二十八 人麻呂 ――岩枕して待つ人へ秋隣
戸を叩く音が、波の拍子であった。
二度寄せて、引いて、また二度。
潮の匂いが、その音と一緒に、濃くなった。
古い装束の官人が、立っていた。
どれほど古いかは、装束の型で知れた。座の誰の覚えよりも、型が、古いのである。
痩せた、目の深い、髭の長い人であった。手に、筆を、一本だけ持っていた。矢立も料紙もなく、筆だけを、杖のように持っていた。
円座に着いて、白湯を受けて、官人は、庵の内を、ゆっくり見回した。
「……歌の座は、久しい」
と言うた。声が、深かった。深い、というより、遠かった。井戸の底から届く声のような、時間の遠さである。
文台の巻を、官人は、一句ずつ、指でなぞって読んだ。
読み終えるのに、長くかかった。読み終えて、言うた。
「……名が、ないのだな。どの句にも」
「はい」とセンセが言うた。
「よい。……歌は、名より、古い」
名より古い歌の側から来た人の言いようであった。
それから官人は、文台の前の少女を、見た。
長く、見た。
見て、静かに、言うた。
「……そなたは、送る側の、者だな」
少女は、筆を持ったまま、官人を見返した。
座の誰も、口を挟まなかった。挟める話ではなかった。
「わたしも、送る側であった」
と官人は言うた。
「宮の御子を送り、皇子を送り、妻を送り——浜の、名も知らぬ行き倒れの人まで、送った。狭岑の島の、岩の上の人であった。誰とも知れぬ。なれど、波に枕して臥せる人を、歌わずに通ることが、わたしには、できなんだ」
「……それだけのことを、千年、誉められておる、とお思いでしょう」とセンセが、静かに言うた。「なれど、それだけのことが、千年、誰にもできなかったのです。名も知らぬ死人に歌を手向ける、ということが。……あなた様が、最初です。最初で、しばらく、最後でした」
官人は、答えなかった。
答えない代わりに、発句の方を、指した。
「……この巻は、蠅を、打たなかったそうだな」
「打ちませんでした」
「よい巻だ」
名もない死者に歌を手向けた人が、蠅を打たない巻を、よい、と言うた。千年の距離を越えて、同じ側の話であった。この折は、初めから仕舞いまで、弱いもんの側から、巻かれたのである。
燗が回って、官人は、ぽつりと言うた。
「近頃は、火伏せの神を、しておる」
「は?」
「ひとまろ、が、火、止まる、に聞こえるそうでな。火事除けの願いを、日に、いくつも聞く。……安産の願いも聞く。人、生まる、だそうだ」
官人は、すこし、笑うた。
「歌が上手になりたい、という願いは——めったに、来ぬ」
歌聖の、千年後の勤め先の話である。笑うところなのか、そうでないのか、座は判じかねて、曖昧に笑うた。道真公の受験といい、神様の職掌は、当人の存念とは別のところで決まるものらしい。
囲炉裏の端で、爺が、湯呑みの陰から、ぽつりと言うた。
「……岩根の枕は、冷たかったろうねえ」
官人の目が、爺を見た。
鴨山の果ての、誰も知らぬ最期を、知っているはずのない者の言葉である。知っているはずのない者が、この座には、一人だけいる。
官人は、何も問わなかった。問わずに、目礼だけを、した。
見ていた者がいた、ということが、千年の岩枕には、それで足りるのである。
「二十七句目を」と女が言うた。「夏の折の、詰めでございます」
官人は、頷いて、手の中の筆を、見た。
「わたしの仕舞いの歌は、岩を枕に、と詠んだ。……妻が、知らずに、待っておろう、と。……あれきり、続きを、詠んでおらぬ」
千三百年、続きを詠んでいないのである。
待っている人へ、続きを。
官人は、目を閉じた。
「——岩枕して待つ人へ秋隣」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
岩を枕にしたまま、待つ人のほうへ、季節だけが、渡っていく。
もうすぐ、秋。
千三百年前の、届かなかった便りの、これが続きであった。
「……届きますよ」
と、女が言うた。
「便りは、待ってる人には、追いつきますから。……待ってる人には、なおのこと」
「……そうか」
官人は、白湯の残りを、飲み干した。
立ち上がって、戸口で、官人は、文台の少女を、もう一度、見た。
「送りびとよ」
と言うた。
「……そなたを送る者も、いつか、あるぞ」
それだけ言うて、潮の匂いの中へ、出ていった。
波の拍子が、遠ざかって、引いて、戻らなかった。
表の潮の香が、夜のうちに、抜けた。
代わりに、朝の風が、すこし、乾いていた。秋の匂いの、し始めであった。
文台の上に、句が、二十七。
——岩枕して待つ人へ秋隣
夏の折が、果てた。
巻は、残すところ、一折。
送る側の者に、送られる日が来る、という話を、少女がどう聞いたかは、筆の運びからは、分からなかった。
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