第16話 山脈の向こう側
「イオリ様、摘み取った綿花はこちらで糸を紡いでいるんですよ」
「ということは、綿花の畑があるんですね」
「畑というより、森の中に自生している場所があるんです」
「そうなんですか?」
この森の恵みは、思っていたよりずっと豊かなのかもしれない。
「ええ。綿花は夏の終わりに摘み取るんです」
「ここで糸を紡いで――」
「そのあと染色して――」
「かぁたん、みて」
マーラさんの説明の途中で理玖の声が耳に入った。
いけない!
理玖が糸車に手を伸ばしかけている。
「あ、だめ、それは触ると危ないよ」
私は慌てて理玖の手を後ろから掴んだ。
「……まあ、ここが、すべての始まりってことなんですよ」
その様子を見ていたマーラさんが苦笑混じりに説明を終わらせる。
「イオリ様、わたしはいま糸紡ぎだけど、来年からは染色を任されるの」
そのタイミングを見計らって、マーラさんの隣にいたシュシュが、得意げに胸を張って言った。
「そうなのよぉ。シュシュは本当に手際がよくて、仕事も丁寧でねぇ。あのラフの子とは思えないくらい、できた子なんだよ」
目を細めてシュシュを見つめるマーラさん。
「ラフ……?」
聞き慣れない名前に、私は首をかしげる。
「ああ、あたしの弟さ。あれは何でも大ざっぱにやるんだ。それでいて、そこそこ形にしてしまうから始末に負えないんだけどねぇ」
「はあ……」
どう返せばいいのかわからず、私は曖昧にうなずく。
適当なのにできてしまう弟と、丁寧で努力家の娘。
なんとなく、その光景が目に浮かぶ気がした。
「姉さん、イオリ様と賢者様がいらしてるって?」
「あら、アロア」
現れたのは、マーラさんよりやや痩せぎみで、彼女より少し背の高い小人の女性だった。
金髪を後ろでひとつに結んでいる。
「アロア……?」
思わずつぶやくと、その女性はすたすたと近づいてきて、いきなり私の手をぎゅっと握った。
「イオリ様、ぜひぜひ、私たちの食品工房にもいらしてください!」
「え、えっと……」
「あっ、ごめんなさいね。うれしくて、つい。私はシュシュの母で、マーラの義妹のアロア。食品工房を任されているの」
「まったく、アロアはいつもせっかちなんだから」
マーラさんがたしなめると、アロアさんは「そうね」と苦笑いを浮かべた。
「でも、アロアさんとシュシュって親子なのに、同じ工房じゃないんですね」
率直な疑問を口にすると、
「どこで働くかは本人次第よ。シュシュは小さいころから衣類作りに興味があったからねぇ。だから、服飾工房で働くことになったのよ」
アロアさんは、愛おしそうに娘へ視線を向けた。
「そうなんですか。それで……食品工房というのは、もしかして味噌や醤油を作っていたりしますか?」
私は期待を込めて尋ねた。
「もちろんよ。先代賢者様は、とりわけ味噌と醤油にこだわりがあってね。この世界に召喚されたときは、味噌も醤油も米も、好きなものが何ひとつなくて絶望したって話よ」
「え? 先代賢者様も召喚されたんですか?」
胸がどくりと鳴る。
日本から来たのなら、確かに召喚以外は考えにくい。でも――誰に?
「ええ、ジェロール帝国の魔導師たちに……と聞いているよ」
アロアさんは、そこで一度言葉を切った。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。
「……そのあと、体に紋を刻まれてね。命令に逆らえば――」
「アロア」
マーラさんが、静かに名を呼んだ。
その一言で、空気が止まった。
さっきまで聞こえていた、鍋の煮える音も、布を擦る音も、
すべてが遠くに引いていく。
――静かすぎる。
誰も、続きを口にしない。
けれど。
言葉にされなかった“その先”だけが、はっきりと胸に残った。
肌に刻まれる紋。
逆らえない命令。
「……ごめんなさいね、イオリ様。少し、話が過ぎたみたいだわ」
アロアさんの声で、ようやく空気が戻る。
けれど一度冷えた胸は、しばらく元には戻らなかった。
「でもね、最後はここで穏やかに暮らしていたの。それだけは間違いないわ」
その言葉で少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
「さあ、こっちよ、イオリ様」
アロアさんが先に立ち、軽やかな足取りで歩き出す。
私と理玖は、そのあとに続いた。
理玖はきょろきょろと辺りを見回し、見るものすべてが珍しいといった様子だ。
ふと、中央にある建物の前を通り過ぎようとしたところで、私は足を止めた。
「あら、この建物は?」
振り返って尋ねると、アロアさんは「ああ」と頷く。
「そこはね、いろいろな製品を置いてある場所なのよ。私たちはそれぞれ得意なものを作って、この中の棚に並べておくの。そうすると、村の者たちが必要なものを、自由に持っていける仕組みなの」
「自由に……?」
思わず声が漏れる。
誰が、どれだけ持っていったか――管理は?
