三十 狂言「秋の脇」 ――柿はまだあるもいでござれよ
文台の上に、句が、二十八。
絣の客は、柿をあと三つ食うて、日の暮れかかる前に、帰っていった。
「野道は、暗いと、歩けませんのでね。——歩けるうちに、歩きます」
戸口で、客は、文台を振り返って、何か言いかけて、やめた。
「……よい巻に、なりそうだ」
それだけ言うて、弾む足取りで、露の野へ出ていった。
さて、四度目の脇である。
冬は筆に挨拶し、春は景色に客を置き、夏は掟をこしらえた。四度目ともなると、座には、もう、賭けも期待もなかった。何が出ても驚かぬ、という顔で、みな、燗を持っていた。
センセは、文台の発句を、一度、読んだ。
柿くへば、鐘が鳴るなり、法隆寺。
読んで、表の柿の木を、一度、見た。
「——柿はまだあるもいでござれよ」
執筆の筆が、下りた。
座が、静まり返った。
驚かぬはずの顔が、全部、驚いていた。
「……センセ」と、女が、恐る恐る言うた。「いまの、まっすぐな挨拶でしたね?」
「うむ」
「筆にでもなく、景色にでもなく、掟にでもなく。……お客さんに、まっすぐ、また来て柿をもいでいけ、と」
「うむ。……うむ?」
センセの顔が、みるみる、曇った。
「……待て。ズレて、おらんか? わしの句が? どこも?」
「ズレてません」
「そんなはずはない! わしの脇が、まっすぐなわけがなかろう! どこかズレておるはずじゃ。探せ! 皆で探せ!」
自分の句の疵を、血眼で探させる宗匠は、古今東西、この男だけである。
座は、義理で、探した。
「……強いて言えば」と、女が言うた。「柿の字が、発句と、被ってますね」
「——被っておるか!!」
センセの顔が、ぱっと、晴れた。
「よし! 疵じゃ! 同字の疵じゃ! ああ、よかった。わしは、わしのままじゃ」
「いえセンセ、脇は発句に寄り添うのが作法ですから、同字も柿なら、これは疵というより——」
「疵じゃ! 疵ということに、しておけ!」
疵がないと、おのれでいられない男なのである。座は、疵ということに、しておいた。優しさである。
騒ぎが収まってみれば、句は、静かに、良かった。
柿はまだある、もいでござれよ——。
もう食えぬ人に、まだある、と言うた。もう来られぬ人に、もいでござれ、と言うた。
死んだ人に、また来い、と言える家は、この世に、そう多くない。この庵は、その少ない一軒であった。表の柿は、あの客のために、いつまでも、たわわのままであろう。巻が、そう決めたのだから。
燗が一巡りして、センセが、ふと、指を折りはじめた。
「……発句、脇、と来て。残り、七句か」
折り終えて、センセの指が、止まった。
「……おい。……花の定座が、まだ、空いておるぞ」
座が、しんとなった。
花の一字は、定座のために、三十四句のあいだ、誰にも使わせずに来た。忠度どのにも、道真公にも、使わせなんだ。
残りは、七句。修羅、狂言、鬘、狂言、雑、狂言——そして、切。
数えれば、分かるのである。花の座に届くのは。
「……切しか、残っておらん」
切は、鬼の座である。
「……鬼に、花を、持たせるのか。この巻は」
誰も、答えなかった。
表の柿の木で、熟れた実が、ひとつ、落ちる音がした。
文台の上に、句が、二十九。
——柿はまだあるもいでござれよ
名残の折である。
残りの句を数えはじめたら、巻は、もう、仕舞い支度である。
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