そうだ」
ラザは短くうなずく。
「だがな。あの人間は、どこか違うように見えた」
「どこが違うんだよ!」
苛立った声が洞窟に響く。
ラザは少しだけ目を細め、あの日の光景を思い出すように言った。
「お前は、人間を見るのは初めてだったな。だが我々にとって、人間の魔力というのは――どこか禍々しく感じられるものだ」
多くの人間が放つ魔力は、濁りを帯びている。
欲望や恐れ、傲慢さのようなものが、混ざり合ったような気配。
「だが、あの小人族のそばにいた人間は違った」
ラザの声は、どこか不思議そうだった。
「禍々しさがまるでなかった。それどころか……」
少し言葉を探し、
「どこか清らかな気配を感じたんだ。それにあの女性が抱えていた子どもは……」
そのときだった。
「フェイ……ごめんなさいね」
か細い声が、洞窟の奥から聞こえた。
二人が振り向く。
そこに立っていたのは、細身の女性だった。
艶を失った白い髪。
やせ細った頬。
本来ならまだ若いはずなのに、その姿は実年齢よりもずっと老けて見える。
ラザの妻、シャーレだった。
「母ちゃん! 起きて大丈夫なの?」
フェイが慌てて駆け寄る。
「ええ……今日は、なんだか少し調子がいいの」
シャーレは微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか弱々しい。
ラザの目には彼女が必死で体の辛さを隠しているように見えた。
「シャーレ、無理をするな……」
ラザは妻を見つめながら、低く言った。
胸の奥に、どうしようもない苛立ちが渦巻く。
強く拳を握り締める手が震える。
目の前で弱っていく妻。
それなのに、自分には何もしてやれない。
その事実が、ラザの心を静かに蝕んでいた。