「足りなくなったらどうするんですか?」
「なくなれば、また作るだけよ」
あっさりとした返答に、言葉を失った。
「せっかくだから、中を見ていきます?」
「いいのかしら?」
「もちろんよ」
アロアさんの言葉に甘え、建物の中へ足を踏み入れる。
中には、服飾品や食品加工品、生活雑貨や小物、さらには家具や見慣れない道具まで、整然と並べられていた。
――これを、必要に応じて自由に持っていっていいなんて。
思わず息をのむ。
小人たちは、それぞれの得意分野で物を作り、こうして互いに支え合っているのだろう。
「ここにないものはね、注文を受けて作ることもあるのよ。“風の頼り”でね」
アロアさんが、少し楽しげにそう付け加えた。
それから私と理玖は、アロアさんの案内で食品工房を見て回った。
ここでも皆が手を止め、にこやかに私たちを迎えてくれる。
味噌の香りや、何かを煮込む湯気の匂いが漂う、どこか懐かしい空間だった。
けれど私の胸には、先ほどの話が重く引っかかったままだった。
ジェロール帝国。
魔導師。
その言葉が、何度も何度も頭の中で反芻される。
賢者を召喚した――それはつまり、賢者の力を欲したということだ。
強い力を。
視線が、無意識に理玖へ向いた。
小さな手。
何も知らない顔。
理玖の存在は、絶対に知られてはいけない。
気づけば、拳を強く握りすぎていた。
「イオリ様……」
体に刻まれた紋がどんなものか、詳しく知らなくても想像はつく。
きっと、逃げられないようにするためのもの。
「イオリ様……?」
「かぁたん……」
くい、と服の裾を引かれ、はっと我に返る。
「え? あ……すみません、ぼんやりしてしまって」
心配そうに、アロアさんが私を見上げていた。
「イオリ様、ごめんなさいね。あんな話をしてしまって。でも大丈夫よ。ほら、この森の奥に高い山が見えるでしょう?」
窓の向こうを指さす。
目を向ければ、頂に白い雪の冠を被った壁のように立ちはだかる山が連なっていた。
「あれはこの世界最大の山脈なの。ジェロール帝国は、あの向こう側。山脈を越えてこちらへ来る者は、滅多におりませんから」
アロアさんもまた、子を持つ親だ。
きっと、あの話から私が理玖を案じていることに気づいたのだろう。
「そう……ですね」
なんとか笑みを作って答える。
そのとき、ふと疑問が浮かんだ。
「あれ? アロアさん、先代賢者様から直接話を聞いたとおっしゃってましたよね。それって百年ほど前のことですよね? ということは……」
私が言いかけると、アロアさんはくすりと笑った。
「ふふふ。イオリ様のおっしゃりたいことはわかりますよ。私は今、百十八歳。義姉のマーラは百二十四歳。まだまだ人生の中盤にも届いていません」
そこで私は、ここへ来たばかりのころ、長老が言っていたことを思い出した。
――小人族の平均寿命は、およそ三百年。
あらためて、彼らとの時間の流れの違いを実感するのだった。
けれど――
帝国があるというあの山脈の向こうにも、同じ時間が流れているのだ。
いつか、その時間がこちらへ歩み寄ってくることはないのだろうか。
山の向こうを見つめる。
その頂にかかる雲が、ゆっくりと形を変えた。
――まるで、こちらへ流れてくるみたいに。
無意識に、理玖の手を握る。
小さな温もりだけが、確かなものだった。




